第42話 閉ざされた記憶の繋がりに
薄くぼんやりと、不確かな光がふわふわ、暗闇の中を伝ってゆく。
糸を紡ぐように寄り集まり、何処かに向かってゆっくりと伸びてゆく光が、辿り着いた場所に、寄り集まった糸を拡げていった。
音もなく、意識もない感覚。眠っているかのような、穏やかな世界。
いや、確かに俺は、眠っていた。
ああ、そうか。これは夢か。……そう思い至ったときに、拡がった糸の先に、何処かの世界が繋がる。
それは、木造の古めかしい建物の中。いや、古めかしいというよりは、古風といった方が正確か。まるで神社か仏閣かのような、遥か昔にタイムスリップしてしまったかのような、不思議な感覚を覚える。
どこか遠くから聴こえてくる、笛の音や太鼓の音。華やかな音色に乗って、人々の賑わう声も、微かに流れてきた。
「半吉が、わざわざシュウ君に会いにきたっていうの? 誰かを遣いにやらせたわけではなく、自分の足で?」
「そうです。どうやらもう、秀一さんを巻き込まないようにするのは、無理なようです」
ふと、近くの暗がりから、男女の話す声が聞こえてきた。
それが誰であるのかは、声を聞いた瞬間に理解できた。
また、あの夢を見ているのだと。
「奴が持ちかけてきたのは、表向きには、神々の間に生じた争い事を解決するに、打って付けのものに思えます。ですがその分、危険も多い。八百長こそは蔓延らないでしょうが、戦闘能力に優れた眷族を巡って、要らぬ諍いも増えるでしょう」
「いつだって厄介な提案しかしてこないわ。それで世の中が乱れれば、付け入る隙も出てくるんじゃなくて?」
「上手く立ち回れば、益も出るでしょう。ですが、本来の目的からは逸れています。猫御霊には近付けません」
華やかに髪を結い、着物姿の遥華と、俺と分かれたときと全く同じ姿をした慎司が、物陰に潜み、辺りの気配を伺うように、ヒソヒソと小声で話をしている。
結われた髪に挿された
「私が気になるのは、しんちゃんがどうしたいのかってことよ? うちの派閥の代表として、試合に出たいのかな? それとも、シュウ君の仲間の一人として、彼と一緒に戦いたいの?」
問われた慎司が、珍しく狼狽えたように視線を泳がせた。
「何を言っているんですか。俺の主神は、姉さんだけです。なぜ秀一さんの仲間として、戦わねばならないんです」
「かつては兄さんと慕っていた相手でしょ。これまでの人生で、貴方が心を許したのは、私を除けば、シュウ君だけじゃないの」
「からかわないでください。姉さんが思っているほど俺は、秀一さんのことを認めてはいませんよ」ぶっきらぼうな態度で、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
遥華が口に手を当てて、ふふふと可笑しそうに笑った。
「シュウ君に合わせて、無理に飲めないコーヒーなんか飲んでたくせに」
「中学生だったのですよ。丁度、コーヒーのような大人の飲み物にも、ハマる時期だっただけです。それに俺は、秀一さんのことを、一度だって兄さんと呼んだことはありません。
……報告は以上です。もし聖域戦争の要求が通れば、我々としても、利用しない手はないでしょう。参加資格のゲーム機は、うちの派閥にも届いているのですか?」
遥華はコクリと頷き、賑やかな囃子の聴こえてくる、屋敷の奥へと目を向けた。
「
「ここは神々の駆け込み寺にも等しい場所ですからね。女好きであるのは困ったところですが」
「だからこそ匿ってくれたんでしょ。私達は、父親殺しなのよ?」
慎司が軽く奥歯を噛みしめ、うつむき気味に遥華から視線を外した。
「……では、また五日後に。それまでには、いくらか動きがあるでしょう」静かに、呟くように告げ、クルリと踵を返す。
「好きに動いていいのよ?」
去りゆく慎司の背中に、最後に遥華が、何かを願うような切なげな声で、そう投げかけた。
一瞬だけ足を止めかけた慎司が、そのまま振り返ることもなく、暗闇の中に姿を消していった。
前の夢のときと同じように、今回もまた俺の姿は、慎司にも遥華にも見えてはいないようだ。彼女の隣にふわふわと浮かびながら、艶やかな着物姿の遥華に視線を落とす。
黒を基調とした布地に、赤、青、黄色の花々が折り重なるように咲き乱れ、髪に挿した銀の簪にも、同じように花模様の細かな細工が施されている。
軽く開いた胸元と、首から顔にかけて塗られた白粉は、元々の彼女の白い肌色と比べても、ほとんど変化があるようには思えない。
ほのかに漂う香りは、白粉のものなのか。あるは、香水のものなのか。少なくとも、かつて彼女がつけていた香水とは、また違った香りだ。
床にべったりと垂れ落ちた裾と、長い袖口。まるで彼女が一本の大樹のようにして、着物や簪に色取り取りの花々が咲き乱れている。
そっと、柔らかなそうな彼女の髪に手を伸ばす。だが俺の手は、彼女の髪をすり抜けてしまい、忘れかけている彼女の髪質に、触れることはできなかった。
と……
不意に彼女の顔が、隣に浮かぶ、俺の顔を見上げた。
不思議そうに、整った目元を細めさせ、軽く顔を傾ける。
「もしかして……そこに、いるの?」
初めて、彼女の意識が、ハッキリと俺に向いたのを感じた。
その瞬間に、頭の中だか、胸の中だか、よく分からない身体の中の一部分が、彼女の同じ箇所と、繋がってゆくのが感じられた。
途端に例えようのないほどの懐かしさと、切なさとが、同時に込み上げてくる。……おそらく彼女も、同じ思いを感じているのだと、直感できた。
「困ったわね……」と遥華が、ため息と微笑とを、同時に吐き出した。
かける言葉も思いつかずに、そっと彼女の髪を撫でた。透き通った指先が、そよ風のようにして、彼女の髪先を揺らめかせる。
その感覚を感じたのだろうか。遥華はまっすぐ、俺に体を向けると、しっかりと俺の顔を見上げて、ニコリと優しく微笑んだ。
「久しぶりね、シュウ君。…声も聞こえないけれど、そこにいるのは分かってる」大樹に咲き乱れた花々の頂点に、一際暖かな花が咲く。
俺の姿が、彼女に見えているわけではないだろう。そう直感できたが、なぜだか同時にお互いの存在を、視覚でも聴覚でもなく、五感以外の特別な何かで、不思議とシッカリと把握できていた。
ロードリングの中の召喚獣を把握する感覚と、どこか似ている。確かにそこにある、紛れもない存在。
まるでそこが二人だけの閉ざされた空間のようにして、お互いの存在以外、何も感じられなくなる。肌を重ね、抱き合っているかのように、互いの存在をしっかりと認識しながら、言葉とも、意識ともつかない遥華の思いが、直に心に伝ってきた。
それは、懺悔と哀愁の想い。顔に浮かべた嬉しそうな笑顔とは裏腹の、思いもしなかった遥華の心に、戸惑い立ち竦んだ。
「今の私は、昔の私とは違う。でもそれは、貴方だって同じよね。
ごめんね。あのときの貴方には、何も相談できなかった。今なら分かってくれるよね。こちら側の世界のこと、あのときの貴方に明かすわけにはいかなかったの」
語る遥華の想いが、ダイレクトに心に響き、何も言い返すことができすに口をつぐんだ。
どこか苦しそうに、それでも嬉しそうに微笑みながら、遥華が言葉を続ける。
「何があったか、思い出せた? いいえ、多分だけど、肝心な部分は、思い出せてはいないんでしょうね。だけど…それを思い出させてしまうと、私と貴方の繋がりが、完全に断たれてしまう。
わがままかな。
今さらよね。
貴方にはもう、決まった相手がいることは理解してる。だけど私は、貴方との…あの優しいシュウ君との縁を、断つことができないの。許してね。もう二度と会えないのかも知れないけど、私のほんの些細な、小さな一欠片を、貴方の中に住まわせて」
ゆっくりと、確実に俺の頰に、遥華の白く細い指先が伸びた。
「貴方が自分の世界に帰れば、本当の意味で、永遠に出会うことはできなくなってしまう。だけど、貴方の中に私のカケラがある限り、ずっと一緒にいられるわ。
意識を持つこともできない、ほんの些細な一欠片だけれど。夢で逢うことくらいは、できるかも知れない。たとえ遠く離れてしまっても。
シュウ君? きっと貴方は、私のことを心配しているわよね。しんちゃんのこともあるもの。彼を許してあげてね。しんちゃんはあれからずっと、頑張っているの。全てを犠牲にして。理想の世界を実現するために」
触れることもできない指先を、俺の頰の辺りに浮かばせながら、遥華の瞳に薄っすらと涙が滲んだ。
「優しい貴方のこと……きっと私達を、助けようとしてくれるわよね。だけど……考え直して。私としんちゃんの夢には、貴方は関わってはならないの。関わったらきっと貴方は、思い出してしまう。そうすれば、貴方の中にいる私も消えてしまう。こうして夢で逢うこともできなくなってしまう。それに……貴方はそもそも、異世界の創造主。この世界のしがらみに関わってはいけないの。これは、私達が解決しなければならない問題だから」堪え切れなかった一筋の涙が、遥華の白い頬を伝っていった。
「貴方に触れたい……貴方の声を聞きたい……だけどそれは、私のわがまま。ああ……だけど、こうして貴方の存在を感じてしまうと、どうしても心が揺れる。決意が鈍ってしまう」ポロポロと涙が溢れる。
「ごめんなさい。こんな姿を見せるつもりじゃなかったの。あってはならないことだもの。余計に心配させちゃう。
……私は大丈夫よ。こう見えても、結構、強いんですから」
差し出した指先を引っ込めて、遥華が、明らかに無理をした笑顔を浮かべた。溢れる涙は今も、薄い化粧を洗い落としながら、彼女の白い頬を伝っていった。
「……俺は、世の中の皆んなを助けてあげられるほど、強くはなかった。異世界でも……いつだって俺は、目に映る限られた人達しか、救うことはできなかった。
だけどな、遥華。だからこそ俺は……せめて目に映る人達の涙だけでも、止めてあげたいんだ。そのためにずっと、戦い続けてきたんだから」
触れることはできないと分かっていながらも、自然と、遥華の頰に手が伸びる。聞こえることはないと分かっていながらも、せめて気持ちだけでも、遥華の心に響いて欲しかった。
頰に触れそうな俺の指先に、気づいたのか、あるいは想いが伝ったのか、遥華のしなやかな指先が、俺の手を包み込むようにして、頬の上に重ねられた。
そうして、ニッコリと満足そうに微笑みを見せる。
と……
不意に、目の前の遥華の姿が、薄っすらとぼやけ、暗く、沈んでいった。
その視界に反するようにして、俺の身体と、意識が、スゥーっと上空に浮き上がってゆく。
その瞬間に、把握できた。
夢が覚めるときがきたのだと。
ふっと目蓋を開けると、見慣れた自分の部屋の天井が目に飛び込んでくる。不確かで、それでも変に甘酸っぱいような、切ないような感覚の余韻が、胸の中にじんわりと残されていた。
そうして、心の底から、納得することができた。
……何かがまだ、俺の中に残されている。俺と遥華とを繋げる何かが、俺の心の中に、閉ざされた記憶とともに。
それを思い出すことが、果たして正解なのか、幸福なことなのか。
俺にはまだ、その判断を下すことはできなかった。
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