第2話 播磨守の巻 1

 一方で生来、どん底の自己嫌悪と無縁な人もいる。


「今日こそは辻説法よ!」


 五位の尼御前、預流の前は二十一歳にして貴族の贅沢品となっている平安仏教の現状に心を痛め、民衆にブレイクスルーを起こすべく自らいちに立って御仏の教えを説く決意を固めていた。NAISEIチートで末法の時代を変えるのだ。

 金ピカの仏像とか作ってお布施をしては高僧に護摩壇ごまだんで火をいてもらうハードルの高い平安密教を、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」の六字を唱えるだけで極楽往生できる、くらいに噛み砕いて漢文の読めない人にも親しみやすく。仏道に縁のない民草に呼びかけるため人の集まる市、今回は左京さきょうにしてみた。


 それでいつもの萌黄の半素絹はんそけんに紫の袈裟けさをかけて、数珠も前のは人にやってしまったので新品を用意して。今度のは白檀びゃくだん。完璧な隙のない出で立ち。一晩かけて原稿を書き、説法で語る内容も決めた。何て行き届いているの、わたし。


「今日は無理なんじゃないですかね……」


 だのに例によって市のそばで待ち合わせた靖晶のテンションが低い。この預流の功徳伝説を特等席で見せてやろうと言うのに。


「ていうかあなた、意外と暇ね? 陰陽寮、メチャメチャ忙しいのかと思ってたのに。どうしてこんなに休めるの?」

「うーん、何から話せばいいのか。実は清涼殿せいりょうでんの東庭で転んだせいで仕事を干されています」

「は?」


 何気なく尋ねたら、さらりととんでもないことをカミングアウトされてしまった。


「……まあ内裏で儀式の最中に転んで悲鳴上げて中断しちゃったんだから干されるのは当たり前か……それってあなた、失業の危機なの? 同情した方がいい? ヤケ酒おごる?」


 普通、大騒ぎだと思うのだが。「やっぱりぼくはいらない子なんだ。禹歩うほを踏めないぼくなんか意味がないんだ。誰かぼくに優しくしてよ!」とパイプ椅子に座って絶叫したりする局面だと思うのだが。


「どうなんでしょう、それにしては皆、優しいんですよね。気持ち悪いほど」

「陰陽寮は皆さん、あなたの親戚なのだから優しくて当たり前なのでは?」

「普段そんなんじゃないんですけどねえ。何かひと月やふた月、世間に姿を見せなくていいって。出歩いても播磨守の名前は出すなと。いやぼくは働かなくても播磨国の年貢米で暮らせるのラッキーって感じなんですけど。遠慮なく悪代官生活満喫しますけど。惣領なんて良彰や子供が勝手にやればいいんですよ、何ならぼくなんか座敷牢に閉じ込めて次世代にスキップしてくれていいんですよ」

「儀式の最中にコケただけで座敷牢はないわよ」

「わりとありえますよ平安の人権意識なら」


 なぜか靖晶は別に落ち込んでいるわけでもないのだった。この自己肯定感の低い男はヤケになっていたら「ははっ、もう頭丸めて正式に預流さまの弟子になって熊野古道とか攻めちゃおうかな」くらい言いそうなので何だかこちらが落ち着かなかった。いや座敷牢は落ち込んでいるのか? テンションが読めない。何なんだ。


「でも今日はマジで預流さま、辻説法とか無理だと思いますよ」

「どういう意味?」

「ここ最近、左京の市でそういう商売は飽和状態です。まあ百聞は一見にしかず、見たらわかります」

「商売とは何よ、功徳の行いよ」


 と言いながらも市に足を踏み入れ、人の多い雑踏を歩き出すと。


「陰陽寮よりよく当たるって本当に?」

「迷子を家に送り届けたとか」

「大臣さまの大事な太刀を見つけたそうだぞ」

「十四の女の童少女だって聞いたが」


 道行く人も、店でものを売る人も、皆同じ話をしているのだった。


「今日も大行列だよ。藻さまがあそこに陣取って以来商売上がったりだ」


 修験者がため息をついていた。

 どこからか太鼓の音がして。


「藻さまの占い、今なら一時百二十分待ち! 八幡大菩薩はちまんだいぼさつから授かった天眼通てんがんつう験力げんりきで何でも見通す霊験ある巫女だ! 恋愛運もお見通し! どうですかそちらの男君!」


 客引きが声を張り上げて。

 左京の真ん中に人が並んでいた。その先に白木の社があるようだった。

 しかも並んでいる者たちの話が聞き捨てならなかった。


「賢木中将さまの家人が文を落としたのを見つけて、中将さまの恋人にと望まれたのをお断りしたとか。断るとはまるでかぐや姫だ」

「まさか只人ただびとではなく竹から出てきたとでも? 十四って美少女かな」

「陰陽寮の安倍ナントカが鬼に行き遭ったのをお助けしたとか」

「誰だよ。陰陽寮なんか全員安倍ナントカじゃないのか」


 ……預流は恐る恐る靖晶の気配を窺ったが、肝心の靖晶は嘆くでもヘコむでもなく何やら生ぬるい笑みを浮かべるばかりだった。


「まあこういうことになっておりまして。今日、こちらで御仏の功徳を説いても効果はないかと。右京でも一緒なんじゃないですか?」


 声音も落ち着いていてまるで悟りの境地。

 一応、安倍ナントカ当人であることがバレたらまずいかと二人して馬小屋の陰に身を潜めて。


「……あれ、全方位的に喧嘩売ってない? わたしの説法が無期延期になったとか些細な話じゃない?」

「売られてますねー。いやぼくからすれば、藻さんはいつかこっち側に来ると予想していたと言うか。思っていたより早かったなってだけで。感慨深いです」

「ミステリ研の後輩を見守るプロ作家のようね」

「良彰が大騒ぎで、ぼくはかえっていじゃって。藻さんは知らないでもないし。鬼に行き遭って助けてもらったの、本当だし」

「本当ってあなた」

「いやー真実の前には多少のアレとか無力ですよ」


 靖晶の暢気な態度に預流はなぎというか、嵐の前の静けさを感じた。



 三日前のこと。靖晶は自分の寝室で昼まで眠り、起きたら水漬けをかっ込んで、畳にごろ寝して普段なら読まない恋愛小説の冊子そうしを熟読するという余裕のニート生活を送っていたら。

 夕方になって陰陽寮を退出した良彰が先触れもなく駆け込んできて。


「左京の市に妙な卜占ぼくせんの巫女が現れたらしいぞ!」

「卜占?」

「播磨守がへどを吐いたのを助けたとか言ってる!」


 藻に出会ったのは清涼殿で儀式をするより前の話だったか。……二十日? それくらい経っていた。


「あー、うん。そんなこともあった。藻さん、プロデビューしたの?」

「あったのか! 原因はお前か! メチャメチャ心当たりがあるのか!」


 うっかり正直に言ってしまったため、良彰に嫌というほど締め上げられた。


「播磨守が鉄輪の鬼に憑かれて以来不調なのを巫女が祓ったと言うのは!」

「……大体事実?」

「否定しろ! 何おれたちに断りもなくいつの間にか鬼に憑かれてるんだ!」

「人間なんだからたまには鬼にも憑かれるさ」

「陰陽師が鬼に憑かれるなー!」


 靖晶は単衣下着の上にうちぎしか羽織っていない寝間着姿なのに散々胸ぐらを掴んで締め上げておいて、ふと良彰は目を細めた。


「……まさかへどを吐いて妙に道に迷った夜、その巫女と何だかんだあったのか? 男女のあれこれが? 〝逢ひ見ての後の心にくらぶれば〟みたいな? 尼御前さまだけでなくまさかのモテ期が? やっとお前にも平安男子の自覚が?」

「平安時代みたいなセクハラやめろ。それはない。ちょっと顔洗ってお湯飲ませてもらっただけで、後は単に道に迷ってた。十四歳とか無理だって」

「だから何で碁盤の目があって月が出てたのに道に迷うんだお前は! 女にほだされたんなら多少は許してやろうと思ってたのにどうしてそういう甲斐性はない!」


 こちらはハニートラップを避けたつもりだったのに、なぜか怒られた。


「いいじゃないか、もう陰陽師も何も。ぼくは占いとかおまじないとか人の顔色をうかがう仕事が大嫌いなんだ。これを機会に領主として播磨国の経営に専念する。NAISEI系チート主人公に転職する。数学と統計の力で物流と治安とインフラ全部が最悪の平安社会を地元から作り替えていく。異世界に転生しなくてもここではない播磨なら」

「このタイミングでスネるな! 迎え撃て! 商売敵だぞ!」

「迎え撃ったらかえって致命的にしくじると思わない? 今、しくじって謹慎中なのに」

「ウッ!」


 これで「しくじりそう」と思われてしまう辺り、自分でも忸怩じくじたるものがなくはないが。


「まあそのうち収束するんじゃない? 最初は何でも物珍しいものだし、京の都から陰陽寮がなくなって困るのはぼくらじゃない」

「……陰陽寮は元々、安倍氏のものじゃなかったんだ。晴明公のような術師が他に現れたら他の家のものになってしまうぞ。おれたちより賀茂の方が必死に噛みつくぞ」

「きっとね」


 ……せめて巫女として持てはやされているうちに、どこかの貴族が女房にょうぼうとして拾い上げてくれればいいが。

 かえって陰陽寮の近くにそんなものを置くわけにはいかないのだ。

 彼女と自分たちは違うものであるということにしておかないと。



「……ええっと、それって」


 靖晶の語りを聞くに、彼の中では綺麗な思い出になりつつあるのに水を差したいわけではないのだが。


「あなたが据え膳を食わなかったらその後、賢木中将にお出しされちゃったってこと?」

「は」


 預流が言って、初めて気づいたらしい。靖晶は動揺したのか、その場でつま先立ちしてぐるぐる高速回転を始めた。


「こ、断ったって話だし! き、きっと大丈夫! きっと!」

「落ち着いて靖晶さん、混乱したからって踊らないで! マジカルステップ踏んじゃってるわよ!」

「何かこの太鼓、踊りやすくて!」


 ようやく回転を止めたのはいいが、地面にへたり込んでしまった。別に目を回したわけではないらしく、悲鳴を上げた。


「言わないでください! こんなことならぼくの愛人にしておいた方がよかったとか、預流さまにだけは言われたくない!」

「ま、まあ親御さんに問題があるみたいだし……」


 男がかわいそうな女の子など見かけて助けてあげたい、世話してあげたいと思ったら、自分の愛人や妻にしてしまわなければならない変な時代。


「貧乏人の家じゃ娘なんて大体そんな扱いですけどね。受領の愛人がワンチャンなら中将さまとか五億円キャリーオーバーですよ」

「悪い方に悪い方に考えすぎよ。……賢木中将、人妻専門っぽかったのに未婚十四歳に興味あったのかしら。わたしには二十過ぎくらいがいいって言ってたのに」

「ぼくがそういう状況に対応できなかっただけでこの時代的には本当のところロリコンではないですからね。いろいろ言われるけどこの時代的には十四歳は大人扱いです」

「若紫どころか明石中宮あかしのちゅうぐうなんか十二歳で妊娠して十三歳で出産してるけど、靖晶さんは誰のために誰に予防線を張ってるの。……陰陽寮の近くに置かない方がいいって、女の子だから?」

「それもあるし、今更サイキックっていうだけで算術ができるかわからない子を入れるわけにはいきませんよ」


 座り込んだまま、靖晶はため息をついた。


「高級貴族には家柄だけで漢文が読めなくても出世する人がいるけど、ぼくらくらいの中途半端な役人は成績が悪いと容赦なくふるい落とされる。そこに陰陽寮は算術まであるんだから。ぼくだって未だに及第前の夢を見ますよ」

「及第?」

学生がくしょうから陰陽師になるのに、試験を通らなきゃいけないんですよ。大学寮だいがくりょうはまた違うらしいけど、陰陽寮は二十代で通らないとヤバい。三十過ぎるとどんどん計算ができなくなっていくって。それで二十代の学生は一年経つごとに顔色が悪くなって二十五過ぎると人相が悪くなって、そのうちよその役所に行ったりいつの間にか失踪してるやつまでいて。三十過ぎても学生でいると陰陽の家に生まれながら計算のできない尸位素餐給料泥棒と指さされて」

尸位素餐しいそさんってすごい言葉ね……あなたはいくつで通ったの、その試験」

「おととし。問題は解けるから天文博士の枠が空くまで待ってようと思ったら痘瘡天然痘で陰陽師の枠が空いちゃって」


 ――悲しい身の上話かと思ったのに、自慢かよ。


「皆、必死で勉強して殺伐としてるのにサイキックの女の子とか出てきたら神経逆撫でしまくりますよ。ぼくの愛人ならまあそんなもんか仕方ないなお前死ねってぼくが思われてお終いとして、そうでもなくてただこの子かわいそうだから親切にして、だけじゃ何考えてるんだお前、先に身内の食い扶持を何とかしろってなるのに決まってます」

「下心がない方がやましいって言うのも変な話ね」


「陰陽寮では学生扱いなのによその役所で出世してるやつとかざらにいるし、むしろそんな器用じゃない得業生とくごうしょう一本のやつがある日突然失踪して、とかその方が不憫ですよ。真面目に陰陽寮だけでやってるのに失踪しちゃうやつのこと思うと、藻さんがかわいそうだけじゃ何もできないかな……うちの邸で下働きでもってなったら姉辺りが愛人だって騒ぐのに決まってるし。預流さまが女の子拾ってきても沙羅さらさんとかいるんだからまあそんなもんで済むでしょうけどぼくが女の子拾ったら何だと思われるか」


「愛人ルートが避けられないのね……むしろ京の都、身分の低い女の子に愛人業以外の仕事がないのね……」

「勝手に預流さまのお邸の紹介状書いたけど彼女、行かなかったんですね」

「来なかったのねえ」


 靖晶は座り込んだまま頭を掻いていたが。


「……ちょっと藻さんが今何やってるのかメッチャ気になってきたから預流さま、占われてきてくれませんか。お代はこっちが持ちますから。良彰も多分無駄に気にして暴れてるだろうし。ぼくが直接様子見るのはいくら何でも」

「わ、わかったわ。どうせ辻説法どころじゃなさそうだし、児童の労働環境は確認しないとね」


 ということで彼を置いて、預流は行列に並んでみたが。板を持った列整理の男が案内するには。


「最後尾、こちらです。ひと時と一刻百五十分待ち!」

「ど、どれくらいよ。結構並ぶわね。さっきより増えてる。ひーふー……九組待ち?」


 なかなか果てしない。他に並んでいる者は男女だったり男ばっかり三人組だったり従者を連れていたり。靖晶は話し相手くらいしてくれないかと思っていると。

 横合いから衝撃を受けてよろめいた。


「尼! どこ見てやがる!」


 荒っぽい男の声。麻の狩衣の、どこかの雑色ぞうしきなのだろうか。ぶつかったようだが。


「どこって、こっちは行列で立ち止まってるのにそっちがどこを見ているのよ」


 女だからって怒鳴れば言うことを聞くと思っているのか。


「――さてはあんたそういう種類の痴漢ね、女を見るとわざとぶつかって来るタイプね! この五位の尼御前、預流の前が悪くもないのに謝るような女と思っているなら大間違いよ!」

「おれが悪いってのか!」

「……預流さまはどうして突っ立っているだけで喧嘩になるんだ……?」


 靖晶は呆れてないでこっちに来て助けろ。ていうかこういうトラブルを避けるための列整理スタッフじゃないの、さっきの板を持った人はどこに行ったの、と思ったとき。


「みっともない真似はやめなさい」


 すっと横から割って入る者がいた。


も見ていたが、尼御前は行列に並んでいたのにそなたがぶつかったのは、明らかにそなたの不注意、間が抜けていたのではないか。己がぼーっと歩いていたのに女人を責めるとは八つ当たりも甚だしい。あるいは尼御前が申すようにわざとにも見えたぞ。申し開きはあるか」


 すらりと背が高く、預流も少し見上げるほどだ。雑色の安物の狩衣と違い、紋入りの厚手の絹の狩衣で言葉遣いも丁寧だ。

 眉がくっきり描かれているせいか目つきが凛々しい。口は少し大きいが全体に爽やかなお顔立ち。どこのお家の公達きんだちか。男前は見慣れているが正統派の美男、いや好漢と呼ぶべきだろうか。何せ真っ当な性根の男をなかなか見かけない――

 その次のやり取りは、全く真っ当でなかったが。


「何だてめえ。おれが悪いってのか。そもそもお前、どこのどいつだ。偉そうに。おれは太政大臣さまにお仕えしているんだぞ」

「ふ、大臣の名で怯むと思うたか。そのような話で臆したりはせぬ。予は安倍播磨守、陰陽寮の末席を汚す者。検非違使などではないが役人として非道は見過ごせぬ」

「……誰って?」


 ありえない言葉だがはっきりと聞こえた。列に並んだ人々も「安倍播磨守?」と聞きつけて振り返った。

 預流はうまやの方を見やったが――背丈が小さくて白目が大きくて現在、陰陽師を無期休業中の播磨国の長官さまは未だに小屋の陰に隠れながら、しっかりその会話は聞き取ったらしい。大きな白目を見開いて溺れてもがいているように手まで振っていたが、こちらに出てくるほどの勢いはないようだ。


 ……おかしいな。陰陽寮の役人は預流がまだ会ったことのない者がいるとして、播磨守がそう何人もいるはずがないんだが。先代の播磨守とか? いや「安倍」って言った。そんなに安倍さんばっかり播磨守やってるわけ? やっぱり陰陽師の安倍播磨守、一人しかいなくない?


「安倍播磨守というと、例の陰陽師の安倍か」


 列の間からもざわついた声がしたが――

 それは果たしてこの颯爽さっそうとした青年の望んだ通りだったか。


「鬼に取り憑かれてへどを吐いて藻女みくずめさまに助けてもらったダメ陰陽師の?」

「道端で百鬼夜行に行き遭って木陰に隠れて半泣きで震えていたのを藻さまに助けてもらったんじゃなかったか?」

「よくこんなところに得意げに顔が出せるな」

「いや、世話になった礼をしに来たんじゃないのか」

「陰陽寮はなぜそんな尸位素餐にろくませてるんだ」

「安倍晴明の血筋だからむげにできんのだろう、摂関家などとは次元が違うだけで結局貴族の馬鹿息子だ」

「ん?」


 ――明らかに絶賛からほど遠い評価に〝播磨守〟は首を傾げた。


「寄ってたかって根も葉もない噂を! 予は健在であるぞ!」


 根も葉もないんだろうか――厩の陰では靖晶がしゃがみ込んで何やらどんよりした様子で頭を抱えている。ものすごく心当たりがあるらしかった。


「何だてめえ、ヘタレなんじゃねえか」


 雑色が笑うと、〝播磨守〟は拳を握って反論した。


「違う! 播磨守は当代一の陰陽師、安倍晴明の再来だ! そなたらこそ播磨守が清涼殿で鬼と戦い、帝の御身おおんみを守護したのを知らんのか!」


 ……知らん……何それ……怖……

 清涼殿って預流の目の前で足が攣ってコケて悲鳴を上げていたやつ? それとも預流の見ていないところでは何かめざましい活躍が? そのわりに仕事を干されているわけだが?

 ……この〝播磨守〟、強火の陰陽師ファン? その解釈も靖晶は嬉しそうじゃないんだが? ファンだからって勝手に名乗っていいの?


「偉そうに、鬼と言わずおれが泣かせてやる! 術で打って止めてみろ!」


 雑色が腕を振り上げると――

 それを後ろから掴む手が。


「何をしておいでですか、拙僧が戻るまで大人しくお待ちくださいと申したのに喧嘩など」


 こちらはメチャメチャどこかで聞いたような坊主の声。

 墨染めの半素絹をまとった小柄な影。綺麗に剃髪した丸い頭に不似合いな姫君のように可憐な顔。

 だのにとても凶暴でたちまち、雑色の腕をひねって関節をめた。


「鬼か。宇宙の中心たる大日如来を守護し奉るは不動明王の務めだが、忿怒ふんどの相を見せるほどでもないな。しょうもない手間をかけさせるな」


 左手に何か持っていて、右手だけで手際よく雑色の腕をねじって下駄で蹴りを入れて転ばせた。だけでは飽き足らず、背中を踏みつけた。御寺みてら僧綱そうごうとは思えない徳のなさ。


「手足が腐って落ちないだけましだと思え、逆臣が。みこさまの御目を穢すことはまかりならんゆえ命だけは助けてやる」

「あのう……権律師ごんのりっしさま、やりすぎでは……? 過剰防衛では……?」


 預流の話など聞こうともせず。


「大事ないですか」

源四郎げんしろうがあまりにもせっかちでどうにかなる暇もなかった」


 しかも明空みょうくうはまっすぐ自称〝播磨守〟に向かってきて声をかけ、手まで握った。……最初に絡まれたのは預流だったはずなのに全力でスルーされて助けられた感がまるでない。


「みこさまがどうにかおなりだったら源四郎は短刀の切っ先を口に含んで清涼殿の屋根から飛び降ります」

「僧のくせに内裏を穢すな、皆の迷惑だぞ」


 二人でイチャイチャしている間に、雑色は這いつくばってずるずると動き、やがて立ち上がって逃げ出した。……いいやつではなかったけど、やりすぎてごめんね。怪我してないといいね。こいつとかかわると本当、ろくなことないから二度と近づかない方がいいよ。

 片手が塞がっていたというのに、明空のやり口があまりに手際がよすぎたせいか播磨守の悪い噂をささやいていた列の人々も、何も見なかったと言いたげに押し黙って背を向けた。暴力、恐怖による解決。

 いやちょっと待て。


〝源四郎〟?

 ――みなもと家の四郎君、四男という意味のあだ名。渡辺さんを〝ナベさん〟と呼ぶくらいありふれたあだ名だが、出家者の明空はもう源家の一員ではない。

 つまり。――この呼び方自体が「予はこの坊主を出家前から知っているぞ」というアピール。

 かの大陰陽師、安倍晴明はこうおっしゃったそうだ。「名前はこの世で一番短いしゅ」であると――他人が他人を呼ぶ名前も立派な術だった。この短い間に、預流は〝播磨守〟に立て続けにマウンティングをかまされた。


「で、それは何だ」


 と指さすのは明空の左手の包みだ。はすの葉で包んであるのを開けると、紫の葡萄ぶどうの房が。井戸で洗ったのか濡れて瑞々しい水滴がきらめいて。


「野葡萄でございます。お毒味は済んでございます」

「ふうん」


 彼は恭しくそれを〝播磨守〟に差し出し――

 ここで第二の衝撃セカンドインパクト

 自称〝播磨守〟は当然のように屈んで口を開けて――明空がそこに葡萄を一粒、指でつまんで軽く押し潰して皮を爆ぜさせて。

 食べさせてやると、残った皮だけ道端に捨てて。


「うん、甘い」

「お気に召して光栄です」


 葡萄の粒は明空の爪より小さいのを、いちいち一粒ずつ皮から押し出して実だけ食べさせてやる甘やかしぶり。ちまちま食べさせるのがバカップルっぷりに拍車をかける。

 しかも明空は、慈母のような地蔵菩薩のような柔らかなアルカイック・スマイルでいつもの凶暴で不機嫌そうで触る者皆傷つける尖った印象がない。それはまるで小鳥が雛に餌をやるような無私の愛アガペーに満ちあふれて。


「ちょっと待って、情報量が多い」


 預流も頭を抱えた。

 乳母めのとがやるならまあわかる。平安貴族は本性がマザコンなのだから仕方がない。女房やわらわがやるのも。――男同士でやるか? 明空は年上の僧にやっているのならアリなのかもしれないが公達はどう見ても仏教関係者ではなく。

 ――あれ、わたし、何しにここにいるんだっけ? ここはどこ? 地獄? 僧を男色の妄想で穢した者が落ちる地獄? わたしはこれから未来永劫過去永劫、好きな男が男とイチャイチャするのを最前列で見続ける運命なの?

 そのとき。


「ええーっと。あのー。ピンチなのかチャンスなのか全くわからないけどぼくはその〝播磨守さま〟に質問があるのよろしいでしょうかー」


 やっと靖晶が厩の陰から出てきて、なぜか揉み手しながら遠慮がちに尋ねて――幸せそうに葡萄を食べていた〝播磨守〟の表情が一変。明空の素絹の袖を引っ張った。


「どうしよう、本物がいる! 本物だ!」


 明空も先ほどまでの慈愛の表情はどこへやら。いつになく顔をしかめていた。


「……は、播磨守……何て間の悪い嘘をおつきになったのか!」

「適当に受領の名でも名乗っておけと言ったのは源四郎ではないか! 六十人以上いるのだからバレはしないと!」


 慌てる二人に、むしろ靖晶の方がぺこぺこと頭を下げる。


「いや、あの、気を悪くしているとかじゃないんです。そっちの方がイケメンだしむしろ安倍家のイメージアップにつながってるかなって。いやぼくがイメージダウンさせてすみません」

「あなた自己評価低すぎよちゃんと抗議していいのよこれ」

「偽者が現れるとかシリーズが成熟した証じゃないんですか」

「シリーズが成熟ってよくも恥ずかしげもなく」


 と呆れ気味に預流がつぶやいていると――明空はやっと彼女の存在に気づいたらしく、まじまじと顔を見て――真顔になってから、耳まで赤くなった。


「〝播磨守さま〟! 拙僧はこちらの尼……尼御前と信仰に関する話がございますので、後ろに並び直します! 〝播磨守さま〟はこちらでお二人で並んでご歓談ください! 葡萄の残りご自分で召し上がってください!」


 と〝播磨守〟に葡萄を蓮の葉ごと押しつける。


「えー。自分で食べるのか」

「非常のときです、無礼をお許しください!」


 それで預流の袖を掴んで引っ張り、歩き出した。

 ……何だ、この状況。

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