第16話 出直すことにしたのです


 彼女が住んでいたはずの家。そこに現在、二人で住んでいるという夫婦は、彼女の名前を知ってもいなかった。


 ここに住み始めたのは、五年ほど前のことで、それまでは何年もの間、その部屋はずっと空き家だったんだそうだ。


 一応その夫婦も、長屋の他の部屋に住まう家族と同じく、山頂にある神社の神主の家系ではあるらしい。ただし水瀬という彼女の名字にも、遥華という名前にも、聞き覚えもないという。


「十年ほど前のことですか……その頃はちょうど、自分は都会の方に出ておりましたので」と、申し訳なさそうに旦那さんが頭を掻く。五年前に今の奥さんと結婚して、地元であるこの街に戻って来たのだそうだ。


 それからしばらく夫婦と話をしたのち、お手数おかけしましたと頭を下げ、長屋の敷地を出て、先ほどの原付のあった場所まで戻った。


 長屋の他の家庭を訪ねれば、見知った顔の一人もいるだろうか。…いや、彼女の家にお邪魔することは多々あったけれど、彼女以外の他の家族とは、ほとんど会話をしたこともなかった。顔も名前も、覚えていない者がほとんどだ。


 唯一覚えているのは、確か慎司という名前の、眼鏡をかけた中学生くらいの少年。夢にも出て来た、口数の少ない大人しい少年だ。おそらく彼女の弟だったのだろうけれど……ほんの数回、挨拶を交わした程度であり、大人になった今では、道ですれ違ったって、気がつかずに通り過ぎてしまうに違いない。


 とにかく疑問点が多い。


 あの夢を見るまでは、思い出すこともなかった彼女との思い出。何のために忘れさせられていたのか。それをやったのは、誰なのか。


 それだけのことができる特殊能力を持っているということは、おそらくは、こちら側の人間……または神族、あるいは妖魔や妖怪、悪魔などと呼ばれる、人外の存在であることは、間違いないだろう。


 転移前に、まさかそのような存在との関わりがあったということは、驚きの一言に尽きるが……もしかしたら、普通に生きている人間にとっても、そのような特殊な存在とは、ごく身近にあるものなのかも知れない。


 そもそも、なぜ彼女との記憶を? それこそが最大の疑問だ。ある時を境に、それまでの日常から、スッパリと消え去ってしまった彼女の存在。


 彼女は一体、どこに行ってしまったのだろう。


「疑うわけじゃないけど、封印があったのは本当なの? 彼女…水瀬遥華ちゃんは、本当に実在していた人間なの?

 もしくは、異世界で長い時間を過ごしていたことで、なんらかの記憶違いが出ているとか……」


 事情を聞いた店長が、最もな分析を提示した。第三者の視点で、そう思い至るのは、まぁ当然だろう。


 実体を持たない精神生命体であるソゥルイーターを使って、記憶を確認したことを話し、その封印がまだ、完全に解けていないことも、続けて説明する。


 どうしても思い出せない事柄は、彼女との最後がどんなものだったのか。彼女との別れ、最も重要な、最も知りたいその部分が、六星の上級魔獣であるソゥルイーターを使っても、突破できないほどの、強力な結界によって阻まれてしまっている。


「なるほどねぇ。……じゃあ、それを解く方法を探す、封印をかけた相手を探す、あるいは、彼女自身を探す。差し当たって、この三つが今の選択肢ってとこかな?

 ていうか、ウィラルヴァちゃん……理道君達の世界の、絶対神である彼女なら、記憶の封印も解けるんじゃないの?

 ……まぁ、彼女には話し難いことかも知れないけどさ」と、頰を掻きながら店長が提案する。


「俺の所有するシィルスティングというのは、言うなればウィラルヴァの持つ能力を、個別に細分化させたものなんです。

 精神操作に関しては、六星魔獣のソゥルイーターをはじめ、調律の魔神やベリアフェレスというシィルスティングがあるんですけど、それらを使って解除できなければ、ウィラルヴァにも無理です。

 基本的に、ウィラルヴァにできることは、俺にもできます。逆に俺にできないことは、ウィラルヴァにもできないんです。

 まぁ、異世界への転移などはウィラルヴァにしかできないし、いくつか特例はありますけどね」


「なるほど。理道君の持ってるシィルスティングって、そういう原理だったんだね。……ちなみにそれって、僕にも使えたりするの?」


「契約さえすれば、使えないことはないと思いますけど……多分、一回使ったら神力切れでぶっ倒れて、最悪死にますよ」苦笑してみせる。


 店長は上半身を仰け反らせて頰をピクつかせつつ、


「ま、まじか。もし使えるんだったら、もう少し役に立てると思ったんだけど……流石にそんなうまい話はなかったか」乾いた笑いを浮かべた。


 とはいえ……簡易魔法と言って、一回切りの使い捨ての魔法カードがあるのだが、それならば神力の低いこの世界の一般人でも、数発程度ならば使用することもできるだろう。


 うん。今度何枚か見繕って、店長に持たせておくのもアリかも知れないな。


 そう提案すると、店長はぱぁーっと顔を明るくさせた。


「すごい! 僕にも魔法が使えるんだね! めちゃくちゃ嬉しいよ!」


「まぁ……無闇矢鱈にぶっ放さないようにしてくださいね。罪もない一般人を巻き込まないとも限らないし。簡易魔法だって、チャージするのには、それなりに神力を消耗するんですから」


 一応、ちゃんと釘を刺しておいたものの……多分店長なら、その辺も上手く立ち回ってくれそうな気がする。稀に可笑しなテンションのときがあるけれど、人間的には俺なんかよりずっとデキた人物だ。……まぁ、俺がよっぽど子供なだけという噂もあるが。


「任せといて。使うところを誰かに見られたりとか、単純なミスはしないよ。ついでに言うなら……最初は、あんまり強力なやつはご遠慮願いたいかな。入門編でよろしくお願いします」あはははと、額に汗を浮かべる。


 うん。そういうことが言えるってことは、やはり信用を置いて然るべきだと思う。


 まぁどちらにせよ、店長には高レベルの魔法は、そもそも発動させることができないだろうから、初級レベルの魔法中心になるんだけどね。


「とにかく……記憶の封印をかけた相手に、心当たりもないんでしょ? ということは、その相手を探すってのも、無理っぽいね。

 そうなると……とりま、今取れそうな選択肢は、一つだね」と、気を取り直した店長が、真面目な顔つきでビッと人差し指を立てた。


「彼女を探す。あるいは、彼女の行方を知っている人を探す。

 とりあえず今日のところは、この辺り一帯の家に絞って聞き込みをしてみようか」


 店長の提案に従い、長屋を含めた近所の家を、一軒ずつ訪ねて回った。


 長屋にはもしかしたら、見知った顔の一人でもいるかも知れないと期待していたのだが、生憎と思い当たる顔はなく、俺の顔を見て反応する人物も、一人も見受けられなかった。


 そして、彼女のことも、最初に訪ねたあの夫婦と同様に、名前に心当たりがあるという者すら、一人も見つからなかった。


「変だね……。長いことここに住んでいるって人もいるだろうに、なんで彼女の名前さえ、誰も知らないんだろう」


 辺りもだいぶ薄暗くなり、車の止めてあるドライブインの駐車場へと歩を進めながら、腕組みした店長がウーンと首を傾げた。


「彼女のことを隠して、嘘をついているのかもと思ったけど……仮にそうだったとしたら、なおさら問題だね。そこまでしなきゃならないなんて、一体何があるって言うんだろう」


「ここまでくると、本当は彼女なんて存在しなかったんじゃないかって気がしてきましたよ」


 とはいえ、記憶は確実にある。ソゥルイーターを憑依融合して取り出した記憶だ。夢や幻なんかではなく、本物の記憶であることは間違いがない。


「いや……待てよ? もしかして……」と店長が、何かに思い当たったように、不意に足を止めた。


「もしかして、理道君と同じように、ここの住民も、彼女のことを覚えていないんじゃないか? それだったら、辻褄が合う」


「みんなが、記憶を操作されてるってことですか?」


 確かに。言われてみれば、その可能性は十分にある。誰がなんの目的で、という疑問は残るが。


 うーむ。誰か一人を捕まえて、無理矢理にソゥルイーターを頭の中に突っ込む……なんてことは、当然できない。プライバシーの侵害も甚だしい行為だ。それを躊躇い無くやれちゃうようになると、それはそれで無敵だろうけど。


 節度って大事だよ。一応はこれ、言うなれば神の力なんですからね。何でもかんでも自分の思う通りに、というわけにはいかない。


 ああ……なるほど。そういうふうな危ない考え方を持った奴を取り締まるために、諸々の事情を噛み砕いた結果、断罪者という特殊な集団も存在しているわけか。やろうと思えば、盗みだって殺しだって、思うがままの力だ。


 しかしそうなると、今回のこの、記憶の操作という行為は、どういう判別になるのだろう。


 記憶を操作されたからとはいえ、それ自体が死に直結するような、危険な行為ではない。


 例えば、何か都合が悪いことを隠すために、他人の記憶を操作するという行為。…断罪者の目線からしたら、これはどういう裁定になるのだろうか。


「うーん……どんな理由があるにせよ、理道君みたいに、恋人と引き離されるような結果を招いたっていうんなら、断罪されて当然だと僕は思うけどね」


 店長の見解は、実に常識人らしい大人な判断だと思う。


 しかしそれも、あくまで人間としての目線だ。神々からの視点は、それとはまた違ったものになるだろう。現に俺とウィラルヴァの世界でも、人間と神族とでは、価値観に相当の違いがあった。


 こういう種族間の価値観の違いというものは、人間同士でもあるだろう。それが戦争の原因になったってことも、度々あるに違いない。


 大抵の場合は、より力のある方が、正義として認定されてしまう。それを避けるために、断罪者という組織も結成されているのだと思いたいが……そうなると今度は、断罪者こそが、絶対的な正義だ、という扱いになってしまう。


 ということは……だ。断罪者を世界共通の正義足らしめるために、必要なものは、この世界の創造主と創造神により、ちゃんと設定されているに違いない。


 つまりは……要は、法律だ。断罪者のサイトには詳しく書かれていなかったが、このような場合に、どう対処すればいいのか、マニュアルが存在しているに違いないのだ。


 存在していなかったとしたら……この世界の創造主はアホの子だということが確定する。さすがにそれはないと思いたいが。


「店長、一旦帰りましょう。断罪者の本部に、確認したいことがあります」


「了解。早く帰らないと、ウィラルヴァちゃんも心配してるだろうからね」


 神崎さんに連絡を取れば、すぐにでも調べてくれるだろう。その上で、色々と判断したいことがある。


 ウィラルヴァも巻き込むことになるだろうが……元々、隠すつもりもなかったことだ。多少は話し難い内容であることは認めるが。


 店長と二人、古めかしい街灯の照らす下り坂を、足早に歩いてゆく。


 ……不意に、誰かに見られているような気配を感じて、足を止めて振り返った。


「どうしたの?」

「いや……」


 誰もいない。古い軒並みが並ぶ薄暗い坂道に、物寂しい雰囲気で佇むいくつかの街灯。家々から漏れる明かりも少なく、外を出歩く人影は一つもない。


 それでもなんとなく、感じるものはあった。それもまた、異世界での長い戦いの末、鍛え上げられた感覚によるものだ。


 無言のまま、山頂の神社の方に視線を向ける。真っ暗であり、軒並みや山林の木々に阻まれて、その姿を見ることはできなかったのだが、直感的に、向けられた視線がそっちの方向からのものであると、確信できた。


「なるほど……」


 そこにも、この世界の神々の、一柱があるはずだ。なんらかの形で関わっていても不思議ではないと、続けて考える。


 この国には、八百万の神々があるという。実際の数というものは定かではないが、そこには様々な関わりがあり、様々な事情があり、様々な思惑があることだろう。


 これは、思ってた以上に厄介な問題なのかも知れない。


 思い至り、面倒なことにならなければいいがと、ふうっと軽くため息を吐いた。

 

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