第16話【 Lovers Ònly 番外編】


「ようこそロンドン美術館へⅨ」





彗はその果実の味は未だ知らない。


イングリッシュ ストロベリー。

収穫の季節は既に過ぎていた。

今年英国の春は寒かった。


ロンドンにも暫く雪が残っていた。


そのせいもあって、英国苺の春のデザート、イートンメスは初夏でも楽しめた。


本来なら、ウインブルドンでも観戦するように、シャンパンとユニオンジャックの付いたパッケージに入った英国莓を手に、ギャラリーの絵画の鑑賞でもしたいところだ。


半透明のカップに入ったクリームはホイップしない。固めのクリームをかけた甘味の少ない莓。溶けかけた氷の入ったアイスティ。


手にした女性がギャラリーの前を横切る。

勿論館内はカフェ以外での飲食は禁止だ。


トラファルガー広場専用歩行区。


広場が歩行区域として解放されて以来。

ギャラリーでは1階にあるオフィスの外部への移築の計画が進められていた。

土地の有功活用である。


此処を訪れる人の群は絶えることはない。

イースト ウイングを見上げたり。

携帯で動画や写真撮影をしている。


彗たちが此処を訪れた時間には未だ、JAPAN FAIRは始まっていなかった。


いよいよ催しが始まると、日本風の扮装をした人々が広場に集った。


その期間中、館内の一隅で中世の日本画のブースが設えられ。彗たちの恩師でもある、

岩倉教授の寄贈もそこに展示されている。

それを見越しての研修旅行でもある。


「ま!自慢したいんだろうねえ~チヤホヤされたい、お・じ・い・ちゃんだからさ!」


「田崎イ・・黙ってくれィ!お願いだべイ!ほれ!俺の特攻マスク貸してやるべさ!」


「やめろ・・そんな使い古し!汚ねえ!」




ロンドン ナショナル ギャラリー前広場。

普段とは少し違う賑いを見せていた。

英国人は路上の催が昔から好きだ。


「公開処刑とかな」


「黙らんと・・お前も吊るすべ!」


正午になると、中天の厚い雲の切れ間から、陽が射した。エントランスの回廊を照らす。

館内では来観者の誰もが足を止めていた。

目の前の女神の裸婦画に見入っている。


【鏡を見るヴィーナス】


目の前にある女神の絵画。

その画家のことをより深く知ろうと。

ガイドのヘッドセットを耳に宛がう人。

学芸員の説明に耳を傾ける人々がいた。


ディエゴ ベラスケス


17世紀のスペイン セビリアにて生誕。

バロック黄金期を㈹表する宮廷画家。


1599年生誕。

1660年没


その61年の生涯の半生を宮廷で過ごした。


彼が生まれたのはセビリアという街。

当時スペイン随一の繁栄都市であった。


そこで彼はパチェーコという画家に師事。

師は後期マニエリスムの画家であった。


後期マニエリスムとは、ルネサンスに続く美術様式である。当時のベラスケスは若干12歳であった。若くして弟子入りを許された。

少年は師の元で絵画の修業を積んだ。


学んだのは絵画の技術だけでない。

そこで様々な教養を多く身に着けた。


師であるパチェーコは、余程ベラスケスを気に入り、その才能を高く評価していたようだ。後に娘ファナと彼を結婚させている。


弟子の少年が結婚出来る年齢を待ち急ぎ。

自身の娘と早々に婚姻を結ばせたのだ。


ベラスケスは、17歳になる頃には師匠から独立を許され、マドリードを旅している。


画家として独り立ちを果たし。妻を連れて、念願であった首都マドリードへと移住する。


初期の頃には、宗教画やボデゴンと呼ばれる作品、主に厨房を主題にした、他には風俗画なども多く手掛けている。


「このシャバ僧があ!?みたいな?」


「そこの元ヤン・・厨房画だつーの!いわゆる静物画のだな・・めちゃ重厚なタッチのやつだ!それもルネッサンス由来のな!お前さあ・・わざと間違えてね?」


「なるほど中坊だべ!」


榎本はいきりながら言った。


「・・あれ?田崎ィ!?俺とお前と・・いつの間にか、説明する役が逆転してねえべか?」


「まあまあ、細かいことは気にすんなよ!パトカーラッシュ君!」


「そう昔、ポリにはよく追われたべ・・」


 学芸員のガイダンスは続いた。


《先程・・皆さんが、こちらに来る前にご覧になられた。フェルメールも、年代的には、バロック期の画家とされています!》


バロックと呼ばれる芸術様式はルネッサンス派生の地であるイタリアで興きたとされる。

それは、過去のルネッサンス絵画の流れの中にあって、その様式の多くを踏襲している。


ルネッサンスとは再現芸術の意味を持つ。

同様に過去の作品や画家たちの作品に習い、それを越えようとする試みである。


ルネッサンス時代の華美重厚にして荘厳さ。

そこに肉体の躍動や誇張が描き加えられた。

それがバロック絵画の大きな特徴と言える。


比較すれば、ルネッサンス盛期よりも、筋肉や、骨骼、それに伴う人物の動き、それらがより誇張されていることに気づくはずだ。


「まあ・・言われて見ればさ!この時代の、つまり、17世紀の静物画や肖像画の背景は、大概は真っ黒なのが多いのよな〜」


「フェルメールの耳飾りの少女!」


彗の言葉に榎本が相づちを打つ。


「そう!それな!」


「さっき観たヴァージナルの少女の絵も!言われて見れば、ベラスケスの絵とな〜んか雰囲気が似てるべ!天使も描かれているし!」


「モチーフは1人だけどな!どこか、ベラスケスのラスメニーナスや、その他の画風を思わせるよな〜 まあ、フェルメールは市井の画家であったわけだが。ベラスケスと比べるとミニシアターか、ブロックバスター映画の位のスケール差はあるが・・」


「ともに名画に違いない」


彗はそう言って頷いた。

榎本の頬が高潮する。


「やっば来てよかったべ!な!な!な?」


「あ〜もう!うるせえ!唾唾唾!?」

 

 わかってるさ。

 彗は呟いた。



ルネッサンスが派生したイタリアのローマ。

それを越えて行かんとする芸術の息吹。

新たな画家たちが風を起こした時代。


イタリアだけでなくフランスやドイツでも。

その名前は今日バロック主義と呼ばれる。

バロックとは歪んだ真珠を意味する。

ポルトガル語が語原の宝石用語である。


画家としての人生を歩き出した。

その彼が目にしたものすべて。

その手で描いたものすべて。

ポデゴンもバロック然り。


後にそう呼ばれることとなる。


まだ人々が王家の威光を崇め。

神の存在を信じて疑わなかった時代。


ベラスケスは多くの宗教画を残している。

職業画家として需要も多くあったはずだ。


【 東方三博士の礼拝 】

原題:Adoracion de los Magos 約1619年


ベラスケスが画家としての歩みを始めた黎明期の作であるとされる。宗教画である。


所蔵はマドリードのプラド美術館。

かつてスルバランに帰属されていた。


生誕したイエスを確認する為に、ベツレヘムの厩を訪れた三博士。彼らが神の子の存在に礼拝をする場面が描かれている。


しかし特筆すべきはその主題ではない。


それは【東方三博士の礼拝】に於けるベラスケス初期作品に見られる大きな特徴である。


厳しき陰影法に基づく客観的な写実性。

それはベラスケスが師から受継いだ。

それも初期の大きな特徴ではあるが。


登場人物の三博士には師パチェーコ、ベラスケス自身、聖母マリアは妻であるフアナ。そして幼子のイエスには二人の娘の面影が残されているとされる。宗教画でありながら。


すべてベラスケスの近親者が描かれている。


ベラスケスは宗教画を描くにあたっても。

既に他の画家たちとは一線を画していた。

それは宗教的な表現の抑圧であり。

伝統的でありながら自由。

そこに現実を重ねて描く。

その強い執着と情熱。


本作の違和感の感じるのは縦長の構図だ。

完成後に左右のどちらか。あるいは両方。

不自然に切り取られた痕跡がある。

その経緯は今もってわからない。

それはまた別の話だ。


「それで、難解とか呼ばれてる【ラスメニーナス】【La Familia】だっけ?その絵の、謎半分は解ける・・ような気がするんだよね」


此処には展示されていない絵画。

先ほど榎本がしたように。

彗は端末の画像を翳した。


「自分の家族・・身近な人たちを聖書の人物になぞらえて描いたってことだべか!」


「そう!」


その作風の萌芽は最初からあったのだ。

おそらく彗はそう言いたいのだろう。


「そう考えると、最初に宮廷の絵画目録に載ったって【La Familia】聖なる家族。その題名だって、なんかしっくり来るべ?」


「だべな・・なんか腑に落ちる!」


「まあ、あくまで俺様の推察だがな!」


推察・・確かに、榎本は充電が切れる前に、彗とベラスケスの過去作品を見ていた。

目の前でスイープしていた。


その中にはベラスケスと縁のある人々。

師匠バチェーコ、妻のファナ、そして、

ベラスケス本人の肖像も確認出来た。


ほんの一瞬で、それらの人物の顔と【東方の三博士】に描かれた人物たちの顔に類似を発見したのだとしたら?恐るべき洞察力だ。


「なんだよ榎本?俺の顔になんかついてるか?」


「いや別に・・お前なら・・」


お前ならいい美術の研究者に。

例えばそこに立つ学芸員の女性。

自分たちの恩師でもある岩倉教授。

とにかく美術に深い関わりを持つ人々。

彗ならば。きっとなれそうな気がする。


うらやましい。

うらやましいべ。


榎本はそんな言葉を飲み込んた。

同じ絵画の道を志す者としてのプライドだ。


しかも彗の描く絵画は誰より素晴らしい。

絵描き以外の扉が目の前に開けていても。


「これでもまだ現役の絵描きだぜ!」


彗ならきっとそう言うはずた。

だから黙って液晶の画面を見た。


指先が触れて流れる。

そこに現れた絵画は。


もう一枚のベラスケスの宗教画だった。


【キリストの磔刑】

別名サン・プラシドのキリスト

1631から1632年頃 Cristo Crucificado 、Cristo de San Placido プラド美術館所蔵


文字通り十字架に磔りつけにされ処刑されるキリスト。死にゆく姿が描かれた作品だ。


マドリードのベネディクト会サン・プラシド修道院の依頼により制作された。


そのため【サン・プラシドのキリスト】とも呼ばれている。特別に珍しい主題ではない。


それまで、幾多の画家によって、最も多く描かれてきた。それでもゴルゴダの丘で磔刑に処されるイエスの両足は交差していない。


セビリアの伝統的な図像学。イエスの両足は重ねられることなく平行。両手と合わせると、合計四本の杭で打ちつけられている。

それこそがセビリア流だ。


暗闇の中でこそ輝く。

神の子イエスの姿。

神が宿るような。

その見事な表現。


ベラスケスと同時代に活躍し親交もあった、彫刻家ファン・マルティーネス・モンタニェース。その顔に酷似しているとも言われる。


榎本はその横顔を見つめていた。


「歩けそうだ」


彗はふいに呟いた。


「歩ける?なにが?」


その横顔を見つめていた榎本が聞き返す。


「このキリスト様・・両足をこうなんとかかんとかすればさ、『十字架背負ってでも歩けそうだな』・なあんてこと思ってさ!」


「ははは・・それは無理だべ!無理!杭一本で、足を交差されるよりも、両手両足四本磔にされる方が、よっぽどきついべ!」


「そうかな」


彗は黙って掌の中にある。

磔のイエスの画像に目を落とした。


重き十字架を背負い歩き出す。

処刑のために登った丘を下る。

受難のイエスキリスト。


彗はそんな風景を見ているのだろうか?

友人の榎本はふと思った。


そんな時間が二人に流れた。


学芸員の手を打つように明瞭なÙK。

彼らは再び顔を上げた。


《暫し女神から目を離して・・こちらの絵画を御覧下さい!ベラスケスが初期に描いた宗教画の傑作と言われている絵画がこちらです!描かれたのはおよそ1618年・・》


「描く絵、描く絵・・みんな傑作だの!最高傑作ばかりだな!ベラスケス先生!?」


「画家の中の画家だからな・・みんな見た人は『この絵が一番だ!』と思うんだろうよ」



【無原罪の御宿り 】

Inmaculada Concepción 推定1618年


その題名は、彗や榎本のような日本人には、まったくもって馴染みのない言葉だった。


《横135cm縦102cm・・こちらは油彩で、画布に描かれております・・》


《ベラスケス初期の代表的な宗教画作品【無原罪の御宿り】です。こちらは、同時期に制作された【パトモス島の福音書記者聖ヨハネ】と対をなす画であるとされます。本作に描かれた主題とは?それは神の子イエスと、母である聖母マリアと、マリアの母親アンナの無原罪に他なりません。つまりは・・イエスの祖母アンナの胎内に、マリアが宿った。その瞬間に、神の恩寵により、人が生まれし時に必ず背負うとされる、すべての原罪から赦されとされています・・》


「よくわからんが七つの大罪とかだべか?」


「まあ・・キリスト教では、アダムとイヴの頃から、人は罪深い存在と言われてるからな!」


人は生まれながらにして罪深い。

多くの罪を背負って生まれ来る。

そう聖書には書かれている。

それくらい知っている。


聖母マリアは神の子イエスを身籠った。

その時点で彼女の原罪は許された。

ここまでが聖書にも記された記述。


それが無原罪の御宿りの意味するところだ。


ならば聖母マリアの母はどうか?

彼女は聖母マリアを身籠った女性だ。


マルタも聖母として原罪から解放された。

それが新たな教義として提案されたのだ。


それを描いた作品が【無原罪の御宿り】と呼ばれる作品だ。彗たちの目の前にある。

このギャラリーに展示されていた。


《この思想は実は旧約聖書には在らず。最初は東方で唱えられました・・神学者たちの間で盛んに議論された後に、19世紀半ばの1854年、ようやく法王庁より公認された教理。それこそが無原罪の御宿りです!》


ベラスケスの師であり義父でもあった。

パチェーコが書き遺している『絵画芸術論』という書物が遺されている。


スペインの歴史上で最初に書かれた。

本格的な美術書である。


その著書の中では弟子であり義子か描いた【無現在の御宿り】を範例に揚げている。


バチェーコはさぞや誇らしかっただろう。

自身は然程画才に恵まれてはいなかった。

しかし絵画を芸術の域に高めんとした人物。

その熱意は弟子に受け継がれ果たされた。


聖母マリアの頭上に輝く12の星々、純潔を表す若々しい乙女のような面持ち、胸のあたりで両手を合わせる仕草、偉大なる天上の力を表現した聖母マリアの背後の威光。

そして足許の美しき下弦の月。

美しき図像の展開。

厳しき明暗対比。



それらすべてが、画聖独特の描写と技法によって、余すところ無く表現されている。


人々を魅了して止まないマリア様。

妻ファナがモデルとされている。


《イコノグラフィ・・それは即ち、図像学的展開が如実に示されている本作品であり・・作品の主題【無原罪の御宿り】とは聖三位の一位である神の子イエス、その聖器の聖母マリア、聖母マリアを生んだ母アンナ。それぞれの関係性により本作は制作されました。当時は、教会に公認はされていなかったものの。既にスペインでは、画家たちに非常に人気が高かった主題でもあるのです。【パトモス島の福音書記者聖ヨハネ】と共にセビリアのカルメル会修道士修道院の祭壇画として手がけられたと推測されております・・さらにこちらにお進み下さい!》


学芸員の女性に促され人の群れが移動する。


彼女こそがまるで盲目の羊を導く羊飼い。

彗にはそのように見えた。


《こちらの展示が【マルタとマリアの家のキリスト】になります!》


それまでの宗教画の画風とは違い。若い二人の女性マルタとマリアの家を訪れたイエス。そのイエス様をお迎えするために。料理の仕度にいそしむ女性二人の姿が描かれた。

どこか牧歌的にも見える作品だった。


しかしこの題材は、数ある宗教画の中でも、とりわけ難解であるされている


「ここのベラスケスは宗教画ばっかだな!」

「ロンドンはお固いのが好きなんだべ!」

「なら、鏡のヴィーナスはよ?」

「あれだって女神様だから宗教画だべ!」


「まあそうか・・そうだよな!」


《因みに・・この絵に描かれたマルタとマリアは.・・名前こそ同じでも姉妹であり。イエスの母マリアでも、マリアの母マルタでもありませ:ん・・》


「ややこしいべ!」


《聖書には・・聖母マリアを含め、彼之10人近くのマリアという女性が登場します・・》


聖書でとりわけ難解な物語とされている。

本作をベラスケスが描いたのは19歳頃とされている。師の元から独立を果たした時期。

故郷のセビリアにて描れた。


【マルタとマリアの家のキリスト】

1618年 ロンドン ナショナル ギャラリー


新約聖書のルカによる福音書による物語。


【マルタとマリア】


イエスはある村にお入りになった。


するとマルタという女がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという妹がいた。


マリアは直ちに主イエスのの足元に座って、その話に聞き入った。


姉のマルタは、いろいろのもてなしのため、あれこれと、せわしなく立ち働いた。


マルタはやがて主のそばに近寄って言った。


「主よ、わたしの妹は、このわたしだけに、主へのもてなしをさせています。何ともお思いにはなりませんか?どうか、手伝ってくれるようにおっしゃってください」


主はお答えになった。


「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」


ー新約聖書【ルカによる福音書】第10章38-42節(新共同訳より)


《そのようなお話です》


「ですって!」


「えええ!?マルタお姉さんは、イエス様のために一生懸命おもてなしの準備をしてるのに!?何もせずにただ自分の話を聞いてる、マリアの方が正しいって!?神様・・それはねえべさ!それは炎上案件だべ!」


榎本はマルタ派らしい。

根は生真面目な男なのだ。


《実は・・現在においても、キリスト教徒たちの間では、この物語は、マルタ擁護派とマリア擁護派に大きく別れるているのです!》


この場合マルタとマリアとイエスの誰が正しいのか?この際それはどうでもいい。

おそらくは、この絵を描いたベラスケスも。そう思っていたに違いない。

彗はそのように思った。


この作品の物語から学ぶことがあるとすれば。それはイエスがマルタに言った言葉だ。


「ひとつのことに専心するが良きこと」


「マルタとマリアの家」


そこには師の元でポデゴンやバロック様式の画風を学びながらも風俗画の趣がある。


当時スペイン画家たちのヒエラルキーに於いて。最上位が宗教画、肖像画、そして最下層に、あるのが風俗画だった。


生活のために今は風俗画を描いても。

いずれ立派な教会に飾られる宗教画。

王や高貴な人貴族々を描いた肖像画。

それらを描けるような身分になる

それが画家たちの目標であった。


《若き日のベラスケスは実にラフなタッチで、この聖書の物語【アンナとマリアの家とキリスト】を描いたとされています・・》


《ラフと言ってもその意味合いは粗雑とはまったく異なり》学芸員はそう言葉を添える。


宮廷画家となってからも度々厨房に出向いた。そこで、忙しくたち働く女性たちの姿、食材、調理器具、実に軽妙な筆で描いた。

そんな絵が幾つも残されている。


そこに見られるのは印象派の先例であり。

人の生活と変わらぬ生業と猥雑な風景。

聖書や物語と現実や世俗との融合だ。


「この絵・・宗教画と言うけれど、肝心のマルタとマリアとキリストは・・!?」


「そう・・額縁の絵の中だ!」


「ラスメニーナスの王様と王妃と同じだな!」


マルタとマリアとキリストの家。その主題を扱いながら。それをあえて額縁の中に閉じ込めている。晩年の傑作ラスメニーナスに於けるベラスケスの作風はこの時すでにある。


マルタとマリアとイエスの物語は額縁の中。

どこかの台所壁の隅に飾られている。

厨房にいるのは二人の婦人。

これがマルタとマリア?


然程美しもない二人の女。

一人は白髪の老婆。

一人は若いの女。


老婆は何か諌めるように。

若い女の肩に手を置き。

頻りに話しかけている。

そのように見えた。


まるで日本の古いドラマのようだ。

鉄の壺に棒を突っ込んた中年の女。

なんとも言えない表情をしている。

二人は嫁と姑のように見える。

あるいは職場での風景。

何処にでもあるような。

普遍的な人の姿だ。


壁の絵のイエス様の言葉は二人に届かない。

いつの時代も多分それは変わらない。


目の前の絵画をより深く理解したいなら。

描かれた人物の前に散りばめられた。

小物に注目して見るといい。

大学の授業ではそう習った。


彗の瞳はテーブルの上のに引き寄られた。


若い女が棒を突っ込んでいる鉄製の壺。

白い大蒜の実と剥かれ散らばった殻。

皿の上には鯛に似た魚が三匹。

壺の中身はオリーブオイル?


一体どんな料理が出来るのか皆目わからない。けれどそれらは、絵を志す者の目には、眩い輝きを放つ宝石のように見えたはずだ。


ポスターカラーなど現代の絵具を使ったら、写真でも所謂映える白は描けるもの。


しかし、このような古典絵画に描かれた小物が描かれた白色は違う。携帯の写真では、正しくその質感までも確認することは出来ない。必ず見落としてしまう。


貧乏な画学生はよく「写真集でも充分」と言うがそれは噓だと彗は思った。


この絵を見ればそれは明白だ。


絵の中の日光の光りは見えない。

けれどテーブルに反射した光。

この壺の金属の光沢はどうだ。

どうしたらこんな絵が描ける。

絵画は真近で観てこそだ。

彗はそのように思った。


若きベラスケスもそれが描きたかったはず。

そんなことを一人で考えていた。


《ちなみに、跪いた妹のマリア、中央のイエス、そして・・そのイエスに話しかけているその姉マルタ。この、聖書の記述そのままの構図の作品を、若き日のフェルメールが描いています。当ギャラリーの展示ではございませんが・・もしも機会があれば、両者を比較して見るのもよいでしょう!》


折角の学芸員の女性の解説。

今は彗の耳に届かぬようだ。


ベラスケスの作品のなかでは地道に映る。

この作品を観る観覧者の食いつきも悪い。

それでも隣にいた榎本も画学生だ。


溜息まじりにその作品の感想を呟いた。


「いい絵だと思うべ・・それにしても、さっき見たマルタとマリアの【無原罪の御宿り】だったか?同じモチーフの作品?ベラスケスは余程気に入ってたんだべな!」


「あっちのマルタやマリアは別人だバカ!」


彗は榎本にそんな風には言わなかった。

ただ一言だけ、顔を上げて榎本に言った。


「お手柄だよ!ワトスン君!」






若きパンクス風の絵描き。

田崎彗はその場を離れ。

一人で歩き出した。


真新しいロンドンブーツの踵が床を鳴らす。

その姿は群れから離れる黒い羊に見えた。


「この美術館の絵画はすべて、歴代の館長が直々に出向いてだな!フェアな取引で買いつけた逸品ばかりだ!そして・・絵画の展示や並びのひとつにも、必ず何某かの意図があってのことだろう・・皆、心して観るように!」


なに魂に火が点いたかは知らないが。

恩師の岩倉教授が講釈を始めていた。

教え後たちはただ黙って聞いていた。


「その美術館の意図とは何ですか?」


たとえばベラスケスの作品。

誰もそんな質問を返せない。

興味深いことではあったが。

いざ教授が知らないと困る。


そんな忖度ばかりが身についた。

だから黙って頷くだけに終始した。


気にも止めず彗はギャラリーの回廊を歩く。


「ひとつのことに専心するがよきこと」


キリスト様もいいこと言うねえ!

彗は受難のキリストを思った。


《美術館を訪れる上で大切なこと・・それは、まず一枚の額縁の絵に足を止めて。見て、考え、何よりも楽しむこと・・そこに、絵画と、それを遠い昔に描いた画家たちとの関係性が生まれることでしょう。出来れば、何度も何度も足を運んで見て下さい!》


マルタとマリアの家から離れて。

罪なきマリア様を通り過ぎて。


《なぜならば・・人が人生に求めるもの、やがて訪れては去って行く・・季節、音楽、詞、愛や裏切り、憎しみ、悲しみ・・或いは神、そのすべては先人たちが残したこの額縁に中に・・アートの中にあるのです・・》


また女神の前で足を止めた。


「そんでもって彗!お前は、よほどその絵がお気に入りなんだべ・・な!」


すぐに追いついた榎本。

その肩に手を置いた。


「まあな!」


うんざりした顔で榎本に言った。


「俺にはマリア様より美の女神様よ!」

「俺たちだべ!」

 

ベラスケスの描いた鏡越しの女神。

鏡に映る遠い幻のような女神の表情。

ようやく目線を合わすことが出来た。


物言わぬ額縁の中の女神が語りだす。

彗は黙ってその時が訪れるのを待った。


    




【次回予告】


「お手柄だよ!ワトスン君!」

「犬から人間に昇格した!?」

「お手だよ!ワトスン君!」

「やっば犬!?」


「この不肖榎本!今回は、最後に一体どんなお手柄したべ!?教えてくれ!な!な!な!田崎ィ!?教えてくれよお!?」


「いや・・ロンドンに来たら一回くらい言っとく台詞かなと・・まあ気にすんな!」


「本当だべか〜!?(疑いの目)」


「ところで榎本!今回はベラスケスの宗教画・・日本人には馴染みが薄いものばかり」


「だべ!だべ!読者の皆さんは飽きずに読んでくれたべか!?オラ心配だあ・・」


「それよりなにより!この作家よほど幸せに恵まれないのか神だのマリア様だのと・・」


「やばいべ!作中で神だの何だの言い出すとか・・もう先が短い証拠だべ!」


「書籍のひとつも出してないのに!」


「まだ誰にも知られてもねえやつだべ!」


「ナンマイダ!」

「お陀仏だ!」


『ひゃーはっはっはっ!(≧▽≦)(≧▽≦)』


《スミマセン・・ビジュツカンデサワグ!コマリマス!》


「は!さっきの学芸員さん!逆にカタコトだべ!?」


《逆にカタコトって・・》


「ここで出て来るってことは・・学芸員さん、まさか今後の話にからんで来る!?」


「ワレワレハ・・イプシロンセイケイカラキタ・・チキュウ・・ヒューマノイノドガタ・・インターフェイス・・」


「1人だべ!からみたくない人だべ!?」


「学芸員さんの話はよ〜く聞いておけよ!」


《さあて!次回のお話は!上司がアホだとアートもおちおちやってらんねえ!デス!》


「刺さる!」

「染み入る!」


「なんだ榎本?私になにか用か?」


「目線の誘導もなし!にも関わらず!ダメアホ上司に自ら反応して岩倉教授が!?」


「次回はそんなお話!」

「みんな読んでね!」


「パラリラ!」

「バラリラ!」



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