第28話 また夢を見たようです


「そう……。彼はこっちの世界に来たのね」


 ボンヤリとした意識の中、透き通った女性の声が聞こえてきた。


「しかも、自分の半身である、創造神も引き連れていますよ。とんでもなく強力な神です。あれでは誰も、簡単には手出しできそうにありません」


 続けて聞こえてくる、涼やかな男の声。その男の声に聞き覚えを感じたときに、それまで真っ暗な中にいたことを知覚さえしていなかった意識が、スゥーと浮き上がるようにして、目の前の暗闇が晴れていった。


 目が開くと同時に、意識が覚醒する。まるで、長い夢から覚めたかのようにして。


「えらく弱気な発言ね、しんちゃん?」


 すぐ近くで、さっきの女性の声が、そう言って笑ったかのように思えた。未だボンヤリした意識のうちに、ふと声のした方を見下ろすと、肩口までの癖っ毛の茶髪をふわりと風に揺らしながら、ありふれた古い日本家屋の軒下で、微笑む一人の女性の姿があった。


「姉さんのことを引き合いに出して、繋ぎ止めようとはしたんですけどね。相変わらずケチな男ですよ。自分の世界の神力は、一ミリ足りとも譲る気はないそうです」


 女性と話している男が、ラフなジーンズにトレーナー姿の慎司だと気がついたときに、ハッとして癖っ毛の茶髪の女性に、目が釘付けになる。


 遥華だった。あの頃より随分と垢抜けて、大人っぽい女性の仕草を見せているが、春風の日向に咲く一輪の花のような、そのふんわりとした暖かな雰囲気だけは、あの頃と何も変わらずにいた。


「よく喧嘩にならなかったわね。あのときのこと、一番恨んでても仕方がないのは、しんちゃんでしょうに」


「もう子供じゃないんです。気に入らない奴だからと、無闇に喧嘩を売ったりはしませんよ」


 古びた一軒家の庭先で、小綺麗に手入れされた花壇の花を見やりつつ、慎司がフンと面白くなさそうに鼻を鳴らす。


「そうね……。もう、子供じゃないものね」呟くようにして言った遥華が、少し寂しそうに視線を落とした。




 ……さて。これは一体どういう状況でしょうか。


 懐かしく、心の中に暖かさと、せつなさと、そして言いようのない不安じみた思いを抱きつつ、遥華の優しげな顔を見つめる。


 場所は……どこだろう、見たことのない場所だ。古めかしさは、遥華との思い出に溢れたあの、湖畔の長屋と似たような雰囲気だけれど、全く見覚えのない、どこにでもありそうな古めの一軒家だ。


 辺りに似たような家が並んでいるということは、どこかの貸家か何かなのだろうか。少なくとも、俺のこの世界での行動範囲の中では、全く目にしたことのない光景だ。


 微かに聞こえてくる、さざ波の音。暖かく降り注ぐ日差し。吹き抜ける風も心地よく、花壇の花の匂いを、緩やかに巻きあげてゆく。


 ふと、自分の足が、地面に着いていないことに気がついた。まるで、幽体離脱でもしているかのようだ。


 いや、幽体離脱なんてしたことないから、ホントにこんな感じなのかは分からないけれど。


 そして俺の姿も、どうやら二人の目には止まっていないらしい。まるで吹き抜ける風と同じかのように、すぐ間近に浮かんでいるというに関わらず、欠片も注意を向けてくれることはなかった。


「……元気にしてた? 前より…幸せそうだった?」


 微笑みながらも、どこか不安そうな儚げな瞳が、慎司を見つめる。


 俺のことを言っているのだろう。そう気付いたとき、あの頃と同じ遥華の優しさに、胸の中に不思議な思いが込み上げ、息が詰まりそうになった。


「……相変わらずバカっぽかったです。それ以上でもそれ以下でもありません」


 ぶっきらぼうに答えた慎司の口調に、思わずイラッとして頭をパシンと叩きつける。


 ……つもりだったが、スカッと叩いた腕が擦り抜け、一陣の風となって慎司の髪を優しく撫でていった。


 慎司は一瞬、額をくすぐった前髪を気にするそぶりをみせたが、それ以上は気にも止めず、すぐに視線を姉の遥華へと戻した。


「そんなことより、確実にあの男が味方についてくれると限らない以上、深く関わるのは危険でしょう。できることなら、あの男の持つ神力を確保したいところですが、厄介な奴らにも目を付けられ兼ねません。伴侶気取りの創造神も危険です。必ず、姉さんを敵と見なすでしょう」


「そうかしら? 話せば分かってくれるかもよ?」言って、子猫のように小首を傾げる。


 慎司はキッパリとかぶりを振り、


「いいえ。創造主と創造神が、どういう関係性なのか、姉さんもよく分かっているでしょう。そうでなければ、今のような境遇に陥ることもなかったはずです。

 ハッキリ言っておきます。俺がいないところで、単独で、あの男を会おうとは思わないでください。でなければ……俺は何をするか分かりませんからね」


 キツい口調でそう言いつけた慎司に、遥華はクスッと笑みを浮かべ、


「過保護過ぎないかしら? 貴方と同じで、私だって十分に大人よ? 彼だってそう」


 言ってふっと顔を上げて、暖かな陽射しのさす、澄んだ青空を見上げた。頬撫でる風が、緩やかに遥華の癖っ毛の髪をくすぐる。


 その視線が、一瞬、空に浮かぶ俺の視線と合わさったように感じた。が、すぐに、遥華の視線は弟の慎司に直される。


 若干の寂しさを感じつつも、二人の会話を見守った。


「どの道、私には自由なんてないわ。ここを出ることさえ許されていないのだから。

 そうなったのは、誰のせいだったかしら?」言って、悪戯っぽい目つきで慎司を見つめる。


「……俺が、父さんを殺したからです。だけどあれは、元はと言えば…」


「分かってる。意地悪言われたから、ちょっと意地悪言い返しただけよ。それに……どうせ避けられなかったわ。どう転んでも、お父さんとは対立していた。私達は、聖域を追い出されていた」


 言われた慎司の目つきが、暗く、憎しみに満ちていった。


「それが、まかり通っている世の中なのです。だからこそ…力が必要なんです」


 吐き捨てるようにつぶやき、グッと奥歯を噛み締める。


「……ごめんね。しんちゃんにばかり、負担をかけさせて」ため息混じりに、遥華は俯いた。


 しばらくの沈黙ののち、不意に慎司が、フッと軽く息を吐く。


「いいんです。俺の肉親は、姉さんだけなのだから」


 そう慎司が、ようやく少しばかりの笑顔を見せたときだった。


「遥華様。旦那様がお呼びです。すぐに屋敷へと出向かれますよう」


 家の奥から、歳経た老婆の声が響いた。


「はーい。すぐに行きます。

 ……ごめん、お呼びがかかっちゃった」遥華が申し訳なさそうに、ペロリと舌を出す。


「……負担がかかっているのは、俺だけじゃない。姉さんだって……」


「私はいいの。やれることなんて、たかが知れてるんだから」


 慎司の言葉を遮り、遥華の伸ばした白い手が、ポンと慎司の頭を撫でた。


 そのまま踵を返した遥華が、淑やかな足取りで、家の中へと入ってゆく。


「……姉さんは俺のものだ。いずれ、全て取り返してやるからな」


 言い残した慎司が、花壇に咲く花にペッと唾を吐き、その場を立ち去っていった。



 と、残された俺の意識が、途端にググッと息苦しくなる。


 な、なんだいきなり? 息ができない。そもそも、これは一体どういう状況なんだ。


 目の前が徐々に暗くなり、それと同時に深い水の底に沈み込むように、途切れていった俺の意識が……不意に、パッと明るくなった。



 

 気がつくと、いつもの俺の部屋で、自分のベッドで、首に巻きついた寝ぼけた蛇貴妃を、必死にもがいて外そうとしている自分がいた。


 隣では、いつもの薄着のネグリジェ姿で、気持ちよさそうにスヤスヤと寝息を立てる、ウィラルヴァの姿がある。


「ぐ…ちょ……へびき……ぐえ!」


 力任せに蛇貴妃をひっぺがし、掛け布団の上にバシッと叩きつける。


 しばらくうねうねと蠢いた蛇貴妃は、そのまま何事もなかったかのように、布団の上で動かなくなり、スピスピと寝息を立て始めた。


 おのれ……絞めやがったな! やっぱり絞めやがったなやると思ってたよ!


 涙目で蛇貴妃を睨みつけ、ハァハァと荒い吐息を吐き出す。


 窓の外はすっかり明るくなり、かなりのお寝坊さんの時間帯になっているようだった。


 時計を見ると、十時を少し回ったところだ。……まぁ、昨夜は随分と遅い帰りになっちゃったもんなぁ。


 とはいえ、今日のバイトは午後からだ。まだまだ慌てる時間帯ではない。


 ていうか……バイトと両立させるには、かなりキツい仕事のような気がする。早いとこ店長に独立してもらって、ある程度自由に動けるようにならないと……このペースで続けられるもんじゃないぞ断罪者って。


 そんなことを思いながら、再び布団にゴロンと横になった。




 

 ……え? さっきの夢の真相?


 ……うん。そうだね。


 とりあえず、お休みなさい。



 

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