第26話 誰しも事情を抱えています


 ウィラルヴァの開けた次元の裂け目が閉じると、深夜の静けさに包まれた平穏な竹林だけが、目の前に広がっていた。蛇貴妃は真樹さんの不可視の拘束を受けたままだが、騒ぐことも踠くこともせず、大人しく佇み、目を伏せている。


 本来の世界の蛇貴妃の屋代は、それが屋代であったのかの判断もつかないくらいに、ボロボロに荒れ果ててしまっていた。


 元は何が祀られていたのだろうか。分からないが、その中に住まう神もいなくなり、管理する人間もいなくなれば、人知れず朽ち果ててゆくだけの定めなのだろう。


 どれだけ賑わった神社でも、訪れる者がいなくなり、管理する人間がいなくなれば、自然と荒れ果ててゆく。そうして力を集めることができなくなった神は、他の自分の社に移るか、他の神の傘下に入るか、あるいは独り流れる野良神になるか……まぁ道はいくつかあるのだけれど、この蛇貴妃が選んだ道は、まずは独り流れる孤独な野良神になることだったらしい。


 大人しく、拘束など受けてもいないかのような落ち着いた口調で、蛇貴妃は語り始める。


 なんでも、かつて自分を祀ってくれた一人の男に、義理立てをしているのだとか。はるか昔、まだこの国が、戦争もできていた時代に、ここよりずっと西の地方で、とある井戸を水神として祀る村があった。元々、蛇貴妃は、その井戸の積み石の隙間を棲処とする、一匹の年経た白蛇であったらしい。


 豊富な水源にあった井戸は、作られてから一度も枯れたことがなく、人々は神の住まう霊験あらたかな井戸として重宝し、崇め奉った。やがて蛇貴妃は、集まった力を身に宿し、神の一柱として認められるようになってゆく。


 ふむ。どちらかといえば、元は妖魔のような類の存在であったということか。だからこそ、正の神力も負の神力も、どちらもその身に宿すことができるというわけだ。


 とにかく、


 力を得た蛇貴妃は、訪れた信者の病気を癒したり、戦争の空襲による火の手から村を守ったりなど、一端に神らしい働きをし、人々に恩恵を齎していた。井戸のほとりに建てられた小さな屋代や井戸の近辺は、近くに住んでいた一人の男により管理されていて、常に清掃は行き渡っていたし、住み心地も良く、不自由のない日々が送れていたのだという。


 風向きが変わったのは、屋代を管理していた男が、赤紙により戦争に連れ出されてしまってからだった。清掃をする者もなく、稀に参拝者が落ち葉を掃いたりなどはしてくれたが、嵐により折れた木々や、強風に飛ばされた屋代の屋根までを綺麗にしてくれる者は誰もいなかった。やがて見栄えが悪くなると、訪れる者も減ってゆき、村に水道が整備され始めたこともあって、次第に蛇貴妃は、神としての力を衰退させていった。


 しかし、そこにまた転機が訪れる。男が、戦争から帰ってきたのだ。当時は終戦にもまだ早く、人々は不安な暮らしを強いられていたが、男は戦争により片足を無くし、不自由な身体になりながらも、日々少しずつ、屋代を綺麗にしていってくれた。


 しかしそれにより無理が祟ったのか、あるいは戦争がそれだけ深い傷を負わせてしまっていたのか、男は次第に屋代に訪れる回数も減り、家に鬱ぎ込むようになってしまった。


「人ニ化ケ、断罪者デモナイ人間ト接触スルコトハ、神界ノ掟ニヨリ禁ジラレテイル。シカシ私ハ、ドウシテモアノ人ヲ、放ッテオクコトハ出来ナカッタ」


 そう語る蛇貴妃の瞳は、深い哀愁の念に覆われていた。


 人の姿に化けて、太陽神の目の届かない夜の間だけ、蛇貴妃は男の家を訪れ、献身的に看病を続けた。


 時には男を車椅子に乗せ、屋代の近くを散歩することもあった。その頃の男はもう、言葉を発することさえ珍しくなってしまっていたが、それでも男と触れ合っていられる時間は、彼女にとってとても貴重で、かけがえのないものだったという。


 家族もなく、独り身だった男。逞しかった身体は痩せ衰え、精悍だった目つきも暗く荒んだものになってしまっていたが、それでも蛇貴妃は、いつか戻ってくれることを信じて、男の看病を続けた。


「本当ノ妻ニナリタイト思ッタコトモアッタ。身寄リモナイアノ人ノ、子ヲ成シテアゲタイト思ッタコトモアッタ。ソレガ許サレヌ事ト知リツツモ、重ネタ逢瀬ニ、今モ後悔ハシテイナイ」


 やがてそんな二人の姿は、村に住む人々の目にも止まるようになる。どこの者とも知れぬ余所者の女の姿に、村人の間に、いつしかあらぬ噂が広がるようになった。


 片足を無くして軍隊から追い出された役立たずが、物の怪の妻を娶った…と。


 男は糾弾され、村からも追い出されてしまう。


 怒り狂った蛇貴妃は、村に大洪水を巻き起こした。集まる力も、負の神力の度合いが強まり、彼女を神と認めた、上神である月読命ツクヨミという神は、彼女から神の資格を剥奪するしかなかった。


「月読命様ハ、オ優シイ御方ダ。最後マデ、私ヲ庇ッテ、神ノ資格ヲ剥奪スル事ヲ、渋ッテオラレタ。月読命様ノ立場モ危ウクナリ、私ハ自分カラ、神ノ資格ヲ返上シタ」


 そうして蛇貴妃は、男を車椅子に乗せ、各地を転々とした。ゆくあてもなく、食べることさえ不自由する日々だった。盗みもやったし、ときには身を守るために、誰かを傷つけることもあった。雨風を凌ぐためにボロボロの荒屋に野宿し、男の身体を温め、ひっそりと身を寄せ合って夜を明かすこともあった。


 そして当然のごとく、その時は訪れる。


 やがて男は衰弱し、死を迎えた。


「ソレガ逃レラレヌ事ダトハ、覚悟シテイタ。私ハ人間デハナイシ、人間ラシイ生キ方モ出来ハシナイ。ソレデモ少シデモ、アノ人ノ寿命ヲ、延バシテアゲタカッタ」


 男の遺体を、人間が皆そうしているように、人里離れた山奥に、深い穴を掘って埋めた。しばらくの間は、何とはなしに、その場から離れることもできなかったが、乗る者もいなくなった車椅子を押しながら、再びアテもなく彷徨い始める。


 そのときにはすでに、彼女の神としての力は、無きに等しいものであった。


「生キ抜ク為ニハ、淀ンデ汚レタ呪力デアロウト、集メネバナラナカッタ。街ノ影ノ吹キ溜マリニ潜ミ、人ノ怨念ヲ喰ラッテ生キルウチニ、私ノ身ハスッカリ悪神ト成リ果テテイタ」


 悪神となれば、その性格にも大きな影響が出る。怒りや妬み、苦しみの感情が大きくなり、狂暴で残忍な性質が強く出て、本来の姿を失ってしまう。脆弱な魂の持ち主ほどその影響は大きく、人間であれば、気が狂って狂人となってしまってもおかしくはない。


 その意味では、蛇貴妃は、それなりに魂の格が大きかったのであろう。自身でも微量ではあるが神力を生み出すことができ、魂の全てが悪神に染まってしまわなかったことが、幸いしたのだと思う。


 ……いや、違う。それだけではないのだ。


 これは、一世界の創造主である俺だからこそ、分かることだ。


 彼女を神と崇める魂があり、ずっと、彼女に寄り添ってきたのだ。だからこそ彼女は、神としての力の全てを失うことはなかった。そうでなければ、本来神族として生を受けたわけではない彼女が、神力を生み出すことなどできるわけがない。


 人間は余さず創造神の加護下にあり、多かれ少なかれ、霊力も呪力も生み出すことができる。創造神の加護に、正しき神力を生み出す能力があるからだ。しかし神族というのは、それには当て嵌まらない。加護も眷族も、全てが後付けなものだ。妖魔や妖怪などと呼ばれる存在も、また同じものである。


 俺とウィラルヴァの世界では、魔物や魔獣という呼び方をするのだが……負の神力を根源とする魔物や魔獣は、自身では神力を生み出すことはできない。捕食により取り入れたり、体外より吸収するほかない。


 まぁそれを言い始めると、人間もまた食べ物を摂取することにより、神力を生み出すエネルギーを得るし、竜脈の力が滲み出るパワースポット的な場所では、神力を吸収できたりするのだが……複雑な話になってしまうんで、とりあえず投げ捨てておく。


 とにかく、蛇貴妃の場合、神の資格を返上した時点で、上神である月読命の加護下から、あるいは眷族から外れ、神力を生み出すことはできなくなってしまった。神ではなくなってしまったからだ。


 しかし、彼女を神と崇める魂が一つあり、月読命の加護下から外れても、彼女は神としての資格を失うことはなかった。いや、もう一つ別の資格を持っていた、という言い方をした方が正しい。


 神々が欲し、権威を維持するためにも集めるのに必死になっている魂を、彼女は無自覚のうちに一柱、手に入れていたのだ。


 無論、それが誰の魂であるのかは、言うまでもない。


「君の事情は分かった。だが、君が俺の仲間を喰らった事実は、消すことはできない。いくら君が、神々の一柱としての資格を有していようと、俺にとって敵であることに変わりはない」


 真樹さんの言い分も、彼の立場からしたら、真っ当なものだ。断罪者は、この地球上の全ての者を裁く権利を持つ。それが人間であろうと、悪魔であろうと、神であろうと。


 それが正統化されるのか、正義と見なされるのかは、それこそ後付けなものだ。それでもこの蛇貴妃を悪と見なし、断罪することに、後から違を唱える神々や断罪者が、一人でもいるだろうか。アウトカーストとして認定もされている、この蛇貴妃を。


「私ガ死ネバ、アノ人ノ魂ハ、私カラ離レルノデアロウ?」


「そうだ。加護や眷族と同じく、来世に引き継ぐことはできない。男の魂は解放され、神も持たない自由な魂となる。

 最後にもう一度確認するが、本当に滅びを受け入れるんだな? これまでは、男の魂がお前の根元に寄り添っているのを、気づいてもいなかったようだが……方法さえ学べば、彼の神として、彼を生まれ変わらせることもできるんだぞ。そして死したのちは、お前の元に戻ってくる。人として生まれても、その魂は全体のほんの一割ほどで、魂の本体は、お前の柱の一部として、お前を支えているんだからな」


 この辺りの原理は、星を構成する要素とも関わっていることで、簡単には説明できないことなのだが……まぁ、本気でそうしたいと言うのならば、教えてもやらねばならないだろう。


 が、


「イヤ…私ノ元ニイテモ、何モシテヤレナイ。多クノ人間ヲ、躊躇イモ無ク殺ス事ノ出来タ私ハ、ヤハリ悪神ナノダロウ。私自身モ、ソノ楔カラ断チ切ッテ欲シイ。

 ソノ方ガキット、アノ人モ幸セニナレル」


 蛇貴妃の望みは、男の魂を解放することだった。


 ならば……これ以上、止める理由などない、か。


 無言で真樹さんに向き直ると、真樹さんは俺の顔を見て、やや複雑そうに眉間にシワを寄せていた。


「何を持って罰とするのか、分からなくなってきた。ここでそいつを滅ぼしたところで……君達はすぐに、そいつを復活させるんだろう?」


 さすがは熟練の断罪者だ。まだ説明もしていないのに、俺達が何をしようとしているのか、すでに察しているらしい。


「神であれば、眷族や魂の柱をリセットされることは、人の死にも等しい十分な痛手よ。神としての権威も何もかも、全てを最初からやり直すことになるんですからね。貴方も断罪者ならば、それで妥協なさい」


 そう言ったシズカの心境は、どうやら蛇貴妃に同情する気持ちの方が大きいようだ。何やら懐から銀細工のネックレスを取り出すと、その飾りの部分を外し、ヒョイとこちらに放り投げてきた。


「これは?」


 反射的に受け取り目を向けると、どうやら蛇と龍の中間のような生物を象った、白銀製の彫刻であるようだった。


「私の作った魔導具よ。復活させるにも、魂の依代が必要でしょう。…あげるわ」やや頰を赤らめながら、ぶっきらぼうな態度でフイとそっぽを向く。


 うん。創作系の能力については、俺はむしろどこの世界の創造主よりも長けていると思うのだが……折角の好意だ、有り難く使わせてもらおう。


「さて、そうなると……」


 あとはもう、真樹さん次第だ。


 俺やシズカらの視線が、真樹さんに集まる。真樹さんはどこか気落ちしたように、ふうっと小さくため息をついたが、ややあって軽く何度か頷き、


「分かった。手を打とう。その蛇貴妃に関しては、今現在の力を奪うことのみで、断罪とする。ただし、復活後も記憶は受け継がれる以上、俺が欲する情報は、キッチリと渡してもらうよ」


 それは、慎司らを含め、背後に潜む上位の神々のことを言っているのだろう。


 一体どこまでが、真樹さんの断罪対象となるのだろうか。仮にだが、突き詰めて行った先に、この国の最高神とされる天照大神や、いるかどうかは分からないけれど、御釈迦様だとか、手の出しようのない相手が出てきてしまった場合、どうするつもりなのだろう。


 まぁそれらも全部、真樹さんの背後にいる、派閥の最高神の要領次第、ということになるのだろうけれど。


 ていうか真樹さんの所属する派閥の神って、誰なんだろう? 未だ聞いたことはないけれど。


 ……まぁいい。ここまで関わってしまった以上、素知らぬ顔もできない。借りを一つ作ってしまったような形だし、要望があれば手助けするのも吝かではない。


 何より……真樹さんが悪い人ではない。ここまでくればもう、友達といっても差し支えはない間柄だと思うし。


 真樹さんが神器であるスマホを手に、蛇貴妃の前に歩み出る。


「神殺しの呪いは、できればごめん被りたいところだが?」


「私ノ柱ニハ、一人シカイナイノデアロウ? 大シタ復讐モ出来マイ」


「それもそうか。……では、覚悟はいいな?」言った真樹さんのスマホから、赤い光が煙のように立ち昇り、蛇貴妃の身体に纏わりついていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る