尼御前さま、オーバーキル! 因果逆転のカースフォージ
汀こるもの
第1話 ミクズの巻
「なぜお前、今日に限ってそれほど牛車に酔う」
従兄弟が背中をさすりながらため息をついた。
なぜって。
牛車を降りて道端でひとしきり
「今日は無理だ、
「よしなにってな」
「先日、鬼を
「出鱈目とは何だ。方便だ!」
「それ、仏教用語だぞ」
どうせ三十五歳の従兄弟の良彰は何だかわけのわからない格好をつける。言いわけだけは得意なのだ、こいつは。
良彰だけでも牛車に乗っていけばいいのにと思ったが彼は
しばらく、靖晶は道端にしゃがんだままぼんやりしていた。自分の吐いたものが臭くて少し離れた柳の木の下にいたが、多分行き会う人などいたら
いや実際、行かないと決めた途端に胸の悪さが治まって我ながらわかりやすい。度重なる騙し討ち、あちらが怪我をしていたときは平気だったのに、いざ健康になってから呼びつけられるとここまでプレッシャーを感じるとは。
しかし京の都の高級貴族にとって陰陽師による細々とした占い、タスク・スケジュール管理は生活必需品。永遠に賢木中将を避けているわけにもいくまい。陰陽寮の官なのだから公務員なのだ。三位の
大体、何かあるたび一喜一憂する方が甘えているのかもしれない。陰陽師は京の都で起きる全てのことに責任を取るのがお役目――人の生き死にまでも。わかっていたはずだ。
世の中、美しい姫君や
――人は死を避けられない、直視しろと言いながら、弟子の剃髪の機会を逃して泣いていた妙な尼もいた。あれくらい図太い神経がなければここではやっていけないのだろうか。
無茶苦茶なのに何だか間の抜けた人で危なっかしい。絶対かかわり合いになるべき相手ではない。次にあの
そんなことを考えていたら。
「もし、殿さま。ご気分が優れないなら我が家でお休みになってはいかがですか。何もないあばら屋でございますが」
女の声がしたので驚いて飛び退きそうになった。
――尼ではなかった。髪の長さは同じくらいだったが後ろで結わえていた。まだ顔が幼くそばかすがある。十二、三の童女では。茶色っぽい小袖に
「いえ、お気遣いなく――」
しゃんと立ち上がろうとしたが。
逆に立ちくらみを起こしてよろけた。
「ほら、湯を沸かしますから。ここよりはましですよ」
「……申しわけない……」
子供に諭されてしまった。自分よりよほどしっかりした話しぶりだ。情けない。
何もないあばら屋というのは謙遜ではなく、ただ板を打ちつけただけの薄暗い小屋で
そこで少女の身内なのか
「何だかお世話になってすいません」
「もしや陰陽師さまですか」
「あ、ええと」
――
背筋を伸ばし、少し考えて、袖で口許を隠して。
「……陰陽寮の末席を汚す者で師にはほど遠き若輩、心得は少々ございますもののさしたる
――少し考えたところ、まさかこの状況で「今をときめく播磨守です」と張り切って名乗れないと思った。陰陽師は役人だが人間ではない神秘の存在、安倍晴明の嫡流が牛車に酔って道端でへどを吐いて半死半生になっていたなんて世間の噂になるわけにはいかないのだ。吐くほど牛車に酔うのは神秘のない普通の人でも大変恥ずかしい。
「やはり陰陽師さまなのですね!」
だがそれで老夫婦の顔がぱあっと明るくなって。老爺は先ほどの娘の肩を抱いてこちらに押し出した。
「これなるはミクズと申しまして、拾い子にございますが占いでよく
……出たよサイキック自慢。とんだ夕顔だ。陰陽師を歓迎するなんてそういう
「はあ、わたくし小物にて身内の慈悲で土御門のお邸の片隅にひっそりと住まわせていただいている身の上なれば人を雇うような権限も余裕もなく。
陰陽寮はそういうところじゃないんだよ。終了。二桁かける二桁のかけ算をぶっ通しで百問も二百問も解けるなら考えてもいいが絶対そういう能力じゃない。
土御門邸に住んでいるとこの手の自称サイキック、前世自慢、宗教の勧誘、ありとあらゆる者が調子ぶっこいて安倍晴明の
ときどき吉野の修験者などを邸に招いているので勘違いされるのだと思うが、あれは修験道で陰陽道の心得のある者が新技術を開発していることがたまにあるので話を聞いているのと、単に京都にいると世間が狭いので旅人から情報収集しているだけだ。超常体験やらサイキックパワーやらには期待していないし、多少の手品や心理操作テクニックはもう大体仕組みを憶えた。身分の高い人が相手だと「わーすごいですねー」と感心するフリくらいはするが、そうでなければさっさと門前払い。
陰陽頭の耳に入れるまでもなく下位の者がスマートに断るのが基本スキル。そういう意味ではもう彼は直接こうした手合いの相手をする立場ではない。
だが老爺はにこにこ笑って
「まあまあ今宵、こちらでお休みになるうちだけでも。ミクズ、陰陽師さまのお世話をするのだぞ」
老婆とともに
そして平安貴族男性の九割は喜んで据え膳を食うのだが、靖晶はそういうキャラではなかった。単にハニートラップが怖い。基本無料なんて大嘘だ。小役人でも
「いや、あの、泊まるつもりとかないから、もう治ったから帰りますよ軽くお礼の品など送りますから」
早々にロリコンフラグをへし折ろうと拒絶の意を表明したところ。
少女は気まずそうに頭を下げるのだった。
「……申しわけございません、播磨守さま。父がはしゃいで」
――名乗っていないのにピンポイントで役職を言い当てられて少し焦った。
「は、播磨守などと。わたしはそのような」
「失礼ながら立派な牛車から降りられるところをお見受けいたしました」
少女はつらつらと滑舌よく述べた。
「中将さまのお邸に向かうとも。中将さまともあろうお方のお邸に伺うのは陰陽頭さまのご子息の播磨守さまでありましょう。そのつもりはありませんでしたが覗き見、盗み聞きをしてしまい大変無礼なことです。知らぬふりをしようかとも思いましたが苦しんでおられる様子、お助けするべきではと
「いやあぼくはただの伴の者でもう一人が播磨守です! 年上だったでしょう!」
「あちらの方がお年が上なのに狩衣でしたし、牛車を降りて歩いていかれました」
「……なかなか目端の利く子ではあるな……」
十年前の自分がこんなに落ち着いてものを言えたかどうか、思い出してヘコむほどだ。
「何より、とても上等な衣を着ていらっしゃいますが」
――そうだった! いつも
……一張羅でへどを吐いてしまった。シミでもついていたら家族にどやされる。改めて
「いや陰陽寮はそういう部署ではないんです、霊感があればバンバン取り立てるとかそういう感じではなく。女性の求人ははなからないし。ましてや愛人、いや妻を募集しているわけでも」
「申しわけないです、それは気にしないでください。わたしが十四になったので、父は焦っているのです」
「そんな焦る必要はないと思うけどね」
女の結婚適齢期、十二~四歳。その割に二十過ぎの
「いやあのですね。ぼくには身の回りに女性を置くわけにはいかない、いろいろと複雑で入り組んだ真面目な事情があって、ぶっちゃけ今忙しくて一律でNGで君が好みじゃないとかではないので気を悪くしないでほしいです、はい」
何だかしどろもどろで言いわけする羽目になってしまった。
慌てた様子がおかしかったのか、ミクズはくすりと大人びた笑みを浮かべた。
「播磨守さまの北の方は優しいお方なのでしょうね」
「……あー、それは」
「……髪が短い? 何だか変わった衣を着ているような。緑色? 高貴の姫君は紅の袴を穿くのでは?」
――本当に心臓をブチ抜かれたのはここからだ。
「わたし、時折
……驚くな、落ち着け。ホット・リーディングだ。元々靖晶の身の上を噂に聞いてそこそこ知っているのをそれらしく言っているだけだ。陰陽寮でも使う術だ。
五位の
「なるほど、そういう。晴明公も
落ち着け。次は
これまでに本物のサイキックなど一人もいなかった。
――本物だったらどうだと言うのだ。陰陽寮にかかわりのあることではない。陰陽師のお勤めはそういうものではないのだから。占いもまじないも期待されて追加したオプションだ。本当に必要なのは
そう思うと割り切って落ち着いてきた。
「
「お気遣いありがとうございます」
「……ええっと」
もう少しくらい気遣いをしてもいいかもしれない。あの義父母は娘を受領の愛人にしてワンチャン、孫が
「本当に嫌な結婚とかさせられそうなら、尼さまのところに行きなさい。文を書いておこう。筆はある?」
「あ、いえ」
「ああ、
官は物を書くのが仕事だ。懐に筆入れと懐紙がある。綿に
「ミクズと言ったかな。名前の字は?」
「え、ええと、あの」
あ、そうか。――姓と名が誰にでもあると思ってはいけない。
「
適当に考えて、懐紙に書きつけた。
『この
少し考えて、もう一文足した。それをよく乾かして、
「堀川の
「女の衣を着たくない?」
「とんでもないお方だから大抵のことはあそこでは許される。ただし宗教に勧誘される。まあ食い詰めたら行ってみなさい。門番にこの手紙を見せなさい」
それはそれとして別に反物なども送ってやろう。彼女を一晩借りた礼としてはそんなところなのだろう。
その後、夜も更けた頃に土御門邸に戻ったら寝室に良彰が待ちかまえていて。
「……おい。何でお前の方が帰りが遅いんだよ」
何やら恨みがましい目でこちらをにらむのだった。
「道に迷った」
「平安京は碁盤の目になっているのにどうして道に迷う!? わからない場所に行くならともかく帰るのは帰れるだろう、月も出ていたんだから!」
「あっそうか月を見れば方角がわかったんだ」
「お前、本当に陰陽師なんだよな!?」
「狐にでも化かされたかな」
「お前、本当に陰陽師なんだよな!?」
――この日、靖晶が出会った話はこんなところ。何も不思議なことはなかった。
だが自分をどん底の産廃生物だと思っていた男が一瞬、他人の世話を焼いて自己嫌悪を忘れたのは一つの奇跡だったのかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます