第30話 旧友


 彼にそれが見え始めたのは、ひと月ほど前のことだった。


 初めのうちは、ただの見間違いだと思っていた。ある日を境に、ときどき視界の端に、髪の長い女の姿が映るようになった。誰もいないはずの家の中ならともかく、通勤中や帰宅途中の外であったときには、それが本物の人間なのだと思って、間違って話しかけてしまうことも何度かあった。


 だが、こんにちはと挨拶をして向けた視線の先、そこに誰もいないことに疑問を覚えつつも、何かを間違って人の姿に見えたのだろうと、最初はさほど気にも止めずに、いつも通りに、普段通りの生活を送っていた。


 朝目覚めたら、歯磨きをしながら身支度を整え、電車の時間にピッタリになる頃合いを見計らい、部屋を出る。一人暮らしの彼は、ゴミの日には前日の夜に、玄関に用意しておいたゴミ袋を掴んで、いつもより一分だけ早く家を出た。アパートの階段を降りて道端に出ると、いつもの道とは三十秒だけ逆に進み、そこに設置されてあるゴミ捨て場にゴミ袋を放り投げると、クルリと踵を返して元来た道を戻ってゆく。彼にとって週に二度の、余分に必要とする日常の一分間だ。


 ……この間に、視界の端に女の姿が映ること二回。一回目は、玄関のゴミ袋に視線を落とした瞬間、視界の上の方に映った、白いスカートの裾の下に伸びた、ほっそりとした裸足の足元。二回目は、ゴミを出して踵を返し、会社へと向かおうとした瞬間に映った、電信柱の陰に佇む、長い黒髪の女の姿。どちらの場合も、真っ直ぐに視線を向けてしまうと、何も見えなくなってしまう。


 見る度に、首の後ろにゾワっと言い知れぬ寒気が走り、その度に何度も何度も、見間違いだと自分に言い聞かせた。


 思えば、その女の姿を見るようになったのには、明確なキッカケがあった。


 占い好きの会社の同僚に勧められた、仕事が上手くゆくようになるという、おまじない。


 鵜呑みにしたわけではなかったが、絶対に効くからと自信ありげに語る同僚の押しの強さに、どうせタダだからと、ダメ元で行ったあの儀式の翌日から、身の回りにおかしなことが起こるようになった。


 まず始めに、付き合っていた彼女に振られた。前触れもなく、いきなりのことだった。


 とはいえ、仕事が忙しくなり会える時間は少なくなっていたし、彼女に好きな人ができたのが別れの理由であったので、それ自体は、御呪いというまやかしなど、なんの関係もないことのように思えた。


 その次に、彼の母の大病が発覚した。余命幾ばくも無い、などというわけではなく、ちゃんと治療をすれば治る見込みも高いとのことで、仕事終わりに駆けつけた病院のベッドの上、笑う母の姿を見て、安堵に胸を撫で下ろしたものだった。


 それもまた、御呪い以前から、母の病気は進行していたはずだ。思い込みと言われれば、それまでのことだった。


 そして次に、彼自身が、事故に遭いかけた。


 仕事に疲れた帰り道、ぼんやりと歩いているところを、道を外れた車が突っ込んできた。仕事の疲れの溜まったトラックの運転手の、居眠り運転だった。すんでのところで躱し、大事に至ることはなかったが、トラックの前輪に轢かれた足の親指の、爪がバッキリと割れてしまっていた。


 その翌日はパチンコで大負けし、翌日には会社を休むほどに熱が出た。鼻をすすりながら冷蔵庫を開けると、知らない間に冷蔵庫のコンセントが抜けていて、食材が駄目になってしまっていたし、空の財布を持ってコンビニのATMに向かうと、故障中でお金を下ろすことができず、最寄りの他のコンビニに向かうには、徒歩で二十分は必要だった。


 仕方なく買い物を諦め家に帰ると、部屋の鍵がポケットから消えていたりと……運の悪いことが続いた。


 そして気がつく。


 視界の端に、ときおり、誰かの姿が見え隠れしていることを。


 それが、同僚に教わった儀式によるものなのか、あるいは他に理由があるのかは、彼には分からなかった。同僚にそのことを話しても、まともには取り合ってもらえなかった。


 深夜、部屋の明かりを消して、合わせ鏡の中に貰ったロウソクを立て、願掛けしながら、自分の名前の書かれた紙に火を点ける。灰皿の上でそのお札を完全に燃やして、ロウソクを吹き消して片付ける。……ただそれだけの、眉唾物の御呪いのはずだった。信憑性などあるはずもない。


「そんなに気になるなら、お祓いできる人を紹介しようか?」


 会社の休み時間に、相談した同僚は、気狂いでも見るかのような呆れた目つきで、巷で有名だという一人の霊能者を紹介してくれた。


 そうして会社帰りに向かった古びた家屋で、出会った自称霊能者の男には、訳の分からない分厚いお札の束を、十万で売りつけられそうになった。持ち合わせがないので、後日お願いしますと告げ、逃げるように男の家を出る。


 その間にも、長い髪の女の姿は、視界の隅にチラチラと付き纏っていた。朝にゴミ出しに家を出たときと、全く同じように。


 一人になる気にもなれず、行きつけのスナックで酒を飲んでいると、店のママさんに真剣な目つきで話しかけられた。


「貴方、女の人が憑いてきてるわよ」と。


 店のママさんは、視える人、らしく、これまでも何人か、お客さんの相談に乗ったこともあるらしかった。


「たまにいるのよ、そういう困ったちゃんが。私もそんなに強い力があるわけじゃないんだけれど、話を聞くくらいはしてやれるわよ」


 そう言って店の壁際を見やるママさんは、そこに立っているらしい女の人を、何やら不思議な目力のある視線で、真っ直ぐに見据えていた。


 ここ数日の出来事に、すっかり気を弱くしていた彼は、思っても見なかった頼れる味方の登場に、心底救われた気持ちになった。


「明日、また来てくれるかしら。知り合いにも頼んで、祓う準備をしておくから」


 そう言って笑った顔なじみのママさんは、翌日に亡くなった。


 それを知ったのは、翌日に訪れた店のドアに、通夜の案内の貼り紙が出されていたのを見たからだ。


 瞬間、言い知れぬ悪寒が彼を襲った。


 もしかしたら、自分のせいで死なせてしまったのではないか。自分がママさんに相談してしまったせいで、自分に憑いているというあの女が、ママさんを呪い殺してしまったのではないかと。


 そうして次は、自分の番なのかも知れない。震える指先を握りしめ、ポケットに突っ込むと、人通りの多い道を選びながら家路に着く。


 だが、いつも帰りに寄っている、駅にほど近いコンビニで、夜食とコーヒーを買って自動ドアを出たときに、そこから先のアパートまでは、暗い夜道を一人、歩かなければならないことに気がついた。


 そうして、足が進まなくなる。コンビニの喫煙所のベンチに座り込み、買ったコーヒーを啜りながら、視界の隅の方には意識を向けないように心がけた。今もそこに誰かが立っているような、そんな気がしたからだ。


 コンビニの店内を見ると、レジの向こうの若い男の店員が、退屈そうにふわあと大きくあくびをしていた。


 どうしたものかと悩み込む。今夜はどうしても、一人になる気にはなれなかった。


 誰か、一緒にいてくれる者はいないだろうか。さすがに、別れたばかりの元恋人に、そんなことを頼むわけにもいかない。


 友達がいないわけではないが、平日である今日、いきなり夜中に電話をかけても、迷惑に思われるだろう。


 そういえば、この近くに、誰か友達が住んでいた気がするが……もう長いこと、連絡も取っていない。学校を出て社会人になってからは、自然と疎遠になっていった友達ばかりだった。


 携帯を取り出し、誰か頼れる相手がいないものかと、すがる気持ちでアドレスを探る。


 ……そのときだった。



「この二日で100品だぞ。お前がバイトで部屋を空けておる昼間も、蛇貴妃と二人でせっせと頑張っておったのだ。そのご褒美に、デザートの三つくらい追加してくれても構わんだろう」


「そゥだそゥだ。ご主人様ナのだから、そのクライしてくれテ当然ではないカ!」


「いやいや、三つは欲張り過ぎだろう! そもそもあの御守りだって、一個五百円程度の効能で十分だって、ちゃんと念を押してたよな? あれじゃあ、一個数千円は取ってもおかしくないほどの出来じゃないか!」


 何やらガヤガヤと言い合いながら、コンビニへと歩いてくる三人の男女の姿があった。


「ん? あれって……」


 そのうちの男の顔に見覚えを感じて、彼は手にしたスマホのアドレスから、一人の友達の番号を探し出した。


 理道秀一。……学生時代、頻繁に遊び回っていた友達の名前だ。それを選び、試しに電話をかけてみる。


「質が良すぎるのも問題なんだよ。高額なものを作っても、知名度っていう信用がなけりゃ、誰も買ってくれないんだぞ? だからと言ってあれを数百円で売るにも、一度その値段で出してしまうと、次からも同じ品質を維持しなきゃならない。つまりお前らが作ったものは、今は売りに出すことができない在庫品に……ん? ちょい待ち、電話きたわ」と、男のポケットから着信音が鳴る。


 それを見て、彼は間違いないと確信した。


「…! やっぱりな! 理道、おい、俺だよ俺! 優輝だよ、小林優輝こばやしゆうき!」


 優輝は喫煙所のベンチから立ち上がると、懐かしい旧友の元へと駆け寄っていった。



 

 

 

「お? え、ユウちゃん? ユウちゃんじゃん!」


 久しぶりに……俺にとっては数十年ぶりに見た友達の顔に、嬉しさを感じて自然と顔が綻んだ。


 いやいや、マジに懐かしい顔だぞ。ていうかこっちに帰ってきてから、初めて昔の友達と顔を合わせることになる。


 連絡自体は、二日にいっぺんくらいは、誰かしらから電話やメールはきていたんだけれどね。まぁ向こうも、ただの安否確認のような感じもあり、実際に会うというまでは、なんとなく至ってはいなかったわけだが。


 ていうかウィラルヴァいるし。こいつときたら、俺が友達と遊びに出かけようとすれば、まず間違いなくついてきたがるだろうからなぁ。


 どう紹介すればいいか、分からんじゃないか。彼女というわけでもないし、結婚しているわけでもない。ただ、まぁ、伴侶であるということは、創造主と創造神という関係上、揺るげないものであることは確かなんだが。


「ヌ、誰ダこのモヤシは? 秀一さ…んの知り合いカ?」と蛇貴妃が言って、黒目の多い整った双眸を、パチクリと瞬かせた。


 蛇貴妃お前今、確実に様と言いそうになっただろう? 様付けで呼ぶのは厳禁だと、口を酸っぱくして言い含めておいたよな? 


 まぁ、言い止まっただけ良しとしとくか。


 ちなみに蛇貴妃の名前は、便宜上、ミキ、ということになっている。まぁ、今のような場合の、他人向けの名前ってところだけど。ウィラルヴァの、レイラ、っていうのと一緒だな。


 ていうかモヤシとはよく言った! ワラワラ! こいつ昔からヒョロヒョロしたモヤシ小僧だったもんなぁ。今もそれは変わってないようだけど。なんかホッとするわぁ。


「懐かしいなぁ。あれ? 理道とは、高校卒業以来だったっけ?」


「そうだっけ? 陽平とは、たまに飲んだりしてたんだけど、一緒にいたことなかった? 陽平とは仲良かったろユウちゃん」


「ああー、俺も、ずっと仕事ばかりだったからさぁ。空いた時間があっても、接待で飲みに出なきゃならなかったり、ほとんど仕事関係の付き合いしかないんだわ」


「なるほど。結構多いよなそういう奴。そんんで休みの日は休みの日で、家を出ることもなく、一日中寝て過ごしてんだろ。気を遣って、こっちだって連絡入れ辛いんだよ」


 ていうかそれは、俺がこの世界で孤立していってしまった、大きな原因の一つである。


 まぁ中には、相手の都合も考えずに、自分本位に遊びに誘ってくる奴もいないことはないが(ていうか一時期の俺のことだけど)二十歳も過ぎてしばらくしていくと、それを毎回のように相手していられるほど、時間的な余裕も体力もなくなってゆく。


 それに気づけば、不用意に遊びに誘うことすら億劫になってしまって、次第に、電話やメールだけで済ますか、友達と遊ぶ他に、雑誌やゲーム、または昼寝など、暇つぶしの材料を見つけては、自分一人の時間というものが増えてゆく。


 彼女の一人でもいれば、それも違ってくるのだろう。しかし独り身だった俺は、遊びに誘っても断れれ続けた果てに、ゲームの世界に入り浸っていたし、友達と連絡を取ることにすら、ある意味トラウマじみたものを感じてしまっていた。


 その意味では、今の生活にウィラルヴァがいてくれるということは、俺にとってこれ以上なくありがたいことなのだろう。


 おっと。そのウィラルヴァのことを、上手いこと紹介してやらねばなるまい。さてさて、どう説明すれば良いものか。


「えっと……こいつはレイラ。で、こっちはミキな。恋人、ってわけではないけれど……まぁ、微妙な関係だ。細かいことは察してくれ」


「む。微妙な関係とはどういうことだ? 定められた伴侶だとハッキリと公言すれば良いではないか」


「私とモ微妙な関係ナノか? それでは説明不足だゾ。子分だとハッキリ教えてやらナイと、ユウチャンも混乱するだロウ」


「言えるかっ! てか上手いこと濁そうとしてんのに、いきなりぶっちゃけてんじゃねぇよ!?」


「コソコソしておるのは嫌なのだ。そもそも母上にだって、未だにちゃんと紹介してくれぬではないか。一体いつまで私は、お前の部屋で息を潜めて隠れ住まねばならんのだ」


「そゥだそゥだ! もっと堂々としろォ!」


「ぐ、ぐぬぬ」


 おのれ、これ以上こいつらと話していると、際限のない暴露祭りにしかならない気がしてきたわ。


「あ、あはは。なんか訳アリっぽいな?」頰に汗を垂らしてユウちゃんが苦笑する。「というか、二人ともすごい美人だなー。彼女に振られたばかりの俺には、目に毒だわ」


 と、続けて空笑いするユウちゃんの目から、不意にポロリと一粒の涙が流れた。


 お…? 


 呆気にとられて会話の途切れた俺達の姿に、ユウちゃんが慌てたようにゴシゴシと目を擦る。


「わ、わりぃ。なんかホッとして気が抜けてさ。実は最近、ちょっと色々と厄介なことがあったもんだから」言って、どこか無理をしているように、元気よく笑う。


 ……うーん。まぁ、生きてりゃ色々とあるもんだよなぁ。それをいちいち突っ込んで聞くのも、ヤボってもんか。ていうか聞いたところで、俺には何もしてやれないだろうし。


 と、どう話を受け流して、次の話題を振ればいいか悩んでいると、先にウィラルヴァが、


「それは、そこにいる女が関係していることか?」と首を傾げつつ、ユウちゃんの後方を指差した。


 ……え? そこにいる女って……誰もいないんですけど?


 言われたユウちゃんが、途端に青褪めた顔つきになる。


「もしかして……レイラちゃんって、見える人?」不安そうに、喉の奥から絞り出すような声でそう言った。


 ええーっと……うん。なるほど。


 そういう類の、厄介ごと、ということなのですね。なるほど了解です。


 それならば、むしろ俺達なら、力になってやれることの方が多いでしょう。


 そう思って話を続けようと思ったとき、


「い、いや、ダメだ! これについて関わらせるわけにはいかない。見える人ってんなら、なおさら!」いきなり大声を出したユウちゃんが、その場を立ち去ろうとする。


「いやいや、待てって! 俺だって、このまま帰らせるわけにはいかねーよ!」


 無理矢理に肩を掴んで引き止め、その顔を覗き込む。


 血の気の引いた真っ青な顔で、俯き気味に涙を滲ませ、肩を震わせるその姿は、どれだけ切羽詰まった状況にいるのかを、容易に想像させた。


 と、


 (見捨てないで……)


 不意に耳元に、か細い女の声が聞こえた。

 


 

 

 

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