第7話 預流の巻
藻は手紙の意味を理解しないまま、預流宛だと思い込んで手渡してしまった。
沙羅だって預流のもとに来た当初は字が読めなかった。今は「これが何の役に立つんですか」とぶうぶう文句を言いながら手習いをやっている。
検非違使たちが靖晶に頭を下げるかどうか上官に判断を仰いだのは右大将の姫君から賜った蝙蝠扇が上品で風格があったというよりは、難しい漢文が書いてあったのでそれなりの役人だと思ったのだ。――検非違使放免は元罪人でよその役所の下官より更に身分が低いなら、字が読める者などほとんどいないだろう。
藻は、占いの才で高級貴族に気に入られてもそこで止まる。ただ話していて楽しい女の子、という以上のものにはなれない。愛人にでもなれればいいところだ。
「ええ。藻さんの他にあれを書いた者がいるということになれば――その者は大逆罪で指、いや手首を切り落とされる、ということになりかねませんよ。ぼくらの知らないところでぼくらの知らない誰かが二度と筆を持てないように」
靖晶が低い声で言うのは脅しているつもりなのか。
「呪詛は昔は死罪でしたが、今は死罪は残酷だから禁じています。死人が悪鬼疫神、怨霊などになって都を呪い、疫病を流行らせたりしたらたまったものではありませんからね。人の手で殺したりはしないのです」
「知らない人じゃないでしょう、お友達でしょう。陰陽寮の官は皆、あなたの親戚で試験に落ちてどこかに消えてしまう人もいるのよね?」
手紙を袂に戻す。そのまま持っていると握り潰してしまいそうだから。
残念ながらこちらは十三の子供とは違うのだ。もとから地面に立っている。受領だろうが大臣だろうが関白だろうがかまうものか。
知り合いなら筆跡で誰とわかるはずだ。誰かわかった上でのあのやり取りだったのだろう。
「――その人のためにその子に濡れ衣を着せたわね」
「きっとあの人は賢木中将に保護されていますよ、出入りのまじない師が呪詛で捕らえられたら中将にだって悪い噂が立つ。あくまで会ったことのないこの子を有罪にする方向で進むでしょう」
彼は肩をすくめてため息をつき――また背筋を伸ばした。
「使庁が捕らえた罪人の申し開きなど聞くとお思いですか。彼らはお裁きの前に〝尋問〟をしますよ。死なない程度にひどい目に遭わせる。どのみち指でも切られたら字が書けるかどうかなんて誰にもわからなくなります。ここで庇ってやるしかないのです、獄に入れられたら手出しできなくなる。今、この場でぼくが助けられるのは藻さんだけです」
声音は堂々としているわりに、預流を見ようとしない。
「清涼殿の東庭でぼくを苦しめた犯人が必要なんですよ」
自分でも信じていないことを言っているから。
「犯人って、何言ってるのよ。からかってるの? それを書いた人ならまだしも。あなたを苦しめたって、あなたの足が勝手に攣っただけなのに犯人も何もいるわけないでしょう。あなたが信じているならまだしも、あなただってそんな犯人なんかいないことを知っているのに?」
「犯人はいますよ、呪詛に遭った御方がいらっしゃるのですから。いないなんてどうして知っているのです」
「知ってるわよ。先月の主上の体調不良ってただの夏バテでしょう。あなたの足だってそうだったでしょう。二人とも、滋養を摂ってよく寝ろってだけだったわ。実際今、涼しくなって長く突っ立ってたって平気なほどになったじゃないの」
預流は違う。自分を信じているので彼から目を逸らさない。
「暑さに負けた人が二人いたってだけで藻は邪悪なまじない師扱いで京の都を追われるの? そうしないと誰も納得しないから?」
預流は辺りを見回した――並んでいた元客、騒ぎを聞きつけた野次馬、どちらも預流と目が合うと袖や扇で顔を隠してそそくさと去った。検非違使が去って一番の見どころは終わった。何やらおっかない尼に自分まで因縁をつけられたらたまったものではないというところか。
日が沈む頃合い、市は店じまいもあってたちまち社の前は三人だけになった。昼間の盛況が嘘のようだった。
「納得、大事ですよ」
「笑わせないで」
信念もない連中を納得させてやらねばならない道理などあるか。
そもそもここにいもしない人もたくさんいるというのに。
「――九年前に牛車が倒れて初瀬さまが亡くなったとき、内大臣家では犯人捜しをしたわ」
預流が全然関係のない話を始めたせいか、靖晶が少し視線を上げた。
「内大臣さまはひどくお怒りでそのときおそばにいた牛飼い童や
自嘲が混じる。子供の頃は自分の愚かさに耐えられたのはどうしてだろう。
「でも熊野から吉野へ抜けて、たまたま京を訪れていた
数珠をぎゅっと握った。この数珠は己への戒めに取っておこうと思った。
「人の死に意味はないかもしれない。理由はないかもしれない。木が花を咲かせ散らせるのに理由がないように。太陽がまぶしいのに理由がないように。雷が落ちるのに理由がないように。全てのことに自分にわかるような意味や理由があると思い込むのは人の傲慢だ」
――この世は。
意味がないものほど美しいのかもしれない。何やら難しい話が始まって涙が引っ込んでしまったらしい藻の顔を見てそう思った。
「初瀬さまの死に意味はなかったかもしれない。理由はなかったかもしれない。死者を悼むとは意味や理由を探すことではない。理由を探して人を責め苛むのは間違っている。死者が何のために生まれて何のために生きたのか、何のために死んだのか確かな証がほしい、それが親の心か。そんなものを欲して何になる。親の慈愛などではなくただの浅ましい煩悩ではないのか。どれだけ周りを責め立てたとて証すことなどできはしないしどんな理由があったところで納得などできるはずがない、永遠に。そんなことをしても人は人の死を受け容れることはできないのだ」
あの日の上人の説法を、預流は一字一句繰り返すことができる。日記に記してあるから。文字が書けるとはそういうことだ。忘れることがない。
「初瀬さまは意味も理由もなくても生きていたしわたしたちはそんなものがなくても初瀬さまの死を悲しみ悼むことができる。故人を偲ぶならばただ一心に全てを振り捨てて
今でも信じている。
この世に信じるに値するものはそう多くはないとわかった後でも。
「僧綱なんて方じゃなかったわ。位も何もなく寺にもほとんど寄りつかない
――本当は知っていた。検非違使は大臣ほどの人が多少何かしたくらいで動くものではないと。
「それで捕らえられて、あちらのお家の皆さまがわたしからも止めてくれと言い出して。このまま怒りに任せて通りすがりのお坊さまを責め苛んで殺めたら内大臣さまが地獄に落ちると、やっと皆わかったのよ。牛飼い童や随身ならどうなってもいいと思っていた自分の浅ましさを思い知った。わたしもよ。もう
――それで靖晶がやっと預流を見た。
少し惑ったような瞳で。
預流には後ろ暗いところなど何もないのでまっすぐに見つめ返す。
「以来わたしもずっと経を誦して、間違ったことは間違っていると言うのよ。その後も意味もなく理不尽に死んでゆく人はたくさんいたわ、
ここにはまだ言葉の全てを尽くす余地がある。
「あなたは消えたお友達にも呪いにも向き合わず、ただこの場で他人を納得させるために藻を播磨に流して間を取ったつもりでいるだけよ。そのやり方では藻のこともお友達のことも本当に救えはしないのよ。何もないところには何もないの。世間を納得させるために人を右に左に動かすなんておかしいわ」
そもそもこの話は承香殿の内裏女房などを〝納得させる〟ために始まったと思うと。
――靖晶の返事は。
「つまりあなたのそれは信仰と言うが、猿真似に過ぎないと。ちょっとがっかりだな」
彼の声音に澱むところはなかった。閉じたままの扇でこめかみを掻く。まだ指のささくれから血が垂れていた。
「格好のいい人が目についたからはしゃいで真似を始めただけだったのか。その程度で世俗の全てを投げ捨てた、人生を捨てた、尊い修行をなさっているとおっしゃっていたのか。なるほど、権律師さまが勢いで出家しただけとおっしゃるのも無理はない」
靖晶が預流に向き直った。それは彼女の話が通じたからではなく。
「木に花が咲いて散るのも太陽がまぶしいのも雷が落ちるのも理由がありますよ。あなたが知らないだけです。知らなくても生きていけると諦めてしまっただけです」
陰陽師が本気で戦う気になったらしかった。
* * *
その頃、僧と主とは市を抜け出して待たせてある牛車に向かっていたが。沈む間際の夕日の光のもとでは光が照り映えて互いの顔も見えず、影ばかりが暗い。
「そろそろ女二の宮にも沙汰を下すことを考えなければなりませんよ」
「源四郎」
「これで弑逆未遂は二度になりました。此度は播磨守の機転で女二の宮を追及しないことになりましたが、いつもこうはいきません。しかも
「お前の言い方は怖いのだ」
「この話を優しく申す者などいないと思いますが」
主の声は沈んでいたが、ふと明るくなった。
「……結局あの尼は何だ? 式部卿宮とか言っていなかったか?」
――逃げられた。あまり追い詰めて機嫌を損ねてもまずいとはいえ。
「式部卿宮の妹御、左大臣家の姫でありながら受戒もしていない
「式部卿宮の妹、あれが!」
今頃、主が驚くのが苦々しい。
「尼にしては若くて可憐なので宮が秘蔵しているという〝初草の君〟――顔を晒して外を出歩いているとは。女人は小さな声しか出ないのかと思っていたのに大声で喋っていたな?」
「生まれはどうあれ今となっては破戒、
「いやまあ、驚いたが若くて可憐に違いはない。十二歳で出家したと聞いていたからもっと幼いのかと。そうか、とうに大人だったのだな。あんな男のような格好の尼がいるものか」
「あれは特別がさつではしたないのです。
「随分仲がよいではないか。
「
「そうかー? あの尼のためなら何でもすると言ったらしいなー?」
――どうやら気の利いた冗談を言っているつもりらしい。凛々しいお顔に喰えない笑みを浮かべているかと思うと明空にとっては悪夢のようだ。先ほどきつめに言ったばかりでこちらは話を逸らせない。
「人が寝ている間に好き放題吹かしていたのですね。お信じにならないように」
「本当に嘘かー? お前に自覚がないだけではないのかー? 源四郎が女人となあ」
「女人と何ですか」
「何であろうなあ、しらばっくれおって。忿怒の相がはみ出しておるぞ。――式部卿宮の邸ならば行幸で行けるな。紅葉を見るとか何とか言ってみるか。式部卿宮ならば庭に紅葉する木を一本くらいは植えているだろう」
「宮さまはともかくあれとかかわると穢れるからおやめください」
「一体予の何が穢れると申すのであろうなー?」
かたやどんよりとして、かたや足取り軽く小路を歩いていると。
「明空さま!」
牛飼い童が駆け寄ってきた。不穏の気配を察し、明空は自分の袈裟を脱いで主の肩にかけた。
「それで玉顔を隠して、誰にも見られぬように」
「助けてください、こちらの方々が誰の車かと問い詰めてくるんです」
と牛飼い童が指さすのは、藍摺紋の水干を着た検非違使放免たちと、やたら仰々しいなりで馬に乗った小さな公達。牛車の周りを囲んでいる。
明空は笑みを浮かべた。愛嬌を振りまくのではない、威嚇の笑いだ。
「おや、衛門佐さま。拙僧の車に何かご不審でも?」
「お前だったのか、坊主。まさかお前もあの巫女にかかわっていたのではないだろうな」
少年は居丈高に問うたが、明空に真面目に相手をする気はない。
「下馬なさったらどうです、権律師も従五位です。播磨守に叱られますよ」
それで衛門佐は顔を赤くし、歯噛みした。
「坊主のくせに偉そうに。その後ろの者は何だ」
主は言われた通りに袈裟を
「拙僧が稚児でございますが何か」
「
「衛門佐さまには大人の世界がおわかりでない。これがよいのではないですか」
「何を隠している」
「おや。まさか僧の袈裟のうちを暴くと」
明空はためらわず、袈裟の下に吊っていた剣を外して両手でかまえた。顔だけは笑みのまま。
「神聖なるお袈裟のうちは寺の境内、神域も同然、しかもこの権律師・明空の。使庁と言えど覚悟あってのことでありましょうな? こちらの剣は宝具ゆえ刃がついておりませんので当たると大層痛うございますが、人に向けても罪ではありませんよ」
放免たちは後ずさったが、衛門佐だけまだ暢気に馬に乗っている。
「お覚悟あってのことか、衛門佐さま。不動明王の仏罰、身体で憶えねば礼儀も弁えませぬか。境内にあっては元服したての童とて容赦などしません」
――馬を巻き込みたくはないのだが。
* * *
「それであなたは正しいとして誰か救えるつもりでいるのですか。誰も納得させられないまま藻と一緒に獄につながれてやるのが御仏の大慈大悲ですか? そのときと同じように誰か心ある人が止めに入ってくれると? 他人を頼ってのことですか? あなたを助けるために土下座してくれる人がそう何人もいると?」
この期に及んで、靖晶は全く悪いと思っていないようだった。平然と言い返してきた。
「正しければ世間の皆が道理に従い、話を聞いてくれると思っているのですか? 衛門佐さまを説き伏せることができたと?」
「できなかったでしょうね。それでもこの子一人を悪者にしていいことをしたようなふりをするよりましだわ」
「本気ですか?」
声が少し笑った。
「本気よ」
「二人並んで指を切られても仕方ないと。あなた一人の自己満足のために勝手に行く末を決められる藻さんはどうなるのです」
「彼女の行く末を勝手に決めて自己満足に浸っているのはあなただって同じだわ。あなたがこの子を〝助けてやったつもり〟でいるのが我慢ならないのよ。あなたがいいように考えた作り話で人を救うなんて傲慢だわ」
「残念ながらこちらはそういうものを売って歩くのが商売なので。最良がいつも最善とは限らないだけです」
「いつかそんなおためごかしには耐えられなくなるわよ、あなた自身が。あなたはそういう嘘をつき通せる人じゃないわ。自分の欺瞞に気づいたとき、
「知ったようなことを」
「知っているのよ。無理矢理に書かされたんならともかく自分の意志なら――お友達はそれを書いた時点で、藻に罪を着せることが叶わなかったら自分が朝廷に弓引く大罪人として裁かれることを覚悟していたでしょうよ。陰陽道を学んで難しい字が書けてそれなりに頭のいい人だったんでしょう、罪だと知らないはずはないわ。きっとあなたに庇ってもらおうなんて思っていなかった。勝手に忖度したのはあなたよ。身内というだけで無駄に手心を加えたのよ」
これは少しは痛いところを突いたらしい。
「――好きなことを言ってくれる」
返事が遅れた。
「ええ言うわ。――お友達を差し出すのがどうしても嫌だとして。呪詛の人形なんて、そんなものはただ墨を塗った木の板で誰を傷つけるものでもないと言えばいいじゃないの。そんなことが罪になるなんてそもそもおかしいわ」
今更、靖晶が疑うような目をした。
「本気で言ってるんですか?」
「そうじゃないの。あなただって平気で持っているじゃないの」
「傷つきますよ」
心にもないことを。
「気のせいよ。思い込みだわ。字を書いただけの板が何かに効くわけないじゃないの」
「呪詛は大罪です」
「
「官ですから律令に記された法に従います」
「信じてもいない法に従うと言うの。何百年も昔の人が信じていた、ただのおまじないじゃないの」
預流にはそれは思考停止にしか聞こえない。
「呪詛だの罪だの世間体だの、本当はこの世のどこにもありはしないのよ。人間が生きていくのに必要がない。あなたはそんなものがあるようなふりをして世間を〝納得〟させることを都の安寧、京の平安を守っていると言い張るの。お家の決まりだから?」
「そうです。お役目ですから。藻さんも一度疑いをかけられてしまっては言いわけをしたところでこれ以上、京にいてもいいことはないですよ。罪は拭えても皆の前で貶められたのは取り戻せません。ここにいても気まずいばかりです、その方がかわいそうだ」
さっきから通り一遍の言葉ばかりで心がこもっていない。
「――淫祠邪教の徒! 人を惑わす仏敵よ、あなたは!」
「そうかもしれませんね」
靖晶はすうっと息を吸って――
「墨を塗った板だと。これはそんなものではない! あなたはご存知ないのだ。漏刻で時報を打っていることすら知らなかったのにこの世の全てを知っているような顔を。悟っているのではない、無知を恥じもせず傲慢なだけだ」
衛門佐と話していたときと違って、悲鳴のような声だった。
ここで靖晶は首を振った。何を言うか迷った、のではなく目を動かして辺りを確認したようだった。それから声を張り上げた。
「――あなたはご存知ない! お前など産まれてこなければよかった、お前などいない方がよかったのに、世間の役に立っていない無駄飯食いと言われたことがないのだ! 自分で思ったこともないのだ! 思ったことがないから堂々と兄宮さまに甘えて無駄飯が食える。親御さまに愛され兄宮さまに愛されて、人に疎まれ嫌われるのが恐ろしいと思ったことがないから。
目が泳いだ。彼はぎゅっと目をつむって言い放った。
「夫君もあなたを嫌いになる前に亡くなった。長く添っていないから将来を契り合った夫婦が憎み合うのもご存知ない。自分はご家族に皆に愛されて育ったから、今になって通りすがりの連中に何を言われても痛くもかゆくもないだけだ! ただの板だと、気のせいだと、思い込みだと。ひどいことを。あなたはこれがどんな恐ろしいものかおわかりでないだけだ! 具合が悪くなるほど何かを恐れたことなどないから!」
裏返った声で叫びながらぽろりと一粒、涙を落とした。
「痘瘡だけが恐ろしい病なのか、首の骨が折れているのでもなければ気の持ちようなのか! 他は気のせいだ、甘えていると。狭い世間で甘やかされているのはあなただ! この板に籠められた殺意は本物なのにただの落書きであるかのように。死ねと言われるのがどれほど怖いことか知らないから、本当に恐ろしいことは自分の目の前で起きていないから、所詮他人ごとだと思っているから!」
それはいつもの彼の話す調子とは全然違ったせいか、言い終えた後しばらく息を切らしていた。肩で息をして、狩衣の袖でぐいと顔を拭って目を開けた。
「世間体はありますよ。目に見えずとも手で触れられずとも。あなたが見ようとしないだけで、生きている限り逃れられないものが京には山ほどあります。世間に合わせるのがお嫌なら山に入って男のように荒行をなさればいい。いくら女人結界があると言っても残らず柵で囲まれているわけではなし。都でお兄さまのお邸で暮らしておられる限り、あなたは信仰ごっこをしてそれらしい説法を唱えるばかりのお姫さまですよ」
その目つきにもう迷いはなかった。
「呪詛を受けて苦しんだ御方がいらっしゃる。ならばそれは
「もうやめてください、お二人とも」
藻が預流の袖を掴み、かぶりを振った。
「わたし、播磨に行きます。もとから家もなければ家族もおりません。わたしがいなくなって困る者など京にはおりません。わたしのような者が」
理解しがたいことに、彼女は少し困ったように笑った。
「皆の役に立てるかもしれないなどと思ったのが間違いだったのです」
――それで。
紐で吊っていたのが解けたように靖晶が膝を突いた。衛門佐や預流が何を言っても揺るがなかったのに、腰が抜けてしまったようだった。
「皆がかまってくれるものだから、楽しくてはしゃぎました。よい夢を見ました。藻は十分です。二人で争うなどよしてください」
諦めたようなことを言うので、預流は藻の肩を掴んだ。
「あなた、陥れられたのよ。いい夢なんかじゃないわ。あなたのようなって、あなたのような何よ」
「いい夢でしたよ。播磨守さまにはよくしていただきました。こうなるのは知っておりましたし」
「知ってたって」
「何やら全て台なしになるけれど、播磨守さまが庇ってくださってどうにかなると。藻は愚かな娘なのであの板が何なのかよくわかりませんが」
藻は靖晶を振り返った。
「泣いてらっしゃるじゃないですか、かわいそうに」
彼女の言葉の通り、靖晶は座り込んでうめきながら涙と鼻水を垂らしていた。子供みたいに、拭いもしないで。言いたい放題言ってなぜ泣くのだろう。自分を憐れんででもいるのだろうか。
藻が少し背伸びをして預流に小声で耳打ちした。
「播磨守さまは預流さまを好いておられます。あまりつれなくなさらないでください、藻のせいでお二人の仲を引き裂いてしまうことになったらつろうございます」
「今そんなこと言ってる場合じゃないでしょ馬鹿!」
預流は声を荒らげたのに、彼女は唇を尖らせた。
「どうかしら。はたから見ればあなたの方が馬鹿ですよ。なぜろくに知りもしないわたしのために男君をそんなになじったりするのかしら」
子供のくせにませた口を利く。
「優しくしておあげなさいよ。子供でもわかります」
「あなたを京から追い出したのになぜ庇うの。お友達を庇ってあなたに罪を着せたのよ、この人は」
「なぜって。京の都でなければならないことなどありますか?」
今度は預流が言葉に詰まる番だった。
「藻よりも大事な人くらい、いらっしゃるでしょう、それは。誰かの一番になりたいというのは厚かましい望みですよ」
少女は笑った。この世ではない、どこか遠いところを見ているような顔だった。
「わかります。播磨はきっとよいところです」
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