第15話【LOVERS ONLY 番外編】



「ようこそロンドン美術館へⅧ」


絵画に人を魅了する魔法があるとしたら。

この絵にかけられた魔法の正体は何だ。

彗は目の前のヴィーナスに問いかける。

鏡の中の女神と視線を交わすも。

彼女は彗につれない素振りだ。


その表情は霧霞の面沙に包まれていた。

見つめる彗の心もまた晴れない。

彗は胸の中でそっと呟いた。


視線・・そう視線だ!


絵の中の人物の視線を巧みに操る。

それがベラスケスという画家だ。


そもそも【鏡のヴィーナス】は何故に彼の作品の中でも異色と呼ばれたのか?


この絵画に仕掛けられた魔法。

それを紐解く糸は女神の視線。

彼女が見つめる視線。

その先にある。


彗はそのように考えた。


答えはまだ見えない。

女神は虚ろな表情で。

まるで死者に似た瞳で。

ただ彼を見返すばかりだ。


その間にも学芸員の女性の説明は続いた。




「・・なるほど」


彼是と思案するまでもなかった。

彗は再び絵画と向き合う。


《ディエゴ ベラスケスは・・その生涯において、描いた裸婦画はこれ一枚だけです・・他にはデッサンすら遺されてはおりません》


ベラスケスはけして寡作な画家ではない。

にも関わらず描いた裸婦画はこれ一枚。


画学生の自分たちでさえ裸婦画に勤しむ。

まず骨格や筋肉の組成を学ばなくては。

絵を学ぶ上で人体のスケッチは必須。

基礎の中の基礎。それを精髄と呼ぶ。


それなくしては画家の人生は始まらない。


このキャラリーに展示されている英国画家、ジョージ スタッブス の【ホイッスル ジャケット】 嘶く馬の絵を見ればわかることだ。


17世紀、画家を志すも貧しい家に生まれ、彼は働いて貯めた無気しの金で牧場に赴き、一頭の死んだ馬を手に入れた。


それを、牧場の納屋の梁に滑車で吊るした。それから丁寧に刃物で皮を剥いだ。

皮の次は筋肉と骨。


一月間の間隠り続けで馬の死骸と暮らした。


その筋肉の組織から骨骼や軟骨に至るまで、丁寧に解体しながら。ひたすらスケッチを繰り返した。やがて腐敗してゆく馬の死骸。


彼には金貨に勝る宝であったに違いない。


そうして、今にも額縁から飛び出しそうな、ホイッスル号の躍動と生命を手に入れた。


そうまでしなくても出来なくても。

彗たち画学生も同じだ。


模型や実際のモデルで素描を繰り返す。


なぜ裸婦画の一枚 も残ってない。


そもそも、ベラスケスとはどんな画家であったのか?学芸員の説明に耳を傾ける。


見えてくるのはその人物と作風だった。


《【鏡のヴィーナス】と並び称されるのは【ラス メニーナス】本作より数年前に描かれ。ベラスケスの最高傑作とも呼ばれます》


スペイン語でLas Meninas。


日本では【女官たち】と呼ばれる絵画だ。


1656年。スペイン黄金世紀を牽引した画家ディエゴ ベラスケスにより制作された。


それは王宮の一族を描いた集団肖像画。


まるで謎かけのような構成の作品。

現実と想像との間に疑問を提起する。


観賞者と描かれた絵の中の登場人物たち。

その狭間の空間に茫とした関係を創造する。


ネットでは、時折都市伝説さながら。

怖い絵として取り上げられることもある。


それはオカルトの類ではない。

宮廷の切り取られた時間。


まして不気味さを喚起させるような目的や、手法を用いて描かれているわけでもない。

はったりや虚仮威しの作品ではない。


それでも見た者の心に謎めいた陰を残す。

それが【ラス メニーナス】という絵画だ。


それは、都市伝説等とは趣の異なる次元の不可解さを額縁の中に湛えているようでいて、

容易にその正体の尻尾すらも掴ませない。


「つまりは・・難解な絵画ってことだな」


一見すれば、遠い時代の王室の風景。

すでに通り過ぎた時間にある異国の城。

王侯一族の血筋ともに炎に焼かれ消えた城。


人々がそれを目の当たりにする時。

立ち籠める漠然とした不安と歓喜。

時にそれは畏怖にも似た感情。


彗はその絵画の額縁に指を添えた。

頭の中のインデックスから引き出す。


実際【ラス メニーナス】の複雑な構成は、西洋絵画の分野では盛んに解析されて来た。


現在は、ベラスケスの故国、スペイン マドリードのプラド美術館に所蔵されている。


横318 cm 縦 276 cm 。

大掛かりな作品だ。


幾世紀を跨ぐ経年と、破損を防ぐ目的から、海外への貸し出しが一切禁じられている。


文字通りスペイン美術の黄金期を代表する、門外不出の至宝に間違いはない。


絵画【ラス メニーナス】その舞台は、フェリペ4世のマドリード宮殿の大きな一室。


とはいえ、そこには広大な王宮の荘厳さや、豪奢な調度品の類いなど置かれていない。

むしろ人が10人も集まれば狭い部屋。


王女が腰かける椅子も極めて簡素だ。

剥出しの石の壁に無造作に飾られた額縁。

そこは宮廷内のアトリエだと言われている。


《ベラスケスは、時のスペイン国王である、フェリペ4世に仕えた宮廷画家でした・・》


そこに描かれた人物は、城の宮廷人たちと、王室の愛犬に、小人が二人。そして、彼らにその身のまわりを囲まれた、まだ幼き王女マルガリータである。絵の人々はすべて実在した。その人名まで特定されている。


ベラスケスは宮廷画家という身分であった。それ故に資料は残されている。


描いた絵の背景、画家の生地、生前の性格等、研究しやすい画家とも言われている。


「王様のお城に勤めてた・・いわば、ひもつきの画家さんてわけだな!」


「お前は口を開けば・・言葉が悪いべ!」


「そうかなあ・・どの時代でも、画家にパトロンやタニマチは必須と言いたいだけさ!」


彗の言葉は的を外れてはいない。

如何なる時代にも、画家には有力な支援者、つまり上客の存在は不可欠だ。


宮廷画家ともなれば雇主は国王。

それだけでも生活は補償されている。


ベラスケスは、特別に恵まれた環境の中で、創作に勤しむことが出来た画家であったはず。彗はそのように考えた。


このギャラリーの学芸員の女性は、ベラスケスの【鏡のヴィーナス】を『きわめて現代的』という言葉で表現していた。


この17世紀のスペイン宮廷に流れる時を、カンバスに切り取ったであろう作品も。


『スナップ写真のようだ』

そのように称されることが多い。


まるで無造作にカメラを構えて、そのまま、シャッターを押したかのように見える。


それでいて、人物の立ち位置や調度品、石の壁に掛けられた額縁の配置、人物の肌の質感の描写、何れの何処にも一部の隙がない。

まさに完璧なる絵画だ。


名画と呼ばれる条件をすべて備えている。


古い歴史的価値のある写真とは異なる。


盛期ルネッサンスの時代。


ダヴィンチや、絵画の始祖たちが、かつて絵画に取入れた遠近法や暈しの技法。


この作品にも、惜しみ無く、それらの手法や叡知が、完璧な筆先で昇華されている。

まさに古典的御業のヴィザールだ。


写真や映像作品にしろ例外はない。

化学や数学は魔法のような効果をもたらす。

知ると知らざる。その差は実に大きい。

ダヴィンチの絵画たちは雄弁に物語る


「つまり・・それだけでも圧勝なのさ」


勿論この絵画はそれだけではない。

彗はベラスケスの絵画を思い浮かべる。


絵の中の人物像を見ればわかる。


幾人かは、カンバスの中から鑑賞者の側に向い、残りの幾人かは互いに交流している。


マルガリータ王女と、彼女、その周辺を取り囲んでいるのは・・お付きの女官、侍女、目付役、2人の小人と1匹の犬である。


絵画の中央に置かれた木の椅子。

幼き日の女王マリガリータ。

ちょこんと腰かけている。

可愛らしいお姫様だ。


そして、本来彼女の視線の先には、イーゼルを立てた画家ベラスケスがいたはすである。


描く画家の姿は、集団であれ個人であれ、

この絵の中にけして描かれることはない。

謂わば透明人間なのである。


自身を描いた自画像でもなければ。

空気を吸う如く当たり前のことだ。


モデルの視線は画家のいる方角に向くはず。


必然的に【モナリザの微笑み】のように、完成した絵画の対面に立つ者、観賞者と視線が合うことになる。それこそが肖像画だ。


それとは異なるのが【最後の晩餐】このギャラリーに展示されていた【バッカスとアリアドネ】のような架空を描いた作品たち。


それらは、作者が直接その目で題材を見て、描写されたものではない。


聖書の中の物語や、神話、過去の史実、様々な場面を空想して描いた。


物語は制止することなく常に流れている。


映画の中の場面と同様、人物たちは、彼らの物語の中で見るべき対称を見て生きている。


そこにイーゼルを立てた画家は存在しない。

けして存在してはいけない存在なのだ。


ましてその絵画世界の前に立つ鑑賞者。

額縁の窓の中を覗き込む者たちとも。

目を合わせることはない。


視線、視線、視線・・だ。


ベラスケスの描いたラス メニーナス。


その絵の中に描かれた登場人物たちと鑑賞者。彼らは互いに視線が合うことはない。


本来なら、部屋の中央に据えられ、ベラスケスのいる方角を見ているべきマリガリータ。

その視線さえ正面を向いていないのだ。


王女とは言えまだ幼き子供。


椅子に座ってただじっとしているのに、すでに飽きてしまったか。それとも椅子の固さがお気に召さないか。少々ぐずり始めている。


そんな表情にも見てとれる。

お付きの少女は傅ずいて。

王女に水差を勧めている。


体はやや斜めを向いた姿勢に見える。

その視線は別の方角を向いている。

一瞬の群像を捉えた作品だ。


言ってしまえばそれまでたが。


絵画の神や父と呼ばれる先人たち。

彼らの定めた絵画のルール。

そこから逸脱を試みた作品。

それがラス メニーナスだ


アンチ モナリザ。

反イーゼルと呼ぶべきか。


ベラスケスという画家は、巧みに絵の中の人物の視線を操る。彼は絵を描きながら、自分の背中越しに、観賞者の視線も意識していた。真違いない。彗はそのように考える。


「ベラスケスのラス メニーナスが、17世紀スペインのマドリード城の壁に掛けられていた時、その題名は本当はLas MeninasではなくてLA familia・・だったらしいぜ!」


この絵画が宮廷に飾られていた当初。

その題名は【王の家族】そう呼ばれていた。


「ちょっと待て!真ん中に王女様、そして待女や犬や小人!?全然家族と違うべ・・みんなお城に仕える家来たちだべ!」


「浅い!」


「へ・・浅い?」


「榎本君・・家族ってなにかね?」


「えと父ちゃんに母ちゃんにい」


「血が繋がってさえいれば家族?はっ!お笑いぐさだ!かつては君にもいたはずだぜ!家族以上に濃い絆のLA familiaたちが!」


「は・・厚木暴走連合のみんな!?明日なき暴走の果て!アスファルトに叩きつけられたあいつ・・思い出がぐるぐる走馬燈だべ!」


「そいつ死んだの?」


「いや・・かすり傷だけども!看護士さんに一目惚れして今も病院通いの日々だべ!」


血縁のない家族を描かずとも【家族】という題名の絵画。それだけでも、後世の人に深い思索と議論を投げかける。事実そうなった。


「だけど・・やっぱ家族じゃねえべ!それだけで、その絵を家族と呼ばせるのは、ちいと無理があるべ!【女官たち】の方がしっくり来るべ!」


「ラス メニーナスには『女の子たち』・・そんな意味もあるらしいからな」


白のドレスを纏い絵の中心に座る王女様。

その彼女を、かいがいしくお世話するのは、少女と呼べるような年代の女の子たちだ。

王女を含めての女の子たち。

それでも題名に偽りはない。


「LA familiaのLが小文字なら単純に家族。もしも大文字なら聖家族という意味にもなる・・らしいぜ!」


「田崎君!オーストラリア語だけでなくて、スペイン語まで!もしかしたら・・スペインで牛飼いもしてたのけ?」


「いや闘牛だろ・・なんだよ牛飼いって!」


彗は赤布をひらつかせる仕種で言った。


「それでもやはりあの絵は【LA familia】が正しいと思うぜ・・なんなら検索してみ?」


「え!?ああ・・」


彗の言葉に煽られ、榎本は慌ててポケットから携帯端末を取り出して検索を始めた。

すぐに画像は見つかったようだ。


「やっぱ王女様と女官らだけだべ・・」


「拡大↔」


そもそもこの絵は、それだけの人物の姿を描写するにしては、あまりに大きすぎる。


「あ・・王様見っけ?!王妃様も隣に!?」


部屋の一番奥の壁には王女を取り囲む人々、彼らを見守るフエリぺ国王と王妃の姿。


「でも・・なぜだ?」


王と王妃の姿は鏡の中にある。

ここでもまた女神の絵と同じく鏡。


その姿はそこにいる人物として描かれていない。そしてその隣に掛けられた額縁の肖像。


「その絵筆を握っている人物がベラスケス」


絵の中の人物たちの正面に立つ存在。

本来けして描かれることはない画家。

作者であるベラスケスがそこにいる。

額縁の中で絵を描く姿がそこにある。


王と王妃は鏡の中に。

絵を描く画家は額縁の中に。

画家の顔は霞んでよく見えない。


「あ・・ほんとだ!?」

「な?家族が全員ちゃんといるだろ?」


「な、なんで王様とお妃様は鏡の中に・・画家のベラスケスは額縁の絵に・・滅多パニック!?混乱して来たべ!」


「ところで榎本・・この絵ってどうよ?」


「確かにそう言われたら・・なんか色々と、考えてしまうべなあ」


「じゃなくてさあ!ぱっと見どうなのよ?」


「・・いい絵だな」


榎本は、素直に見たままの言葉を口にした。


「なんか・・よくわからんが、幸せな気持ちになるな!あったかい感じが絵から伝わる。こんな難解な絵画なのにとても不思議だな」


「榎本君!それ今年で一番正しいよ!」


そう榎本の絵画を見る目は正しい。

課題で中古のヤン車に絵を描いたり。

時たま、講義で教授に絵の解釈を求められ、とんちんかんだと皆に笑われたりもする男。


今は、馬鹿にされないよう、お手製のガイドなんて拵えたりもするが。


見たままの印象が大切だ。


「これはすごくいい絵だと思う!」


彗は榎本の言葉に大きく頷いて見せた。


「美術館に宝として飾られるべき絵だ」


絵画を学べば。正しい絵画の観賞の仕方ってやつも学ぶものだ。構図とか客観視点とか、色々だ。けど、それよりも大切なのこと。


それが心に刺さるかどうか。

いい絵だと足を止めるか否か。

そんな自分の直感を信じていい。

いや、むしろ信じるべきだ。


絵に何億の価値があるとか。

いつの時代の巨匠だとか。

そんなのは全然関係ない。

見たまま心が震えたら。

それでいいんだ。


彗はいつもそんな風に絵と向き合って来た。


しかし、それでもなお。

より深くその絵に触れたいならば。

頼りになるのは画家の遺した首題だ。


王宮の人々。彼らの背後には、カンバスに向かうベラスケス自身が描かれている。


ベラスケスの視線は絵の中の空間を超えて、鑑賞者の立ち位置の方向に向けられている。


背景には鏡がかかっている。

王と王妃の上半身が映っている。


実際の王と王妃は、絵の外、つまり鑑賞者の立ち位置と同じ場所に立っているのだろう。

つまりベラスケスの背後で皆を見ている。


また、王と王の像はベラスケスが作製中の作品が映し出されたものだとする研究者いる。

その真偽はもはや定かではない。


液晶画面の中の【ラス メニーナス】という作品。西洋美術史において重要な作品。


描かれてから300年後もそう言われている。


バロック期の画家ルカ ジョルダーノは、「絵画の神学を象徴する」と評した。


19世紀の画家トーマス ローレンス。

この絵画を「芸術の原理」と称えた。


この作品を「絵画の中の絵画」

ベラスケスを「画家の中の画家」


画家たちは現在もそう称賛して止まない。


「無論ベラスケスの最高作であり、自意識過剰にして、計算し尽くされた絵画による示威行動。そして恐らくは、これまでになされたイーゼル絵画の可能性への最も厳しい批評」


そう言ったのは誰だったか。

確か有名な哲学者だったな。


その中にはフーコもいたはず。

有名な『監獄論』の作者だ。


「なんだ田崎?私の顔に何かついてるか?」


「いえ・・別に」


ふいに岩倉教授と目が合ってしまった。

彗は鼻の頭をかく素振りで誤魔化した。



画家のたち言葉は心に刺さるが。

哲学者や学者の言葉は難しくて。

絵がぼやけてしまうんだよな。

彗はそのように考えた。


どんな絵にも首題がある。

その画家が伝えたかった。

想いと言いかえてもいい。


今も昔も画家たちはこの絵の前で足を止める。そうぜさるを得ない。その理由は。

この作品が絵画にできる表現の臨界点。

そう呼ばれているからだ。


それでも、絵描きや観賞者に限らず、人は知らずに知らずのうちに、その絵に描かれた首題、すなわち画家の想いを探すものだ。

それが絵画からの眼差しだ。


絵描かれた人物の視線。

絵画の中心となる人物。

そこに向けられる眼差し。

悲しみや愛や憎しみ。

物語るのは視線だ。


手繰れば見えて来るはず。

辿り着けるはず。


絵描きたかった画家の真実に。


しかしその首題すらも放棄されたら。

現代の画家たちは全員廃業だろう。

もはやなす術はなく。

お手上げだ。


「優しいな」


彗はその絵を見て呟いた。


榎本の携帯端末を横にして見る。


「やはりこの作品は【LA familia】だ・・」


それが相応しいと思えた。


「え?さっき題名とか意味がねえとか」

「この絵に関してはそれが正しい」


かつて宮廷の何処かに飾られていた。

その時この絵画はそう呼ばれていた。


王が認めた王の家族たち。


今は途絶えてしまった王家の血筋。

その終焉とともに焼失した城。

17世紀のマドリード城。

そこに暮らした人々。


その生活が如何なるものであったか。

もはや知るよしもない。


如何なる経緯でこの絵画が描かれたか。

もはや推測するより他にない。


「今此処に、この絵が飾られているとして」

「飾られている・・として?」


「俺たちがその絵を眺めている人とすれば」


その観賞者の立ち位置には絵描きがいた。

そしてその絵描きの真後ろには王と王妃。

そこにいた人々を見守っていた。

それがこの絵画の首題だ。


家族を見守る王と王妃。

その眼差しに映る人々。

王が家族と認めた人々。


幼き王女と王の近親圏にあった人々。

その中の一人にベラスケスもいた。

彼はその時を描くことを任された。

画家であるがゆえに。

代弁者であるがゆえ。


鏡に映る王と王妃ははっきりと絵描き。

自身の顔は暈しを入れて描いた。

彼は画家の分を弁えていた。


この絵画から見えて来るもの。


それは優しさだ。

この絵画は優しい。

そんな世界を描いた。

この画家がいた場所。


ベラスケスという画家。


「優しい人、だったんだな」


彗は思った。


目の前にあるのはその絵ではない。

鏡に映る女神の顔もぼやけていた。

その意味は違って見えた。


液晶の画面に指先が触れた途端。

ベラスケスの絵画たちが流れる。


ディエゴ ベラスケスの肖像 、無原罪の御宿り、ベツレヘム厩を訪れた東方三博士の礼拝、生まれ故郷セビーリャの水売り、マルタとマリアの家のキリスト、バッコスの勝利、キリストの磔刑、プレダの開城、フェリペ4世の肖像、聖母戴冠はアルカーサルのイザベル王妃用礼拝堂に、教皇イノケンティウス10世の肖像・・目の前に現れては消える。


Portrait of the Infanta Margrita・・La Infanta Margrita ena zul・・白いドレスは五歳になった時、薔薇飾りの施されたドレスは8歳、青のドレスは15歳で婚礼の時を間近に控えた。王女マルガリータの肖像。


日本語で書かれた古めかしい題名たち。

英語やスペイン語が雑多に入り乱れていた。

そして再びラス メニーナスの画像に戻る。


「あ・・バッテリーがもう切れるべ・・」

「ちゃんと充電しとけって!」


程無く、その色彩すべてが闇に消えた。

彗は顔を上げて目の前の絵画を見た。


僅に灯りは灯れども。

燭も描かれていない。

昼夜の判別もない。

ただ仄暗い寝屋。


緋色の天幕は斜に。

まるで焔のように。

窓や月も日も遮る。

女神はそこに。


《ディエゴ ベラスケス・・彼こそまさに、バロック期を代表する画家です!》


「バロックってどういう意味だったっけ?」


その言葉の意味は歪んだ真珠。


鏡の女神が彼にそう伝えていた。





【次回予告】


ざー


「やさしさ紙芝居の巻でした~」


「紙芝居じゃなくて絵だべ!絵画!」


ざー


「雨の音・・ロンドンに季節外れの雪か・・メリークリスマス!ハピニューイヤー!!!」


ざー


「今初夏だべ!」


ざー


「でも・・さっきから、ざーって音が」


「そ・れ・は!読者がひいて離れる音だべ!どんどんどんどんと離れて行くべ!大変だあ!なんだべーこの終わり方!ちゃんと説明しろやゴラア!?」


ざー

ざー


「鬼は外っ!!」


「わー!?この男クリスマスにも正月にも掲載が間に合わないから豆まき始めたべ!?」


「鬼は外っ!!ざあー!」

「痛っ!?」


『あわわわ・・岩倉教授のお頭にお豆が!?こ・こは口笛でも吹いてごまかすべ~♪~♪』


「榎本!!!」


「ふふい~!?(は・はい!?)」


「お前のその口笛いいな・・アートだ!」


「ふい!?(えっ!?そっち?)」


「榎本!よかったなあ!お前ならいい羊飼いになれるぜ!」


「ふい~!ふい~!ふふい~!!!」


「榎本オもう教授は行っちまったぜ・・いつまで吹いてんだ?」


「ここの回で離れた・・読者の皆さんが、戻るように吹き続けるべ!ぼえ~♪♪♪」


「みんな次回も読んでね!」

「パラリラ♪」









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