陽のない空で

なかoよしo

暗黒の闇空に

序章


緩い脳みその記憶と照らしあわせて朝食のメニューを思いだしてみる。

 思いだせない。

 あつい陽気に汗ばんだ脇の下で体が溶けていくような錯覚をおぼえる。

 しあわせなのは悪いことではない。

 ただ、本当にしあわせだというのならだ。


 自転車は必需品。

 自分にある唯一の移動手段。

 そして、自分という人間を社会に刻む身分証明は保険証だけ。

 随分と貧しい女である。

 世間の枠から価値を見いだすのなら、そうなのである。

 卑下することは高徳ではない。

 財産なんて、その言葉さえも勿体ない。

 母は昔に死んでいる。

 父は運送業を営んでいる。

 姉は男と出ていった。

 弟は土木作業に勤しんだ。

 無能の自分、行き場が見つからないからレストランで働いている。


 幸福の鳴き声は聴こえない。


 自分から進んでいく道は、誰かが踏みならした跡しかない。


 石碑をみつめる。

彫り込まれている文字を読んだことは一度もない。

 その横には天狗岩。

 天狗岩には願いを叶えてくれるという伝説がある。

 天狗岩とは天狗の顔を象った岩であり、その鼻に触れて心に三度、願い事をとなえると、かならず願いが叶うという。

願い事なんてない。

諦めることに自分は馴れてしまっているから。


自分を自分たらしめるもの。

存在意義なんて必要だろうか。

仕事場で長く働いていた先輩は病気で長に入院をしているという。誰も見舞いには行っていないらしい。あたしのことを好きだと言っていた。その気持ちが解らないから答えてあげることが出来なかった。

 そういえば何度か血を吐いたのを見たことがある。

 人なんて呆気ない。

 大切な人もいなくなる。

 優しさの使い道が解らない。

 善悪の判断も解らない。

 男なら誰だっていいように思えてくる。

 たいした男じゃなくったって自分はそれに抱かれたがって見せることができるのだ。

 ただ、その人とは年が離れていたために嫌悪した。

 ほんとうは風評に惑わされた?

 よく解らない。

 いま思ってた事が、いまの事ではなくなるの。

 目の前で他人に侮られている彼。

 友人に気味が悪いと言われている彼。

 財産もなく将来性のない彼。

 どんどん否定することで自分の了見が小さくなる。

 そういう環境にあったからだと肯定している自分の頭は短絡的。

 もっと大人になれればいいのに。

 姿形なんかじゃない内面。

 精神的に子供だから真実から眼をそむけ、好き嫌いの判断さえも怪しくなった。


 人は恋をするのだろうか。


 打算や世間体なんかじゃなくて、ただ心の動きだけで。


 あたしには理解できないことなんだけど。

 このさき自分は、いったい何人の男と体を重ねることになるのだろうか。

 衝動的な肉体が感じる快楽だけを、しあわせだと思うのは、自分が無知蒙昧であることが原因なのだろうか。


 履歴書を書く。

 学歴をみて気づく。

 自分には何もないことを。

 男に委ねて死ぬ以外に、自分には道がないということも。

 人生を諦めるには充分なんだ。


「人見知りをする?」

「はい」

「それじゃ、ちょっとねぇ。

 受付といっても接客業だし、笑顔は綺麗だけど喋れないとダメなんだよ」


 そう、つくり笑いは苦手じゃない。

 自分が魅せる上っ面だけしかみない人間は便利な道具だ。

 自分に実力以上の価値があると勝手に思いこんで重宝してくれるから。


「あたし、しあわせだよね」


 やがて、子供を産むことで、それを男に確認した。

 他人の評価や自分の仮定なんかは気にしない。


 ただ、しあわせだと実感したかったんだ。




本編




 と言った彼女の気持ち。

 それに共感しない訳ではないが、

「彼女のことを思い出すことがつらい」

 と言う黒羽陽介には酷なニュースをあたしが告げたのは、とある市立病院の病室だった。


 冬摩陽子は結婚して子供を産んだのだと言う現実。


 まるで、どうでもいい世間話のように。

 それが彼には痛いほど苦しいことなのではないかと、それがあたしの偏見だったと、それに気がついたのは、黒羽の言葉を、あたしが聞いたからだった。


「この世に必要なモノは充足感。

 彼女がそれを手にしたのなら、俺からはもう、何を語る術もない」


 と芝居がかった科白。


 彼の癖で。

 あたしはそれが嫌いじゃなかった。

 あたしは、彼が苦労人だと言うことを知っていたからだ。


 黒羽は、あたしが勤務している会社の先輩だったが、彼と現在の女社長の間に意見の食い違いからなる衝突があったとかで、しばらくは、その営業から遠のいて田舎の方で地道にパートをして暮らしていた。

経営不審が続いていたため、会社の経営陣から引き戻す交渉をするよう指示をうけたあたしの誘い。

彼は頑なに拒否しつづけていた。


 その理由。

 彼は病を患っていたからだった。


あたしが事情を知ったのは、彼が入院した後の事だった。


 人間、引くには引けない時がある。

 一度たちどまってしまったら、其処から足場が崩れてしまって、二度と其処に辿りつくことが出来ないような。

 それが居心地のいい場所なら猶のこと、そこから離れることが苦痛になっていくものなのだ。

 それを自覚しているから人は自己嫌悪するものなのかもしれないが。

 そんなものが長く続く訳もない。


「会社に戻れば彼女と会う機会さえもなくなってしまう。

 だが、此処にさえいれば、俺は彼女に会うことができるのだから」


それは彼の頭の中での話。

現実に会える訳ではない。


 比較の対象にはならない。

 誰もが彼の思考をよむことが出来ないが、あたしにはそれが解るのだ。


 黒羽は冬摩を愛していたからだ。


「他の誰を愛していても構わない。

 どんなに汚されても構わない。

 最後に彼女の傍にいたいんだ」

 と、あたしにはその想い。

 骨身に染みるものだった。

 だから敢えて、それを放任するように勤めた。

 と同時に、いつでも彼が戻る場所でありたいと、自分の地位を確立していったのだ。

 そう、あたしは黒羽のことを愛していたからだった。


「死ぬことは別に恐くない。

 ただ、誰の記憶からもなくなってしまうことが恐い。

 彼女に・・・

 自分のことを忘れられてしまうことが恐いんだ」



 最終的な原因は不明だが過労によって倒れた彼、これまでにも癌と脊髄を患った経験がある。病気を恋人にしてしまったんですねと笑うと、死にたいと笑いかえしてくる。中脳に異常があるために、眼球が動かず照準が掴めないそうだ。

 外転神経麻痺というらしい。

 しばらくして、リハビリにより眼球の操作までは回復したが、彼には、あたしの姿が見えず、いま此処にいることさえも、あたしの声によって、なんとか区別することができるという程度。それでも彼は仕事に気をかけていた。

かつての上司である黒羽は抜本的改革案を、あたしに委ねることが多い。いまだ理想を捨てることができないでいるから、そうなのだろうか。事務所に置かれてある過去の個人実績を確認すると片寄っているために有能ではあるが危険と判断されていた。

 彼に対して世間は低い評価を下している。


「努力が理解されないことはある。

 誰もが同じ道を歩んで成長してきたのではないから人間は食い違っていくものなのだけど・・・」


という社長は黒羽に好意的。

 二人はむかし恋仲だったと。

 これは会社内では周知のこと。


「あくまで直属の上司の判断であって、組織全体のものではないから、うえに意見をしてくるのは良いことだと、あたしは思うよ。それは会社を良くする原動力になると思うからね」

 なんてワザと難しい褒め方をする彼女。

 彼女も理想を捨てることができない人だから、入院中の彼の意見も積極的に会社に取り入れることを許してくれる。

 彼女のことを黒羽の方も感謝していることは態度で解る。


「それが器というものだから。

 大人数を配下に置くということは、それだけの信頼を得るということだ。

 おまえもいつか、そうなれるといいけどな」


 けど、ムリ?


 トゲのある科白だと反発したい想いがある。

 苦手な愛想笑いをすると、笑うなと注意を受けた。

 黒羽は過去に縋りつく傾向のある男。

 にがい思い出があるとも言った。

 忘れられない人がいるのだと、それが解った。


「冬摩陽子・・・」


 あたしには憎くて忘れることができなくとも、彼には愛しくて忘れることができない人?

 その身が引き裂かれても猶、その人のためなら死ねる。

 それが解るあたしなのに。

 彼女を許すことなど、とても出来ない。

 あたしの心は意外と狭い。


 あたしの名前は#篠木恵__ささきめぐみ__#。

 苦学生であった。

学生と事務員を両立していた。

 一応パートだったのを、黒羽が後任に推薦したため、会社での自分の立場が変わったのだけど、誰もが反対した人選だった。

 そのとき社長は「不満はあるかもしれないけど、彼女の働きによって給料は変わるから」と皆を宥めた。

 それは良くも悪くもと言う意味があること。

 けっして喜ばしいことではない。

 あたしは不満を言った人間の顔を全部おぼえていた。

 忘れるものか、いつか見返してやるんだ。

決意を戒めたのは最初の仕事。

 現実は甘くない。

 人間の持つ悪意の方向性を上に。

 それがあたしの根本理念。

 教えられた技術や手法なんて、ちっとも身につかなかった。

 実践は教科書どおりにはいかないものだ。


「あたし、ダメですか?」


 つい聞いてみる。


「はやいよ。

 もっと七転八倒、のたうちまわってから結果を出せよ。

 若さを責めてんじゃなくて、諦めの早いのが悪いっていうんだよ」


 理解しろと言う。

 過ちを責めるものは上にはいない。

 下だけだ。

 不平不満を食いとめるための人海戦術に劣っているのだと勉強。

 机から離れられない日々が続く。

 自分をこのまま終わりにさせたくないから、チャンスを最大限活用させたかったんだ。


「ブラインド、好きですね」


 病室の壁は薄緑色にみえる。

 黒羽は着崩した服の端を踏みつけながら転びそうに歩く。

 危なかしい。

 あたしは気を使っていたが、目の見えない彼は無頓着で。

 それでも、あたしに気を使う。

 的はずれなものばかりだったけど。


「勝ち気すぎるのが良くない。

 いらない敵を増やすだけだよ。

 机の上だけでも仕事は捗るものだけど、其処にいる人たちの表情が見えない。

 中からの不満は外に漏れるものだから、まず働く者たちのために仕事をしないと」


 説教がすぎるので疲労が残る。

 やさしい人ではあるけれど、細かすぎるのが玉に傷。

 あたたかい気持ちにはなるけれど、色恋沙汰とは無縁な関係。


 彼は両親の知人だった。


 十数年前。

 震災で家が粉々になったとき、あたしだけが助かって家族は皆いなくなった。

ライフラインが途絶えた異様な廃墟を心象の光景に描くこと、不可能じゃない。

 あたしはそれを経験して生き残ったのだから。


「大丈夫か?」


 べつに抱きしめられるわけでもなかったが、あたしの人生を決めてくれたその人は、親戚以上に親戚で、家族以上に家族であって、両親以上に親だった。


 あとで交通手段がなかった事を知り、自分の足で十キロも離れたあたしの家まで来たのかと思うと嬉しくて有難かった。


 今はもう、その感動すらも無くなってしまったけれど。

 いや、そもそも感動なんてしていなかったのかもしれないけれど。


「価値観なんて人それぞれだ。

 おまえの自由にすればいい」


 結局は委ねてくれる。

 この人は信用している人間に甘い。

 その人が裏切るとは考えもしないんだ。

 その事実を共有している社長。


「ねぇ、ちゃんと聞いている?」


 黒羽の病室、三人でいるのは息苦しい。

 はやく用件を済ませたかった。


「葬儀を手伝ってほしいんだけど」


 寝耳に水。

 話をきけば、そうでもなかった。


「葉隠れってバーで知りあった希って子が交通事故で先週亡くなったんだって。

 彼女、#黒羽__こいつ__#と大人の関係だったのね。

 自分で顔を出したがっているけれど、体がね。

 だから、どう?

 あいつのかわりに行ってくんない」

「どうと言われても・・・」


 丁重に断った。

 自分に自信がない証拠。

 弱さをみせるのも勇気だと習う。

 日進月歩。

 明日の自分への計り知れない期待。

 これは枷でもあるし、翼でもある。

 常に両極。

 栄光と破滅。

 実力相応の選択肢をセレクトし続けること。

 無謀な冒険なんてしたくない。

 あたしは、この人たちに選ばれて此処まで来たのだから。


「足場が壊れるのは不安ですから」

「んなの、みんなの共有財産じゃね?」

「そうですね」


 自分で思っている以上に、あたしは臆病な人間なのかもしんないなぁ。




 全部、忘れてしまいたいのに・・・




 そういう日は少なくもない。

 自分が経験したことではなくとも、自分にとって大切な人が経験した苦労や鬼門は、あたしにとってもそうなのだ。


「だから?」

「やっぱり、この街にくると駅前は避けてしまいます」


 黒羽が入院している病院がある街は繁華街から遠い。

 会社からも遠い。

 その病院がある街の駅前の店で彼は働いていた経緯がある。


「プラネタリウムの鑑賞も、魅力を感じなくなっちゃいました」


 それはふと見上げた寒空に、遠く煌めいた本当の星空に感動したという話の結末に言った科白だった。


「気のまわしすぎじゃね?」


 それが寂しいという意思表示なのだと、あたしの心は惨めになる。


「ひどい味だって、噂のレストランがあるんです。

 脩さんがその店に寄ったら、指紋のついたコップで水をくまれて、それでも平気な顔するの。クレームつけようと呼び鈴おしたら来ないし、呼びかけたら逃げる。働いているふりして動線はバラバラ。店長はどいつか聞いたら裏で作業しているって。

 どう思います?」


 なんて意味もないのにケチをつけたくなっていた。


「店長は店の顔だからな。

 顔を表に出せない店はロクなもんじゃねぇ」


 自分はつまらない人生を歩んでいる。

 それを伝えると自分がつまらない人間だと宣伝しているようなものだ。


「行ったことありますか?

 万里さんの店より大きいそうですよ」

「べつに・・・んな店は見ていないけど・・・

 陽介が好きだって女を見にいったことがある。

 不細工だった。

 見る眼がないね」


 あたしは冬摩陽子のことを知っている。

 彼女のことを黒羽が死ぬほど愛しく想っていたことも知っている。

 だから愚痴って憂さを晴らしたかったのだけれど、気持ちがそれをセーブしてしまうんだ。


「価値観は、それぞれですよ。

 みんなが同じ枠の中で、その概念に生きているわけじゃありませんから」

「まっ、だけどね。

 限度があるよ。

 愛想笑いは器量とは無関係だよ。

 ちゃんと人と話ができる人間が可愛くて器量よしってことになるんだよ」

「じゃ、あたしも失格です」

「更衣室や事務室に娯楽道具をおくと仕事の切り替えが遅くなる。

 店長が隠れていると、いざという時に対応が遅れる。

 役割分担がハッキリしていないと仕事がまわりづらくなる。他店のイベントを把握していないと常連客を手放すことになる。また情報収集のない改革は畢竟、単なる自己満足。産業スパイって程じゃなくとも相手の弱点を知り、自分の長所に加えることが会社を大きくする一歩となる。つまりはこれが、儲ける店と儲けない店の違いとなる」

「勉強になります」

「ほんとうに?」

「・・・」

「結局は自分の目で見て、手で触れないと、結果はついてはこないものだよ。

 ただ、ベースにはそれがある。それを知らないで素人みたいなことしてると泣いて馬謖を切るしかなくなるから」

「肝に銘じときます」

「黒羽の詭弁を通すほど、脆弱じゃないよ。

 組織ってぇのは」


 自分は彼とは違うとでも言いたげな科白に、ちょっと頭にきていたのか子供染みた衝動で、咄嗟に妙な事を口走る。


「あの人が女性に惹かれるのは仕草だといってました。

 それが雰囲気を醸しだして、だから惚れてしまったと」


 と、それがこれ。

 社長にはビクともしない揺さぶりで、自分が愚かだったと気づくのに、さして時間はかからない。


「外観の一部に気をとられている以上、感情が壊れたとは思えない。

 配慮がきかないとか、融通がきかないって世間で育った女だから、冬摩陽子を上等な人間だと認識することさえ、あたしには抵抗があるんだけどね」

 と社長は笑って聞き流す。

 そんな余裕のある人だった。


 この世で唯一、その苦悩を味わうことができる者。

 あらゆる局面に存在する人。


「あたしのことを想って、泣いてくれている人ってのもいるのかな」

 それが家族以外の誰かだったら、あたしは生きてきた意味を感じ、泣くかもしれない。


 もしも、そんな人がいればの話だが。


 運命なんかないんだよ。

 君を束縛している得体の知れないモノの正体なんかに気をとられないで。

 君は君なんだから。



 モノクロの視界が粉々のガラス、砕け散った。


 世界が晴れて、あたしは漸くあたしを認識する。


「死んだのですか」


 もぬけの殻。

 いつも横たわっている人がいない。

 看護士は退院したのだと言った。

 自分が不謹慎なことを言ったことを悔いる。

 背後には、黒羽に似ている人がいた。

 眼鏡をかけてスーツ姿の一見、目立たない風体の男で細身。


「兄弟ですか?」

「いいや」

「じゃ、どういった関係で?」

「君を待っていたんですよ。

 篠木恵さんですね」

「あなたは?」

「#斐月要__ひづきかなめ__#。

 みんなはそう呼んでいます」

「本名ではないんですか」

「秘密」

「不思議なこといいますね。

 黒羽さんは今どちらへ」

「地元の病院へ移ったそうです。

 僕は頼まれたことがあるんでね。

 もし宜しければ君に協力を頼みたいんですが」

「まず身の証をたててもらえますか」

「用心深いんですね」

「当然の処置だと思いません?

 初対面の相手には誰もが警戒します。

 そういうことですよ」


 斐月要は写真を持っていた。

 それはあたしを信用させるためだけに持参していたのだと解る。その手回しの良さに興味をもった。写真には黒羽と彼が一緒に写っていた。合成ではないらしい。あたしは苦手な作り笑いで、有名ホテルの展望レストランへ招く。夕食にはまだ早かったが、食事が相手の心をほぐすのに有用だという俗世間のマニュアルに沿ってみたくなったんだ。


「こんな話を知っていますか。

 十九年前のことです。

二人の女性が亡くなりました。

 同世代の女性です。

 一人は病気で亡くなりました。

 すぐに診断書が書かれました。

 その直後、もう一人が亡くなりました。

 殺されたのです。

 そして、診断書が書かれました。

 二人とも病死として済まされたのです」

「どうしてですか?」

「知りませんか?」

「可能性なら想像がつきます」

「ぜひお聞きしたいものですね」

「診断した医者が女性を殺したんだと思います」

「診断書を偽装した?」

「と、思います」

「残念ながら、この話は最近ワイドショーでも話題になったもので、答えが存在するんです。そして、現実に基づいた解答に照らしあわせてみますと、あなたの想像は現実的なものではありませんね」

彼はピッツアを。あたしはカルボナーラ。きどってシャンパンなんかも、飾るだけで二人ともクチをつけてはいないけど。

「冷たい言葉ですね。

 考えれば、もっと枠は狭まると思いますよ」

「考えてみてください」

「そうですね。

 ん~・・・すみません。

 ちょっと思いつきそうもありません」

「では、またの機会に」

「答えを教えてはくれないんですか」

「はい。

 あなたは利口な女性です。

 しかし、あまりにも世俗に疎すぎるのです。

 それを戒めるためにも、この答えはまた、次の機会に」

「余計な世話です。

 ・・・自分が立派だとは思っていませんが、ニーズに踊らされて自分に迷うような、地に足のつかない人間にはなりたくないんです。あたしには、自分に関わった人たち、自分に従ってくれている人たちに対して責任があるんです」

「それって、ほんとうに自分の意志でしていることですか?

 って、これは愚問ですね。

 あなたの答えは聞かなくても想像ができます。

 自分の意志だと。

 あなたは頑なな女性です。

 これは人生のキャリアで培った人を見る眼で想像したに過ぎませんが、おそらく間違いないでしょう。負けん気の強い女性なのです、あなたは。

 そして合理的であり論理的でもある。

 ぼくの話をきいて、そこから何かを得ようと貪欲に聞き手にまわってくれている。

 素晴らしく聡明な女性です」

「べた褒めですね。

 わるい気はしませんが、とても照れくさいです。

 だけど、考える時間は充分にとれました」

「答えが見つかったんですね」

「はい、おそらく」

「聞きましょう」

「病気で亡くなった死体で二つの診断書をつくったんですね。

 それ以外に考えられません」

「お見事。

 よく解りました」

「それ以外に考えられませんから。

 なぜ、その事件が発覚したんですか?

 むしろ、その方が興味あります。

 十九年も前の話なんでしょ」

「味をしめたという奴ですよ。

 おなじ犯行に及んで、今度は上手くいかなかった。

 それを過去の経歴に照らしあわせたことで過去の悪事まで明るみにされたという」

「因果応報ですね。

 あたしが一番、大嫌いな言葉です」

「言葉の意味?」

「それもです。

 真剣に考えたことはないですけど、反面教師的な」

「成長の過程でも決して通ることがないことを祈ってってことですか」

「ですね。

 おかしいですか」

「いいえ」

「でも今、わらった?」

「気のせいですよ。

 ・・・いや、無意識かもしれない。

 自分では意識しなくても笑っている時があるんです」

「それ、あぶない人ですよ」

「自覚はあります。

 ありませんか? 

 未来の予感にうちふるえて無意識に笑みがこぼれる」

「あたしには無いですね。

 いつも不安で一杯ですから」

「疲れる生き方をしていますね」

「責任を感じているだけです」

「さっきの話に戻りますね。

 しかし、それもあなたの魅力です」

「お世辞ですね。

 でも、ありがとう。

 そんなこと言ってくれる人いませんから」

「そんな筈はないでしょう」

「いいえ。

 ふるい言葉でキザですから、誰も言ってくれはしませんよ」

「いってくれますね」

「それよりも、そろそろ本題に入って貰えませんか?」

「本題って?」

「頼みたいこと。

 頼まれたこと」

「ああ、そうでしたね。

 たとえば、あなたが幸せの絶頂にあるとして、その時に、ある不幸によって奈落の底へと叩きおとされるとします。そうしたら、それは通常の不幸よりも衝撃は大きなものだと言えますか」

「いいえ。

 仮定の話なんでしょうが、あたしには無意味です。

 これまで幸せというものを味わったことがありませんから」

「想像でも?」

「ありません」

「そうですか。

 なら難しいかもしれませんね」

「黒羽さんが、そんなことをあなたにお願いしたんですか」

「いいえ。

 彼では、ありません」

「社長?」

「彼女は非情なマキャベリズムの権化とも言えます。

 それに関わる者の気持ちを考えれば無下にもできないものなんですが。 

 つまり調査を」

「探偵の方ですか」

「さぁ」

「興信所とか?」

「友人ですよ。

 それ以上の名乗りはしたくないんです。

 名前で呼んでくれさえすれば結構です」

「協力というのはつまり、あたしとの会話。

 これで情報を聞きだしているということは、すでに協力させられていたのですね」

「はい。

 実をいうと、その通りなんですよ。

 つまり、どちら側に正義があるのかを知りたかったので。

 疑心暗鬼な状態でのあなたのレスポンスはとても刺激的でしたよ」

「もっと深い会話もできそうですね。

 なにか聞いてみてくれませんか」

「恋人はいますか」

「いいえ」

「それは勿体ないですね。

 ぼくがフリーだったら放っておきませんよ」

「あたしがあなたに興味ありませんから」

「正論ですね」

「それは何の調査なんですか」

「あなたの交友関係は意外と狭いんだなと解りました。

 すみません。ムッとなされていますね。  

 でも、あなたは仕事以外に向いている感情がないように見えます」

「それは間違いありません。

 まだまだですね。

 顔に感情がでるなんて子供の反応でした」

「悔やむことはありませんよ。

 人間らしいということです。

 ぼくは逆に見習わなければなりません。

 ぼくはね。愛想笑いをしているけど、表情に思っていることが出てこないんです」

「それは欠点なんですか」

「つまり、ぼくが言いたいのは短所も長所となりうるということです。

 問題は、その活用方法」

「ロジカルですね。

 あたしよりも立派なキャリアをつめますよ」

「ありがとうございます」

「素直ですね。

 あたしだったら疑います。

 おだてやお世辞にはウンザリしていますから」

「慎重なのはいいことです。

 ぼくも会話を慎重に勧めようと、話すべき言葉には気を使っているつもりです。

 しかし、ときには感情の儘、吐露してみたくもなりますよ」

「なにを?」

「クチに出してはいけないこと。

 もしくは、クチに出すべきではない言葉」

「哲学ですか」

「人生における生活や習慣はすべて、哲学というんです」

「なるほど。

 とても有意義な言葉です。

 有意義な時間を過ごしたと思います。

 でも、時間は常に有限なものですから。

 楽しい時間も、いつかは終わる」

「これ以上は一緒にいられないんですね。

 残念です」

「引きとめてはくれないんですね」

「とめたら、とまるものなんですか」

「いいえ。

 それはムリですね。

 スケジュールという枠が、あたしのライフサイクルに組みこまれている以上、予定外のことに、時間はもう割けません」

「今度、招待するときには、アポを取ってからにします」

「では、失礼します」

 席を立ち、すこし離れると振り返ってみた。

 斐月は食事をまだ続けている。

 静けさが妙に後を引いたのが、あたしにとっては不快だった。



 あたしは、その足で事務所へ戻ると、仕事の遅れを取りもどそうとディスクに向かった。雑念が何度も胸にもたれて息苦しかったが、それでもあたしは自分に与えられた使命をやりとげなければならなかった。どんなに過酷な状況にあったとしてもノルマが軽くなることはない。数週間後、あたしが黒羽の実家近くにある病院に訪れたとき、そこには斐月も暇を持て余して寄っていたらしく、四方山の会話を続けていた。

 あたしは、その話に耳を傾けた。


「噂以上に聡明ですね。

 事務で彼女の右にでる人間をおそらく、ぼくは知らないでしょう」


 あたしの仕事なんて見たこともない癖に歯の浮くようなことを・・・白々しいと嫌悪する。

 憎むには愛嬌がありすぎるから、かわりに皮肉。


「眼鏡、似合ってないですね」

「度が、はいっていないからね」


 明朗に笑う。

 誰にでも、こんな顔なんだろうなと思った。

「昨日、冬摩陽子に会ってきたよ。

 君が言うように、とても可愛らしい女性だった」

 と斐月。

 なぜか違和感を感じるので、よくよく見ると、以前に比べてぎこちない斐月の態度に気づく。

「でも・・・」 

 だから彼が冬摩を気に入らなかったことはすぐに解った。

「#黒羽__キミ__#が選んだとは思えない。

 短絡的な女性だった」

 愚か者だと斐月は評価を下していた。

 あたしも、彼に評価を受けたのだろうか。

 自分がどんな人間として黒羽に伝えられたのか興味はある。

「彼女の子供が進学するのでね、その面談があったんだよ。

 ぼくは知人のツテで、其処に立ち会ったのだが。

 一瞬、彼女を認めた君の人格さえも疑ったね。

 それは前もって聞かされていたことではあったが、実際に目の当たりにしたのではインパクトが違う」

「きびしいですね。

 下手なこと言って妙に勘ぐられたりなんかしませんでした?」

「あなたなら、その違和感に気づいたことでしょう。

 だが彼女はあなたほど賢明ではありませんよ。

 何一つ、疑いもしませんでした。

 ずっと視線を下に向けていたから、おそらく初対面の相手の顔を覚えたことなど、これまでに一度もないだろう。オシャレにも疎く、自分が無い。世間の評価に左右されるだけで満足して、細かい配慮ができない。面倒くさいことも苦手。そんな女性だ」

「随分、分析されているんですね。

 時間は限られていたんでしょう。

 わずかな時間で、そこまで解るものでしょうか」

「最近の女性は主婦でもネイルアートをしているもので、彼女の爪はそうではなかった。つけ爪もなく、手つきから水場での仕事はしているものと見える。それに、こちらの質問に対して彼女は何一つ話を広げようとはしなかった。アピールがないということは」

「質素な服装だったのですね。

 おそらく黒に近い色。

 あとパンツルック。自分をコーディネートするのが苦手な方にありがちなんですけど、人物像ができてきましたよ。

ネイルなんて畏まった席では普通してはきませんけれど。

 それよりも、どんな質問をしたんですか」

「なぜ、この学校を選んだのかとか。

 そんなものですよ。

 彼女の身振り素振りに気をとられていた。

 あんまり育児は得意じゃないようですね。

 子供は奔放で身勝手でしたよ」

「あたし、子供は嫌いなんですよ」

「でしょうね。

 他に、聞きたいことはありますか」

「どちらに正義があると思いますか」

「なんの話ですか。

 よくわかりませんが、それを理解するための時間がほしいところです。

 ・・・保留で宜しいですか。

 彼女が選んだ男というのにも興味があります」

「いい男ですか」

「写真があります。

 どうぞ」

 それを見て、まるで好みではなかったので心の儘に。

「微妙・・・ですね」

 と呟くと、それは失礼な言葉ですねと軽い忠告のあと、

「でも、あなたの言葉を真に受けるなら、人間を見る眼はないようです。

 黒羽さんが病に耐えてまで彼女と居たかったという気持ち。

 ぼくには理解できませんが・・・

 いえ、恋とは盲目のものですから」

 と、そのとき黒羽の声が。

 聞こえるか聞こえないかの、かぼそい、ふるえる声帯で。

 それはこれまでに聞いたこともない音で、とても黒羽の声とは思えない。

 それほど彼は窶れて、衰えている証拠でもあった。

 彼の言葉で。

「論理的な功利主義だけで人は計れない。

 俺が彼女に認めた価値の根拠は・・・」

 かすれて、最後は何と言っているのか聞きとれはしなかった。



 夕闇に照らされて絆されて、安直な毎日を繰り返すからだろうか。

 あたしは斐月につれられてディナーに出かけた。

 べつにタイプでも何でもないのだが、彼はあたしに優しい男だと直感が認めていたからだろう。

「今度は、ぼくの行きつけの店に行きませんか。

 ちょっと日傘町の方まで出るのですけど」

「どんなお店なんですか」

「お酒のお店なんですけど。

 ムーディーで、とても篠木さんにあっていると思いますよ」

「お酒は苦手なんですけれど」

 彼の運転で隣の町へ。

 車には疎いので種類はよく解らなかったが、〇〇〇〇だと彼自身から、そう聞いた。

「燃費がよくないんですけどね」

 よく解らなかった。

 それが冗談なのか本気なのかも。

目的地が近いのだろう。

 駐車場に車をとめるとスマートにエスコートする斐月は、あたしと歩調を合わせて歩く。

「あなたは趣味をもたないんですか」

 繁華街の裏道から地下街へと抜けると、人通りの少ない石畳。 

若い女が通るような道ではないと思ったが、そこに彼の勧める店があった。

ライト&シャドウ。

「タウン雑誌で見たことあるわ。

 良い店みたいね」

 店内には音楽が流れていた。

 女性がピアノを弾いている。

 大好きな曲だ。

 アルビーノのアダージュ。

「素敵ですね。

 こういうの趣味に合います」

「あなたにピッタリだと思いました。

 ちなみに今、ピアノを弾いている女性が、ぼくの恋人です」

「綺麗な人ですね。

 大人の雰囲気がするお店ですし」

「お世辞ですか」

「とんでもない。

 あたし、それ嫌いですし」

 あたしはマティーニに砂糖を溶かしてもらっていた。

 彼は「いつもの」と言っただけ。

 それが何だか解らない。 

 透きとおった蒼色のカクテル。

 ピアノを弾いている女性の髪と同じ色で鮮やかだ。

 あたしには似合わない色だ。

 翡翠色の瞳。背も高い。あたしも高い方だが、それよりも。

 スタイルだって・・・

「ムカツキますよね」

「すみません。

 もうそれを言いません、絶対に」

「いえ、そうじゃなくて」

「そうじゃない?」

「いえ。

 ・・・なんでもないです。

 気にしないでくださいよ」

 対象としているのは彼女じゃない。

 彼女が異国人だというのは直ぐに解った。

 まるで人形のように整った顔立ちも羨ましい。

 ドレスアップすれば自分だって、それなりのモノになれると自負しても、それを立証するには現実的に、あたしが着飾っていなければならないんだ。

 キャリアウーマンに定着した自分が恥ずかしい。

 誇りであるだけに、それだけしか脳がないと思われることがつらい。

「あなたのスーツ姿は様になっていて、見とれるほどに素敵です」

「他に自分という表現の仕方を知らないだけです。

 それよりも本題を。

 黒羽さんの前ではマズイ話があるのでしょう」

「わかりますか」

「おそらく黒羽さんも気づいていたと思いますよ。

 前フリぐらいは用意しておくべきですよ。

 あからさまに場を離れたがって見えましたから。

 黒羽さんにも失礼でした」

「まぁ非礼はゆくゆく詫びるとして。

 じつはこのI・Cレコーダーを聴いてほしいんです」

「黒羽さんのですか」

「ご存じで?」

「聴いたことあります。

 音声データーに変換したものですがパソコンで」

「と思って実は、こちらに重要な部分を抜きだしておいたんです」

「全部きくと数日かかるという話ですよ」

「そのようですね。

 ・・・実際そうでした。

 便利な時代になったもので:::まぁ、護身用にレコーダーを持ち歩くのは今時めずらしくもないようで。こんな風にペン型で、デジカメとレコーダーの機能を活用できるのですよ。

 ぼくも、いつもスーツの胸ポケットに入れています」

「エチケットのようなものです。

 自分の発言に責任を持つという意味があるんです。

 あたしも持っています」

「では、ぼくらの会話も」

「もちろん。

 お互い様じゃないんですか」

「いえ、なれないもので綺麗な女性を前にするとスイッチを押すのを忘れてしまって」

「七十四時間録音できる筈ですよ、それ。

 あたしと同じものですから」

「だから押しっぱなしにもなるんです。

 活用に馴れないんで」

「じゃ、さしあげましょうか。

 あたし記録していますから」

「全部ですか」

「はい。

 今お貸ししますよ。

 物騒な世の中ですので」

「何が起こるか解らないと・・・なるほど、たしかに物騒です。

 そこで少し、気になった言葉を書き写しているので見てもらっても宜しいですか」

 みるとヨレヨレの手帳に殴り書きされている。

 字が汚くて読めなかった。

「達筆ですね。

 ワープロとかに写して貰えると嬉しいんですが」

「すみません。

 アナログな人間なんで、そういうのを苦手にしているんです」

「かわりに読んで頂けますか」

「そうですね。

 わかりました」

 彼は手帳を手に取った。

 白々しい科白は、自分のクチから説明をしたかったって判断していいのだろうか。

 なぜ、あたしにそれを今さら聞かせるのか。

 その意図する所に興味があるので耳を傾ける。その間に、あたしは自分のレコーダーのメモリーデバイスを抜きとり彼にさしだした。

「べつに繰りかえし聴くということは滅多にありませんがセミナーなどでは重宝します」

 と、あたし。

 斐月は黒羽の過酷な生活やら、その原因が人間関係の形成にあることやらを彼はこんな風に纏めて説明する。

「自分の発言に責任を持てる人間がいないのでしょう。 

 信頼関係をきずいていない相手が、その言いなりになるのは容易なことではありません。自分と相手との距離感を誤っている者には見極める能力が必要となってくるとは思いませんか・・・

 もっと言うと」

「まだ、あるんですか」

「では、やめましょう。

 つまり、ぼくが知りたいのは・・・

 過酷な日々に耐えきれなくなった彼は、あなたのいる会社で法的な不正行為をしていたんです。

 そして、このレコーダーには、その証拠が残っているんですが、それは一度揉み消されてしまった。

 でも彼は、仕事を辞めたがっていたのだと思います。

 そのまえに冬摩陽子に逢っていたから、彼女の傍にいたかったのではないかと。

 しかし、そこでも不遇な想いをすることになる。

 それでも彼は逃げだそうとはしなかった。

 なぜ?

 その要因が、ぼくにはどうしても不明瞭な儘なのです」

「そんなことはないでしょう?

 もう解ってらっしゃるのではないですか」

「それは一体どういうことです?」

「人は、人を好きになると言うことが」

「素敵なフレーズですね。

 おもわず聞き惚れてしまいます」

「恐縮です。

 なかなか話の長いオードブルで、そろそろ眠くなってきたんですけれど」

「すみません。

 もうすぐ終わります。

 しばらく辛抱してください。

 つまり、ぼくが言いたいのは」

「それほどに黒羽陽介は冬摩陽子が好きだったと」

「その理由は?」

「理由はないんじゃないですか」

「あなたは運命を信じていらっしゃる」

「信じていますよ。

 自分に都合のいい範囲内で」

「ぼくは特に、そこに興味を持っているんですよ」

「暇ですね。

 斐月さんって、いったい何をしている人なんですか」

「秘密です。

 ただ正義の味方に憧れている時期はありましたね」

「ロマンチスト?

 気持ち悪いっていわれませんか」

「今日はじめて言った言葉ですよ。

 でも気持ち悪いとは言われてます。

 ぼくって、そういう人間なんですよ」

「いいんじゃないですか。

 現状におちついているよりは冒険している人の方が格好よく見えることありますし。あたしみたいに勝つことを考えなければ負けない方法なんか幾らもあります。

 それって、あんまり格好良くなくて、地味ですから」

「ぼくは、そうやって地に足がついている人、好きですよ」

「まぁ、主観はそれぞれですからね。

 否定とかはないですよ。

 ・・・話、戻しませんか」

「話?

 なんの話をしていましたっけ」

「人が人を好きになる理由です」

「哲学ですね」

「生きていると、生活すべてが哲学・・・でしたっけ?」

「そうです・・・

 そうですね。

 では、もう少し、頭を使って話しましょう。

 つまり、冬摩さんを好きになることで、黒羽さんにはどんなメリットがあるのか。

 ぼくの知るかぎり、あの人は黒羽さんのタイプじゃなかった。

 黒羽さんのタイプとは、あなたのような女性です」

「でしょうね。

 自覚してます。

 でも、それは論理的な解釈にすぎません。

 自分でおっしゃったじゃないですか」

「自分で?

 ぼく、なんか言いましたか」

「恋は盲目ですって。

 理屈じゃカタがつかないんじゃないですか」

「なるほど。

 確かに言った記憶はあります」

「腑に落ちてないようですね。

 それでも笑えるなんて素敵です。

 あたしには嫌味な笑顔に見えますけれど」

「すみません。

 気をつけます。でも、この顔は・・・」

「顔のことを言っているんじゃありません。

 そうやってすぐ、はぐらかそうとしています。

 いったい何を探ろうとされているんですか」

「ぼくがですか?」 

「他に誰が?

 マスターとか・・・ピアノを弾いている恋人さんとかを言ってらっしゃるのですか」

「いいえ。

 戯れ言でした」

「単刀直入に。

 いいですか、それで宜しくお願いします」

「それは、ぼくがお願いするべきことだと思っていました。

 では、ぼくが何に疑問を抱いているかはお解りですか」

「仮説なら」

「お願いできます?」

「他に支えとなる誰かが介入していれば違う結果もあったのではないかということですね。

 たとえば・・・うちの会社とか」

「そのとおり、それもお聞きしたかったのです。

 なぜ、そうしなかったのでしょうか」

「組織は個人で動くモノではありませんから、あたしのポジションでは保身だけで手が一杯なんですよ」

「進言することはできたんですよね。

 あなたの会社は上から下よりも、下から上への情報の方が多いらしいじゃないですか」「黒羽さんの意志も尊重しています。

 独断先行は、あたしの辞書にありませんので」

「辞書にはない・・・

 不良品ですか」

「冗談をいっているんじゃありません」

「いえ。 

 なかなか話が進まないもので」

「誰のせいでしょうかね」

「お互い様ですね。

 まぁ、いいでしょう。

 では短刀直入に。

 あなたは黒羽さんを好いていらっしゃる。

 そして、彼の状況も熟知しておられたのですよ。

 何故です?」

「何故とは?

 まるで女性を知らない男の言葉ですね」

「女性・・・ですか。

 たしかに解っていないかもしれませんね」

「では、ご教授いたしましょうか」

「お願いします」

「女とは嫉妬深い生き物なんです。

 そして、尋常ではない欲も。

 地位や身分を、かなぐりすててまでってのはありません。

 相手が自分を一番に想ってくれているのならば吝かではないのですが、黒羽さんの場合は、そういったケースではありませんので」

「単調なものではないと?」

「複雑でもないと思いますよ。

 他の女のためにしていることで手助けしたいとは考えられなかった。

 それだけです」

「それは女性ならば、皆さんそう考えるものなのでしょうか」

「勝ち気なら。

 あたしが標準規格とは限りませんから。

 女性という人種は、世の中に星の数ほど存在していますから」

「あなたは、星の数をご存じですか」

「そんなの知っている人はいるんですか」

「星はひとつですよ。 

 それが遙かな昔、ビッグバンによって分裂しただけなんです。

 もとはひとつしかないんです」

「旧約聖書にあるアダムとイブの神話に類似していますね。

 真実もそうだと素敵だと思いますけれど」

「まぁ、そうですね。

 ぼくもそれを望んでいますよ」

「そろそろ時間がありませんので」

「以前も、そういって帰られた」

「すみません、お仕事なので」

「なるほど。

 では送りますよ。

とても参考になりました」

「そうですか」

「どうも、ありがとうございました。

 有意義な時間を過ごせましたよ」

 なんて白々しい男だと、あたしは改めて思っていた。


 愛情が深ければ深いほど相手を傷つけてしまうことがある。

 愛には決まったカタチが存在しないからと不器用なあたしは安直に、無闇に愛を求めていた。


 斐月は、あたしを黒羽のいる病院に送ってくれていた。

 彼に会いたいんじゃないかと思って案内したんだとそう言った。

 それを思い起こしているところ、

「いったい何を話してきたの」

 と疑問を投げかけられる。

 黒羽の体調が良くなったのは、その声でハッキリと判断はできていた。

 べつに聞かれたことに答えるのに躊躇はしなかった。

「今昔物語の話です。

 あの世界観では人間が鬼になるんです。

 そういう話、お好きでしたよね」

「ああ、好きだよ」

 答えた科白は出任せの嘘だったけれど。

「でっ、いったい何を話してきたの?」

「だから今昔物語の・・・」

「君は嘘をつくときにだけ顔を背ける。

 わかりやすいんだよ。

 普段から目を背けることは珍しくない君が、顔を背けるのは珍しい」

「だから偽りだと?」

「最近、体が動かないぶん、人が目をむけないモノに目をむける癖がついているんだ」

「たとえば?」

「有名なプロボウラーの記事とか、メダリストのてくてく旅とか」

「あたしもよく見ています。

 趣味、あいますね」

「言いたいことは解るだろ?

 君は無能な人間じゃないんだから」

「じつは・・・

 あたしにもよく解らなくて。

 ちょっと何かを探られているような気はしたんですけれど、自分でもそれがよく解らなくて。

 すこし不愉快な気分になりました」

「それで嘘をついたのか」

「思いだすのも嫌な記憶ってあるじゃないですか。

 それ、でしたから」

「なにを疑われたってんだ?」

「さぁ、それはあたしが知りたいんですけれど」

「もしかしたら・・・

 かもしれないけど・・・」

「すみません、よく聞きとれなかったんですが」

「たぶん、おまえには言っても解らないかもしれないな。

 なぜなら・・・」


 それが核心に近づく言葉なのかは解らない。

 それも聞きとれなかったから。

 もしくは、あたしに聞かせたくはなかったのかもしれない。

 それを自分で見極めさせるために・・・ 

 ・・・考えすぎか。


 憂鬱だ。 

 気怠いのは嫌いじゃない。

 翳る陽をオフィスから覗く。

 それだけが、あたしの日常にある空だ。

「ホラー映画とかにあるじゃないですか。

 正体不明の何かに追われているシーンって。

 そういう夢を見たんです。

 振り返ってみたら、それはロボットだったんですけれど。

 こういうの、夢占いで解釈がきくものなんですか」

「夢占いと心理学占いって、どう違うの?

 子供の頃から、ずっと気になっていたんだけどさぁ」

「さぁ、基本的に同じなんじゃないですか。

 自分が詳しくないので聞いてみたんですけれど?

 この占いで何が解るものなのかなぁって」

「それはたぶん・・・ネクロフィリア。

 魂のないモノを愛する心を測定するときに機械的なものを引き合いに出すことってあると思うよ」

「恵さんは信じていないんですね。

 占いって?」

「んなことないよ。

 自分に都合が良ければ寛大にもなるよ。

 ただリアリティに欠けるけど」

「人の手が加えられていないと気持ち悪がる人たちの手によって、幽霊や妖怪の民話って伝わってきたのだと思いませんか。

 理屈で片づかないから神や悪魔の名を出した。

 往々にしてリアリストほど非現実的なものですよ。

 そのリアリストって、昔は科学者とかの地位にいたのかもしれませんね。

 でも現在、科学者は超常現象を否定しています」

「陰陽術も科学だった時代?

 ふるいよねぇ~」

「あんまり興味なさそうですね。

 フェルマーの定理。ゲーデル、不完全性理論。ゲーム性理論、J・フォン・ノイマン・・・むずかしい本が大好きですね。

 ゴシップは読まないんですか?」

「ミュンスターベルヒとかマーガレット・マーロンは読むよ」

「徹底したリアリストなんですね」

「可愛げがないって言いたいんでしょ。

 自覚してるからクチに出すのは勘弁してね」

「いいえ。

 尊敬できる素敵な先輩ですよ、恵さんは」

「そりゃどうも」

「だから時々、不思議な気分になるんですよ。

 こんなに偉い人なのに、自分の心って解らないものなんだなぁって」

 機嫌のいいときは歌だって唄うのに。

 心外とは言わないけれど、そんな振る舞いを続けてきた自分に一番の理由があるのだから。

「あたしだって神仏を信じているかもよ。

 いずれは朽ちて死んじゃうんだし、その死ぬというメカニズムが解らない以上、その加護の元に生命はあると考えてしまう。

 不自然なことじゃないわ」

「でも、それは広域じゃないですか」

「リジー・ボーデンって知っているかしら。

 斧で家族を惨殺したって娘の物語。

 あたし好きな話なの、これってゴシップだと思わない」

「いいえ、歴史だと思いますよ。

 たしかそちらの棚に本がありましたよね。

 すこし見せてもらっても構いませんか」

「ええ、ご随意に」


 一八九二年八月四日。

 マサチューセッツ郊外のフォールリバーの家に、銀行員の父アンドリュー、その後妻のアビィ、先妻の娘のエマとリジー、親戚のジョン・モース、メイドのブリジェット・サリバンが住んでいた。

 ある日の日曜。エマとジョン・モースは外出し、メイドのブリジェットは二階の自室で眠っていた。

「やけに静かなので階下におりてみると父親が血まみれのソファーで倒れていたんです」

 二階の寝室ではアビィが頭を割られて死んでおり、そこからは骨が見えている。

 どちらも斧で三十回以上なぐられた痕が残っていた。


「おもしろい事件ですよね。

 最重要容疑者であったリジーが裁判にかけられたのだけれど、証拠不十分で無罪になっているんですよね」

「弁護人の主張が正論だったのね」

「壁一面に被害者の血が飛び散っていたというのに、逮捕されたとき、リジーの衣類には一滴の血痕さえも見あたらなかったから。もしも彼女が犯人だとしたらヌードで彼らを殺害したことになる・・・と」

「逮捕される前に着がえたんじゃ」

「血の匂いって簡単にはとれないものでさ。

 風呂でも沸かしていたのなら着がえることもできたと思うよ」

「もしも、この謎を解けたなら歴史を動かせるんじゃないかとか思いませんか」

「さぁね、考えたこともないわよ」

「恵さんって、そういう感じですよね」

「それって、どういう意味?」

「いえ、とくには・・・

 だから不思議なんですよね。

 恵さんは」


 携帯電話のメールが苦手だ。

 自分の感情を上手く伝えるような手段として絵文字や顔文字があるが、ビジネスでは機械的な文章でしか組みたてる必要がなく、だから自分は誤解されるのかもしれない。

 電話のコールは七つ。

 ようやく出てきたのは若い女性の声だった。

「Is this kaname,s house?」

「Yes it is」

「May I speak to kaname?」

「Who,s calling please?」

「This is kaname,s friend speaking」

「Please wait a minute」

 待ち時間は空白。

 あたしは手持ちぶさたに眠気覚ましのコーヒーをやる。

 深夜二時をさす針が目に入る。

 非常識だったかと自己嫌悪。

 自分の名前を他人に名のることが不愉快なんて・・・なんてグリーンな女なんだ。

「Thanks for waiting」

 電話口の声に聞き覚えがあったので、あたしはいつもの口調に戻して少し非難した。

「おそいです。

 随分と待たされてしまいました」

「いちおう、こちらにも都合がありますからね」

「前フリはどうでもいいんです。

 ようやく、あなたが言っている意味に気がついたんで確認を・・・」

「そんなこと。

 ずっと気になっていたんですか」

「ええ。

 あたしにとっては大切なことですから」

「意外と情熱的なんですね」

「行動派といってください」

「では、お聞きしましょう。

 いったい何に気がついたんですか?」

「それは、簡単なことでした。

 ただ、あたしが石頭だったというだけで」

「それは?」

「それは・・・」


 神話でスフィンクスは旅人に謎かけする。

 その問いと答えは世間に周知である。


「マザーグースの『足』って知っている?」


 二本足が三本足の上で一本足をしゃぶっている。

 四本足がやってきて一本足をうばって逃げた。

 二本足は三本足を四本足にむかって投げつけた。

 そうして一本足を取り返した。


 それが何であるか解らなければ奇怪だけれど、解れば全貌がみえてくる。


「二本足は人間ですよね。

 それが解ると想像ができます」


 女には誰かを幸福にする力はない・・・

 それでも・・・


 誰かのために幸福にならなければならないんだ。


「欠けたピースが見つからないの。

 それは、あたしだけなのかもしれない。

 物語の中にいる他の登場人物には、すべてが見えているのだけど、あたしにだけは見えていない」

「それは何かの暗示ですか。

 不思議な呪文を唱えるんですね」

「なんか、あたし、バカにみえる?」

「いいえ、そんなことないですよ」

「ごめんなさい。

 今の自分自身にいった言葉なの。

 自分が何だか頼りなく思えてきちゃったりしてさ」

「誰か好きな人でもいるんですか」

「何で、そう思うの?」

「いるんですね」

「だから何で?」

「女性の悩みなんて色恋が主流じゃないですか。

 それでとりあえずクチにしてみたら、何でそう思うのと聞かれたので・・・そうなんだなと。

 違う場合は違うと、とくに無駄が嫌いな女性はそう答えるものですから」

「なるほど、鋭いね」

「よいビジネスマンは観察眼にすぐれているものだと。

 中岡さんの口癖でしたよね」

「ビジネスマンじゃなくて、できる人間だよ。

 男限定の言葉にしないでよ、男尊女卑って嫌いなんだから、せめて、あたしの目の前だけでも・・・ねぇ」

「軽率でした。

 すみません」

「いや、だから責めてんじゃないんだってばさぁ」


 陽のめぐりあわせってものがある。

 月の日でもないのに気分が堕落。

 これも全部、嫌いじゃない。

 幸福のあとにある不幸に対し、あたしは免疫がなさすぎる。


『君は何も知らないんだ。

 この手をさしだせば、何だって手にすることができること。

 その手をのばせば、空にだって手が届くということも』 


 童話は嫌いじゃない。

 最近はよくエドワード・ゴーリーを読む。

 ふきだしを自由に書き込んで友人にプレゼントしたこともあるくらい。

 でも、それは違う話。


「神様っているんですか?

 いるとしたらイジワルですね」

「いないよ。

 神なんて奇跡を信じたら、人は努力を忘れてしまうから」

「あたし、皮肉な恋をしていますよね。

 でも、これが恋なのか解らなくなってきたんです。

 これ、恋ですか?」

「きく相手を間違っているんじゃないか」

「いいえ、中岡さんで間違いないですよ。

 だって、あたしが好きなのは・・・」


 夢をみた。

 冬摩陽子という女の。

 自分の価値に見切りをつけ、生命を消耗するためだけに日々を過ごしている女性の・・・


「それは、簡単なことでした。

 ただ、あたしが石頭だったというだけで」

「それは?」

「それは・・・あたしが幼くて、父親に憧れていただけだったんだと。

 あたしは黒羽さんに夢を見ていただけなんですね。

 だから、あなたは」

「黒羽さんはもう死んでもおかしくはない。

 あなたが前へ進むためには、あなた自身が決着をつけなければならなかった」

「頼まれごと・・・協力・・・マザーグース・・・足・・・リジー・ボーデン・・・

 ようやく欠けていたピースがキッチリとはまった心地です」

「それはそれは・・・

 それで、あなたは自分の心が解ったのですね」

「あなたが暇な人間だということと同じくらい明確に」

「素晴らしい報告です。

 それに羨ましい。

 あなたは幸福になれる女性です。

 なによりも、あなたが自覚していることでしょうが」


 彼は蜃気楼のように現実味のない男。

 あたしは夕闇に透かして空を見上げている。

 現実とは架空の肖像にすぎないものなのだと実感しながら・・・


「大丈夫ですよ。

 ちゃんと傍にいてあげますからね」


 墓石に手を合わせて座るのは、今は亡き両親の霊を供養するためだった。

 そこには斐月も一緒にいた。

「あのとき、あたしに手をさしのべてくれたのは黒羽さんだったけど、あたしの生命を救ってくれたのはあなただった」

「思い出しましたか?」

「妙に付きまとうので鬱陶しいと思ってはいたんですが・・・

 似合わない眼鏡なんかしているんで気づかなかった。

 ・・・とればいいのに」

「無茶を言わないでください。

 ぼくには全然視力がないんですから」

「でも似合ってないです」

「いいから。

 それよりも先生に挨拶してもいいですか」

 と、あたしの隣りに。

 あたしは少し横に退いた。

「涙の後片づけが漸く終わりそうです」

 と、訳の解らない科白。

「そういえば、いつもそうだった。

 あなたは難しいことばかり言っていた。

 だから、あたしもそれに憧れて、理解しようとして、こんなになっちゃった」

「素敵な女性になったと誇ればいいですよ」

「遠慮してるんでしょ?

 恩師の娘だと思って」

「それは考えますよ。

 ぼくは先生に、あなたの幸せを誓ったんです。

 いまわの際の先生にね」

「瓦礫の中から助けだしてくれた。

 まぶしい王子様に見えたのを覚えている」

「わすれていたじゃないですか」

「まぶしすぎたせいなのよ。

 すぐに水をさすの、やめてください」

「それは失敬」

「あなたの話を聞いていると幼い頃の父を思い出します。

 父さんは犯罪心理学を教えていた」

「そのときの生徒が、ぼくと中岡さんだった。

 彼は一つ先輩なんですよ」

「最初から目的はあたしだったんですね。

 あたしの幸せに不満があったんですよね。

 だから会いに来たんでしょうから」

「そうですね。

 あなたの幸せを願っていますよ。

 中岡さんに気持ちがあるようだったので、心配でした。

 彼は女性に対して悪い噂がありますのでね」

「噂でしょ?」

「火のないところに煙はたたないものですよ」

「まぁ大丈夫ですよ。

 尊敬はしていますけど男としては見ていませんから」

「じゃぁ、やっぱり恋には程遠いですか」

「さぁ、前にも言ったかもしれないですけど、そもそも愛って何なんですか?」

「それを哲学と言ってましたかね」

「あなたと恋人さんとの関係って、どうですか?」

「ぼくらは自由ですよ。

 お互いに無理強いをするタチじゃないんで、ただ一緒にいるだけですよ。

 永遠の愛なんて信じてはいないけど、毎日寄り添うだけでも伝わる気持ちってあるじゃないですか」

「愛している?

 一生変わらない?」

「世の中、すべてが幸福な人ばかりではありませんから、誰もが自分の運命に人生をかけるけど、それでも大切な人に、めぐり逢えないこともあるんです。

 自分の心に疑問をもつ余地もない」

「だから人は道を踏みはずすんですね。

 ふりかえって我に返るのが怖いから」

「なるほど・・・

 そうですね。

 すべての生命には物語が存在するということですね」

「そぅ?

 素敵な言葉ですね。

 それも白々しいと感じられるけど・・・」


 あたしは彼が本心を言っていないんだと思っていた。

 わざとオブラートな言葉を使うのは、あたしを子供扱いしているからだということも。

 でも、彼がさししめす道標は、あたしには解りづらいものばかり。


 あたしには幸福への抜け道が解らないのだ。




 だから未来へと想いを馳せる。


 あたしは甘い蜜の夢へと墜ちるのだ・・・




「大丈夫ですよ。

 ちゃんと傍にいてあげますからね」




 横断歩道に少年が一人たっている。

 ずっと信号を見つめている。

 周りにいる誰にも見えてはいない少年。

 あたしには彼が見えていた。


 手をさしだすと握りかえしてくる手は頼りない。

 だから励みになるように、あたしは力強く声をかけたんだ。




「ちゃんと此処にいるからねって」




 いつか本当に、めぐり逢いたい。

 将来を約束できる大切な誰かとの間に産まれてくる。

 あたしが全力の愛情をそそぎ尽くせる、その大切なあたしの子供にも。




「大丈夫ですよ。

 ちゃんと傍にいてあげますからね」

 と、


 あたしも、それを伝えたいんだ。

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陽のない空で なかoよしo @nakaoyoshio

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