第6話 崩壊
たった一曲で、ミシェルは喉をがらがらに痛めつけ、モッズスーツを汗で濡らし、いまにも倒れそうな状態で舞台袖にはけていった。
激しい演奏と、声としかいいようのない音が奏でる前衛的なハーモニー。
それでも彼女がやっていることはまさしくロックだった。
主役が去っても、次のゲストが登場しても、鳴り止まない拍手や歓声が彼女のステージを讃えている。
新しく入ってきたアイドルグループに同情しながら、わたしも身の震えが収まらない。
八年前の魔法が書き換えられる。
かさぶたを剥がすような、痛みと、熱と、爽やかさと、もどかしさと、快感が、一気に押し寄せてくる。
この五年間、ミシェルの真似をしてつなぎとめていた世界が跡形もなく終わっていく。
会場にいなくて、よかった。
もしあの場にいたら、わたしの世界はどうなっていただろう。
ミシェルと過ごした八年前の思い出はどうなっていただろう。
連絡をするのが、怖い。
「すごかったですね……エレップ・ハント……」
「うん……そうだね……」
わたしは、この場にいながら息をするのも苦しい。
ヒカリさんのほうを見ると、何の動きもない瞳がテレビの色に染まっていた。
「エレップ・ハントの言ってた、終わった世界の美しさってどんな感じなんですかね。わたし、好きなものが終わったり、大切な人がいなくなったりっていう経験がないので、そういうのよくわからないです」
「……それは、別に悪いことじゃないと思うよ。大切なものを失くしてないってことだから。いまあるものを大切にすればいい、と思う……」
「でも、エレップ・ハントが見たものを、わたしの好きな人が見たものをわたしも見たいっていうのは、悪いことなんですか?」
「それも、違うと思う」
わたしに否定できるはずがなかった。
ミシェルとわたしは、自分の好きなバンドがもう存在しないという点で似ていて、共通した世界を見ていた。
「わたしにはわからないんです。どうしても、終わった世界の美しさを見てみたい」
ヒカリさんは、肩の力は完全に抜け切って、腕もだらりと下げて、ぴんと伸ばした背骨だけで体をまっすぐに支えながら、予備動作もなしに顔だけをこちらに向けた。
「だから、死んでくれませんか。クラリスさん」
反応する暇もなく、ヒカリさんが跳びかかってきた。
ベッドに押し倒される。
十本の指がわたしの首にかかる。
「え……あっ……」
痛みとともに喉が押し潰される。
「わたし、実はクラリスさんのことが好きなんです。毎晩クラリスさんのことを想ってしてました。今日だってわたし、お店のほう休んでここに来たんです。クラリスさんにはわたしから連絡するからって。店員とお客さんの関係じゃ、クラリスさんと対等にお付き合いできないし、告白しても公私混同で、お店にも迷惑かけちゃうから。好きなんです。クラリスさん」
ヒカリさんの息が荒い。頬も赤くて目も潤む。
顔だけなら告白の緊張感と解放感に挟まれた乙女のそれ。
わたしにとっては、客席に投げられたグッズを奪い合うライブ中のわがままなファンだ。
「大好きなクラリスさんだから、大切なひとだから、あなたを殺せば、わたしの世界がひとつ終わる」
頭蓋骨が膨らんで破裂しそうな感覚。
眼球が外に向かって飛びそうになる。
「そうすれば、エレップ・ハントの言っていた美しさが見れるかもしれないんです。だから死んでください、クラリスさん。大好きです」
「ヒカ……う……んん――ッ」
ベッドの端だったことが幸いした。
自分から床に転がり落ち、その衝撃で首元が緩んだ。
「――っハァ!」
空気をめいっぱい吸い込みながら、休む暇はない。
ヒカリさんの背後に回り込んで羽交い絞めにする。
「落ち着いて、ヒカリさん。ちょっと気が動転してる」
「離して! わたし、クラリスさんのこと、殺したくてたまらないの!」
「違う、それはあなたの意志じゃない!」
もがく彼女を懸命に押しとどめる。
殺されたくないし、殺させちゃいけない。
「じゃあ、わたしのこれは何だっていうんですか!」
「それは――」
そんなのわかりきっている。
何せエレップ・ハントの、ミシェルの歌が終わった直後だ。
音楽は人の心を操る魔法なんだ、と言ったミシェル。
その魔法にやられてしまったわたしだからこそわかる。
ヒカリさんに伝わるのか?
こんな荒唐無稽な話、存在するのか?
わからない。
でも、奇妙な確信だ。
ヒカリさんに間違いを犯させてはいけないという確信。
そして、ミシェルなら本当に、音楽の魔法で人を操れるという確信。
「あなた、エレップ・ハントの魔法にやられたんだよ」
「魔法……?」
ヒカリさんの体から緊張がほどけていく。
手品の種明かしと同じだ。
「人の心を操る魔法。音楽を聴くと、しんみりしたり、楽しくなったり、前向きになったり、懐かしくなったりするでしょう。その効き目が極端になると、今度はミュージシャンの音楽がないと生きていけなくなったり、ミュージシャンの生き方を真似したくなっちゃう」
ミシェルのように。
わたしのように。
「ヒカリさんはいま、エレップ・ハントの生き方を真似しようとしたの。世界が終ったときの美しさを見るために、わたしを殺そうとして」
「わたしが、エレップ・ハントの魔法に……?」
「うん。だから、あなたは何も悪くない。ちょっと魔が差しただけ」
喉の痛みなんてなんでもないふうに諭す。
ヒカリさんは項垂れて、小さく震えた。
「ご、ごめんなさい、クラリスさん……」
「ううん、いいの。間違いは誰にだってあるから」
つむじのあたりを、努めてやさしくなでる。
なんども、なんども、ヒカリさんが落ち着くまで。
でも、それは叶わなかった。
「その魔法、どうやったら解けるんですか」
「それは……」
わからない。
五年たってもまだミシェルの魔法にかかっているわたしに、わかるわけない。
「もし、また、クラリスさんのことを殺したくなったら、どうしよう……」
「そのときは、わたしがどうにか自衛すれば――」
「これから何回続くかわからないんですよ」
「何回だって、わたしがなんとかするよ」
「だめなんです、それじゃあ」
「ヒカリさん?」
わたしの腕から、ヒカリさんはすっと抜け出した。
「迷惑、かけられないです」
「そんなこと……」
「クラリスさん、大好きです」
走り出す彼女を引き留められなかった。
伸ばした手は、わずかに届かなかった。
ベランダに続く大窓が乱暴に開いて、地上八階の風を感じた。
宙に浮かぶヒカリさんの体。
見えなくなって、数秒としないうちに、車のタイヤがパンクしたような乾いた音。
わたしは、慌ててスマホの連絡先を呼び出した。
『は、はい、こちら――』
「店長さんですか? わたしです、クラリスです」
『クラリスちゃん!?』
ヒカリさんが勤めていたお店の店長さん。
狭いレズビアン界隈で、いまいちばん頼れそうなのは店長さんだった。
『クラリスちゃん、あなたいま大丈夫?』
「え、ど、どういうことですか?」
まくし立ててくる声に尋ね返した。
『お店の子が、いま大変なことになってるの! いま対応に追われてて。でも、クラリスちゃんの声が聞けてほっとした……』
深夜、事情聴取を終えどうにか帰り着いた自宅でニュースを見た。
わたしが首を絞められそうになった瞬間。
ヒカリさんが自殺した瞬間。
日本中で殺人事件が起こっていた。
死者は数万にも上るという。
そのなかにはヒカリさんや、ヒカリさんの同僚もいた。
わたしはまた電話をかけた。
ほどなくして息遣いが聞こえた。
『はい、もしもし』
「……え?」
五年ぶりの声は、誰だか分からなかった。
「あの、これは、ミシェ……エレップ・ハント……さんですか?」
『申し遅れました。エレップ・ハントのマネージャーをやっている者です。クラリスさんですね。本人から伺っております。明日の正午、お会いできますか』
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