花街の犬
おうさか
第1話
花街の女は、花街で死ぬ。年季があけども寄る辺はなく、大抵はそのまえに病に伏せる。よほどの手練手管でなければ、花街を出ることはない。
というのが、ねえさまがたの言だった。私は学もない。人よりもおつむが鈍い。だから、ねえさまがたの仰ることの、半分もわからないけれど。それでも私は漠然と、この花街で生きてゆくのだと思っていた。
だいすきなねえさまが、長患いをしていた。私をとてもかわいがってくださる、気風の良いひと。ひさしく床につくことのできずにいたねえさまに、楼主さまは大層お怒りになられた。食事も、水も与えられず、病の末に動かなくなった。ねえさまは、麻袋に入れられて、遠くへ行ってしまった。
「あの子、死んだのですか?」
ねえさまの、馴染みの客がつぶやいた。線の細く、凛然としたふるまいの、男のひと。
私はいまだに下女の身だったから、客をとることはなかった。代わりにこうして、ねえさまがたを待つ客の、話し相手になることがある。
「ちがいます。ねえさまは、遠いところにいったのでございます」
「それを、死ぬというのですよ」
「ねえさまは、死んでなどおりませぬ」
男はわずらわしそうに、私を見つめた。ゆるりと胡座をかき、頬杖をついている。
麻袋をかつぐ下男が言っていたのだ。ねえさまは、とおつくにというところに旅立たれたのだと。そこへ、私も行けるかと問うたら、下男はきょとんと小首をかしげたのちに、笑っていた。
「とおつくにに、いったのでございます」
「君は頑固ものですね」
呆れたように、男は眉をひそめた。急に私は恥ずかしくなって、顔をうつむかせる。
「では、聞くけれど、遠つ国とはどんなところ?」
「わかりませぬ」
男がため息をつく音がした。
私はびくりと肩を震わせた。私は莫迦だから、ねえさまがたのように、客をうまく愉しませることができない。楼主さまに叱られる、と思った。
私は必死に言葉を探した。
「つ、つぎまでに、考えてきますゆえ」
「次?」
男が声を上げる。なにか、変なことを口走ってしまったのだろうか。おそるおそる、男の顔を盗み見る。男は鳶色のまなこを丸々と見開いて、それから口をしかめた。
「まあ、いいでしょう」
ぴしゃりとそれだけ言うと、男はそれきり黙り込んでしまった。だから私も、口を閉ざすしかなかった。
"つぎ"はそう遠くないうちに訪れた。甘い香の、満ちた閨。あたらしく私が付くこととなったねえさまが、男にしなだれかかる。男は大儀そうに寛いでいた。
「ねえさま、ねえさま。およびでしょうか」
ひとたびねえさまに呼び出されたのなら、いかなるときでも下女は飛んでゆかねばならない。
ねえさまの着のものは、ゆるやかにはだけていた。やわかな曲線をえがく、真雪の肌があらわになっている。
かたわらの男は、私を見つけると、ほうと目を細めた。
「この子よ、とてもおもしろいの」
ねえさまが男の腕に抱きつくと、男に何事かをささやいた。男はなにも言わなかった。ただ、返事の代わりに、眉根を寄せる。
ねえさまはくるりとわたしに向き直り、そして言った。
「ルイリ。あなたはひとの子?」
「ルイリは犬です。犬の子です」
私の言葉に、ねえさまは楽しそうに笑う。こう言えば、皆んなが喜ぶのだ。だから、私は犬。唯一、遠くへ行ってしまったねえさまだけは、あまり嬉しそうにしてくれなかったけれど。
「この子ったら、まえに待てと躾けたら、三日間食事を取らなかったの。私なんて、待てと言ったことも忘れてたのに。かわいいでしょう?」
以前、粥の入った腕を目の前に、ねえさまが待てと言った。だから、私は待った。三日目になって、とうとうふらつきはじめた私に、ねえさまは「冗談だったのに」とつぶやいた。
「犬は好きません」
男が告げる。やけに難しそうな顔をしていた。
「でも、この子はかわいいじゃない」
ねえさまは甘えたようにしなをつくる。男はちらりともそれに気を留めず、「ルイリ」と私の名を呼んだ。鈴のなる、つめたく澄んだ声だった。
「答えは、見つかりましたか?」
私ははっとした。このひとは、たわいもない会話を覚えていたのだ。私はこくりこくりと、何度もうなずいた。
「とおつくには、あから顔のよく肥えた、猿のゆめの中なのだそうです」
「……猿?」
「そう、下男が言っておりました」
あれから、たくさんの人に尋ねた。だけれども、皆は笑うか、首を横に振るばかり。ようやく、下男が教えてくれたのだ。「秘密だよ」と言って、こっそりと。
「でも、ゆめの中だとすると、どうやってねえさまに会いにゆけばいいのでしょう」
男はますます眉間のしわを深くした。また、おかしなことでも言ってしまったのだろうか。
「もう、お行きなさい」
長いため息のあと、男は言った。
それから、時折男を見かけるようになった。男は月に数度、思い出したように訪れる。顔を合わせるたびに、男はなにやら小難しいことを、ぽつりと問うた。わけもわからずに愛想笑いを浮かべていると、「楽しくないのに笑うのはよしなさい」と嗜められた。
男といると、息がつまる。まるで、責められているみたいだった。だから避けようとするけれども、その度に男は私を見つけた。
冴え冴えとした冬の日のことだ。私は湯屋の前でじっと佇んでいた。中で湯浴みをするねえさまの、荷物番をすることが下女の務めだ。だから、たとえちらちらと雪が降り出しても、軒下でじっと待ち続けるほかない。
唇を引きむすび、花街のはなやいだ往来をながめる。豪奢な服の商人さまや、きらびやかな出で立ちの妓女。することもなく、ひいふうみいと数えているうちに、見知った飴色の髪の男が視界に入る。
「こんなところで、何をしているのですか?」
いつものように、男はしかめっ面をしていた。男は、私が胸に搔き抱いていた籠に視線を遣る。そうして「ああ」と納得のいったような声を出した。
「寒いでしょうに」
男はおもむろに羽織っていた外套を脱ぐと、私にかぶせた。驚いて、思わず体が固まってしまう。
男は訝しむようにじろりと私を睥睨したあと、両手をとった。男の体温がじんわりとつたわる。
とおつくにに旅立ったねえさまのことを、ふと思い出した。
「……ありがとう、ございます。とても、とてもうれしいです」
私はくっと面をあげて、男を見据えた。そして、私は無意識に笑っていた。
男は瞬きを数度繰り返して、そしてかすかに眦をやわらげた。はじめて、男の穏やかな表情を見た気がして、私は息を呑む。
「風邪をひかないようになさい。それでは」
男は踵を巡らして、その場を立ち去ろうとする。私は肩にかけられた外套をぐっと掴んだ。
「これを、お返しします」
男はぴたりと足を止めて、振り返った。私は濃紺の外套を男に突き出し、返そうとする。しかし、男は受け取らない。
「ならば、つぎ、会うときに返しなさい」
男は目を眇めて、悪戯めいた笑みを浮かべた。男の笑みは、うつくしかった。
いま思えば、私は男のことを何も知らない。名前すら、聞いたことがなかった。怖い顔をした、きれいなひと。それが、男のすべてだった。
冬が深まり、ほろりと溶けてゆく頃に、淡い春の兆しが訪れる。あれから、幾度か男と会った。男はあいもかわらず、つまらなそうにしている。だけれども、ふっとやわらかな表情を見せる時が、ほんの少し増えた。だから、私もほんの少し、男に心を許した。
そして時を同じくして、楼主さまから告げられた。そろそろ、床につくのだと。花街の女は、花街で死ぬ。私は、毅然とそれを受け入れた。
「こうしてお話するのも、最後でございますね」
いつもの通り、ねえさまを待つ間。男は、私を話し相手にと選んだ。男は眉を顰める。
「どうして?」
「ルイリは、妓女になります」
常ならば、男は「そうですか」とひとこと、相槌を打つだけだった。そうして、ふたりの会話は締めくくられる。それが、いつものやりとり。
だけれども、男はずいと身をわずかに乗り出した。
「知らぬ男に抱かれるのですか」
「それが、妓女でございます」
「怖くはない、と?」
「ルイリは花街の犬です。楼主さまが望まれるなら、それは喜ばしいことなのです」
そう返すと、男は額に手を当てた。そして、息を吐き出す。
「君のそばにいると、腹立たしくてしょうがなくなる」
男は私の手首を力強く掴んだ。ぐらりと傾いて、男の胸に引き寄せられる。視線が交錯して、それから男は手を離した。
「犬がいいというのなら……」
そうして、男は腰を浮かせると、そのまま何処かへ立ち去った。
唇に朱をさして、きれいな衣に袖を通す。
今日は、はじめて床につく日だった。だけれども、楼主さまは私を見つけると、どこかにんまりとした顔で告げた。
「身請けが決まったぞ。お前に大金を支払う馬鹿ときたものだ」
幼い頃から、私は犬だった。もう、いなくなってしまったねえさまだけは、私をひとの子だと言った。眠れないときは、子守唄を歌ってくださった。ひもじいときは、こっそり菓子を与えてくださった。寒くて凍えるときは、あたたかい布を肩にかけてくださった。
ああ、そういえばと思う。あのひとも、寒い日に外套を貸してくれた。雪の降る日だった。
「ルイリは、あなたさまの犬でございます」
そう言うと、男は怒ったような、悲しむような、複雑な表情を浮かべる。だけれども、もう何も言わない。男は私を掻き抱く。私はそれを拒まない。私を身請けしたこのひとが、私の飼い主だから。
「遠つ国へ、君はゆきたいのですか?」
耳元で男がささやく。男はこわいくらいにきれいなひとだ。そばにいると、ぼうっとなってしまう。
「ゆきたいです。ねえさまにお会いしとうございます。でも……」
私はそこで言葉を切った。そして、じっと考え込んでから、口を開く。
「猿の夢の中なのでしょう? だとしたら、いくすべもないではございませんか」
男は何も言わない。ただ、私を抱きすくめる。まるで、閉じ込めるみたいにして。
私は犬。あなたさまの犬。それ以外、生き方を知らないから。
花街の犬 おうさか @ousaka_1923
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