第2話
念願だった物が買える。
高鳴る胸の鼓動をなだめつつ駅を出ると、古書店街は深い藍色になりはじめていて家路を急ぐ人や買い物を楽しむ人々で賑わっていた。
楽しみを後に取っておくためブラブラと古書店をまわってみたけれど、目ぼしい古書も見当たらなかったし、目当ての物の他に何か面白い文庫がないかと書店を物色してみることにした。
季節物の和雑貨類が展開されている。
胡粉で作られたネイルが目玉商品のようで、毘沙門亀甲とウサギが配置された上品な雰囲気のポップが設置されていた。
ショートボブの女性が柘榴色のネイルを手に取って試し塗りをしている。
女性の後ろを通ると微かに木を切ったときの香りがした。
ガラスケースに入っていた万年筆を店員さんに取り出してもらい書き味を確かめる。
随分前からこの万年筆が欲しかったんだけど値段が値段なので今まで手を出せずにいたんだ。
PILOTのカスタム742フォルカン。
フワフワと柔らかいペン先、滑るように走る書き心地、力を入れなくても文字が綴れる素晴らしさ、日本語特有の跳ねや払いまで表現できるポテンシャルの高さ。
父親のを貸してもらって人生で初めて触った万年筆がコレだった。
学校で使う文具とは違う、言葉では形容出来ない不思議な感動があったのを思い出す。
値段が値段なので入学祝いなんてイベントでもない限り、今の僕には手が出ない。
後で買うと店員さんに告げ、文庫本コーナーに行ってみる。
ざっと見回ってみたけど、僕が面白そうだと思える本は上橋菜穂子の守り人シリーズだけだ。
店員のオススメポップの下に赤く目を引く文庫があったので手に取ってみたけど、初版の発行年数が古すぎて元に戻した。
結局、守り人シリーズだけを手にもってレジへ向かった。
店員さんが万年筆を自分用か寄贈用かを聞いてきて、保証書に丁寧に日付を記入していく。
高額商品を買うときって、結構面倒くさいことをするんだな。
僕の持ち物で一番高いものはスマホだけど、それだって母親に付き添ってもらって買ったから契約だったり保証書だったり、そんなのは全部任せてしまったので新鮮な気持ちだった。
お会計を済ませて二階のカフェで早速試し書きがしたかったのと、何かを食べながら読書したかったのもある。
やや奥まった場所の席についてエビとタルタルのアボカドサンドを注文し、テーブルの上にノートを広げて万年筆の封を切る。
付属のインクカートリッジを挿入してノートに書きだそうとするけどインクが出なかった。
気持ちが逸りすぎている。万年筆は書けるようになるまで少し時間がかかるんだ。
文庫本を取り出して辺りを見回すと、さっきネイルを塗っていた女性が入店してきた。
左手の人差し指だけが柘榴色に染まっている。
彼女はこちらの視線に気づくと、軽く会釈をしてきた。
知り合いだったかな? と思いつつこちらも会釈を返す。
僕よりは年上だろうけど、幼さの残る顔に丸メガネが印象的だった。
ゆったりとしたスカートを撫でながら僕の席のはす向かいに座って、コロコロと弾んだ声で店員さんに黒蜜きな粉ワッフルを注文する。
僕はどうしてだか、その姿を目で追っていた。
顔は特別美人でも可愛いわけでもないし、服やハンドバッグなどの持ち物が個性的だったワケでもなかった。
メニューを手に取る指の仕草、スッと伸びた背筋、店員さんへ向けられている笑顔、揃えられた足先なんかの、品のある雰囲気に呑まれてしまっていたんだ。
それでいて服装も顔もかわいい系だし、見た目との不相応さが酷くアンバランスに感じられて、どうしてか目で追ってしまう。
運ばれてきたワッフルに黒蜜がひたひたになるまでかけて、丁寧にフォークで切り取って口に運んでいると口端に黒蜜がついてしまったらしい。
指の腹でそれを拭い、ちゅっと音を立てて舐めとっていた。
僕の視線に気づいて恥ずかしそうに微笑を湛えて、ぺろりと唇を舌で拭っている。
僕は慌てて文庫本に視線を落とした。
数ページ読んだあたりで、そろそろ万年筆にインクがまわった頃だろうとノートにペン先を走らせていると、
「それ、結構良い万年筆ですよね?」
彼女から不意に声をかけられた。
普段なら無視するかもしれないけど、結構じろじろ見ちゃったし失礼な態度をとるのも何だか申し訳なくて、やや曖昧に「えぇ」と答えたあと、
「良かったら書いてみますか?」
思ってもいない言葉が出てきてしまった。
「買ったばかりでしょう? もし壊してしまったら申し訳ないですし、万年筆って難しそう」
「大丈夫ですよ。ボールペンで書くみたいにギュッと力を入れず、軽く押し当てて書いてみてください。初めてなら、きっと感動するはずですから」
「では、お言葉に甘えて」
彼女は食べかけのワッフルと手荷物を持って僕の隣に座った。
黒蜜きな粉の甘くて香ばしい匂いがする。
万年筆を渡すと、彼女の背筋がピッと伸びてノートにペンを走らせていく。
ペンの走らせ方が少し独特で、腕を使って書くのが気になった。
僕は手首から先で書く感じだったし、友人の事を思い出しても何処か違和感が拭えなかった。
なんて書いたのかと思えば『ワッフルとサンドイッチを交換しませんか』だった。
そんな提案に対して腑に落ちない顔をしてしまっていたんだと思う。
「私のワッフル凄く見てたから、食べたいのかと思ったんです。良かったら交換しましょうよ」
「いや、ワッフル食べたかったワケでは……」
「じゃあ、何を見ていたの?」
今までのふんわりとした雰囲気から一転して、獲物を狙う蛇のようなぬらりとした笑みだった。
丸メガネの奥から送られるてくる視線に背中が粟立ち、足元の感覚が頼りない。
彼女はおもむろにサンドイッチを一口食べるが、ワッフルの時とは違い口元が綺麗なままだ。
そして薄いピンクの唇をチロリと舐めて、無言で違和感を突き付けてくる。
違和感。そう、違和感。
僕の視線を丁寧に掬い取って、彼女自身がどこをどのように見られているかを把握した上で、自分の演じれる手札を切っていたんだと思えてしまった。
短い時間で自分がどんな女であるか、そして、どうすれば僕の心を揺さぶれるのかを試されて、ひどく僕は狼狽している。
もちろんコレは僕の抱いた妄想かもしれない。
それでも柘榴色のネイルが僕の目に入るようにフォークをくるくると遊ばせる様子からして、一階から目をつけられていたと考えるのは、少し考えすぎだろうか?
「私がフォーク持ってたら食べられないですよね。店員さんから貰ってきますね」
彼女が席を立つと、ドッと疲れが押し寄せてくる。
喉はカラカラだし、よくわからない緊張で胃液が上がってくる。
サンドイッチと水を流し込んで人心地つくと、自分が女性への免疫がなさすぎるせいで、こんな妄想に取りつかれているんじゃないか、と頭を抱えたくなった。
彼女はフォークと数枚の紙ナプキンを手にもって席へ戻ってきた。
「お待たせ。どうぞ?」
フォークを手渡される。握ったフォークの上から手を重ねられて、慌ててしまう。
「その制服、錦野学園の制服よね?」
コクリとうなずく。
「実はね、私も錦野の卒業生なの。だから声かけたってのもあるのだけれど……」
彼女の顔が近づいてくる。
顔に熱を感じて目を逸らす。僕の顔はきっと紅潮している。
「それ以上に、その年齢で万年筆を買う男の子がどんな人か知りたくなったのよね」
耳元で囁かれる。微かに感じる吐息の熱、心地よく広がる声、重ねられた手に力が入らずフォークを落としてしまう。
その音が水琴窟のように響くと、店内のBGMが僕たちを包んでいった。
「振り払わないのね。ごめんね? 驚かしちゃって」
「あ、いえ、その……」
「でも、手を振り払わないって事は、少しは興味を持ってくれてるのかな?」
重ねられた手がほどかれると、彼女の指先が頬に延ばされる。
女性らしい柔らかな指先が頬を撫でてから、首元をたどり胸部へと至る。
一瞬だけ期待をしてしまったのがバレたんだと思う。
彼女は手を引きながら、
「お預けされた犬みたいな顔しないの」
悪戯っぽく彼女が笑った。
それからお互いが好きな本だったり、映画だったり、お互いの好きなものを沢山話し合ってから、三つの約束をした。
互いの名前を聞かないこと。
自分たちの関係を外に漏らさない事。
連絡は彼女からだけで、僕からコンタクトは取らないこと。
約束を破れば関係は終わる。
そして僕は彼女に手を引かれて、ホテルへと足を運んだんだ。
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