第15話 取り戻した名前


 風に吹かれて緩やかにさざ波立つ水面に、ポツポツと貸しボートが浮かぶ。


 湖の北側を走る国道を軸にして、広がる慎ましやかな街並み。小高い山に囲まれた湖には、山の谷間に沿うようにして流れ込む、小沢の水が満たされてゆく。


 特別に広大な湖ではないが、国道を走る車窓からの眺めには、思わず目を奪われる。水面に浮かぶボートの姿は、以前は見かけられなかったものだ。おそらくこの数年の間に、新しく開業した貸しボートなのだろう。


 湖を取り囲む山林の、一際小高い山の上部に、木々の隙間を縫って赤い鳥居が見え隠れする。湖に沿った国道から山頂の神社へと登る、細長い山道の入り口にも、道路を跨いで大きなコンクリートの鳥居が、厳かに構えられていた。


 山道の方へは曲がらず、そのまま国道を少し進んだ先に、過去に何度も通った、見慣れたドライブインの駐車場が見えてくる。


 湖や山で採れた幸をはじめ、食品や土産物が売られている店を中心に、いくつかの飲食店なども店を構えており、訪れる客も多い。


 広い駐車場の一角に車を止めると、喉が渇いたと言った店長が、飲み物を買いに店の方に歩いていった。


 駐車場の端っこに、天辺に東屋の建った展望台がある。歩幅の広い階段を少し登ると、湖畔を見下ろす絶景が広がった。


 日に焼けて色褪せた東屋の柱に、背中を預け、赤い夕日に照らされた木製のベンチに目を向ける。遠い記憶の片隅で、過ぎ去った日の俺と彼女が、ベンチに腰掛けて楽しげに笑い合っていた。


 この街を訪れた際に、最初に彼女を見かけて、話しかけた場所。学校でも言葉を交わしたことはあったのだが、本当に仲良くなれたのは、あの日の、ここでの偶然の出会いが全てだったと思う。


 国道を挟んだ向こう側の、並んだ住宅の屋根の上から、ここからも山頂の神社の赤い鳥居が、遠く木々の隙間から見え隠れしていた。


 山の斜面の木々に紛れて、並ぶ軒並み。いくつかは、新しい住宅も目につく。


 ここ数年の間に、いくらかは様変わりしているようだが、以前のように、どこか古めかしく長閑な雰囲気は、変わることがない。


 心揺らす思い出の漂うベンチに腰を下ろし、夕暮れに染まる湖を見つめ、軽く息を吐く。


 結局ウィラルヴァには、何も言わずにきた。隠すつもりは毛頭無いのだが、言えば、ついてきただろう。彼女と話すのは、できれば二人きりがいい。


 とはいえ彼女に会って、何をどう話せばいいのか……むしろ、どう話を切り出せばいいのかさえ、未だ心の中に靄がかかったように、不透明な不安が立ち込めていた。


 どうしてこうも、彼女との記憶が曖昧なのだろう。


 確かに俺にとってそれは、数十年前の記憶ではある。しかしこの世界に帰ってきてから、転移前の記憶というものは、まるで心の内のすぐ身近なところにしまってあったかのようにして、ごく自然に、思い出すことができた。バイトの仕事の手順など、最たるものだろう。以前の友達との距離感などは、未だに迷っている節もあるが…それはまた、別の問題だ。思い出そのものが失われてしまっているわけじゃない。


 彼女に会うことで、それを思い出せるという保証はないが…それでも、会ってみたい。それが、素直な気持ちだった。だが彼女と会って何をどうしたいのか、何を期待しているのか。


 それを思えば、胸の中にただ、モヤモヤとした気持ちだけが広がってゆく。


 買い物袋を片手に下げた店長が、車に戻ってきたのを見て、腰を上げて展望台の階段を降りてゆく。


 車のドアを開けて買い物袋を突っ込んだ店長が、俺の姿に気づいて、手にした缶コーヒーを一本、ほいっと投げてよこした。


「ゴチです。車を止める場所がないと思うんで、ここから歩いて行きます。店長どうします? なんなら、ここで待っててくれてもいいですけど」


「ついてくよ。どんな可愛い子か気になるしね」


「あはは。…ありがとうございます、ここまで付き合ってもらっちゃって」


「構わないよ。これから先、名実共に、運命共同体になるんだし。何かあったら、気軽に言ってね」


 どこまでも人の良いことを言ってくれる店長に感謝しつつ、国道を横切り、山の斜面の住宅街の細道を登ってゆく。


 道の左右に並ぶ、木造の古い軒並み。所々に、見覚えのない新居が建っている。脇道から飛び出してきた一匹の白い猫が、まるで道案内でもするかのようにして、少し先を歩いていった。


 神社の参道の方は参拝客も多いようだが、こちらは人通りもまばらだ。道端のお地蔵様の側の畑に、杖のようにして鍬を地面についたお爺さんが、余所者を見る懐疑的な目つきで、ジロリとこちらを睨んでいる。


 そのお爺さんだけが特別、愛想が悪いわけではない。すれ違う買い物帰りの主婦も、庭木の手入れをする麦わら帽子のおじさんも、店長がニッコリとして言った、こんにちはの一言に、返事を返すでもなく、興味もなさそうに視線を逸らした。


 妙に閉鎖的な反応だ。彼女と並んでこの辺りを歩いたときには、こんなふうに居心地の悪い思いはしなかったものだが。


 延々と続く登り坂に、店長がゼエゼエと息を切らしながらついてくる。


 竹林の中にポツンと佇む祠に、鬱蒼とした杉林。段々畑が広がった先に、隔離されたかのように並ぶ、長屋の列。遠い昔に、見慣れた風景だ。


 夕日の沈む山間から、一陣の風が吹き抜ける。ふと懐かしい匂いを感じた気がして、視線を上げる。漂う草花の匂い、森の匂い。あのとき彼女と二人、同じ匂いの中にいた。


 段々畑の傍から、端に水路の流れる砂利道に入る。木造の柵に囲まれた、長屋の列。そのほとんどの家は、彼女の親戚一同が住んでいるらしい。山頂にある神社の、神主の家系だと聞いたことがある。


 ふと、長屋の柵の近くの草むらに、見覚えのある黒い原付が、放置されてあるのに気がついた。


 もうずっと乗られていないらしい、錆びついた50CCのバイク。シートは色褪せて汚れに塗れていて、タイヤの軸には蔦が巻きついていた。


 頭の中で、錠か何かが外れたようにして、忘れていた記憶が流れ込んでくる。


 それは、あのとき、俺が乗っていた原付だ。転かしてしまったときについた傷の位置も、ナンバープレートも同じ。


 浮かぶ疑問とともに、胸の中がざわつく。


 これが、なんでここにあるのだろう。


 思い返せば、今では近所の友達の家に置きっ放しで、ほとんど使うことはなくなっている二台目の原付は、いつから乗るようになっただろうか。


 壊れた原付のシートに手を置いて、埃の積もったメーターを見つめる。


 ……思い出せない。思い出せないことに、不自然さを感じる。


 何かがおかしい。そもそもなぜ彼女のことを、これまで思い出すことがなかったのだろう。あれほどに側にいて、あれほどに愛し合っていたというのに……。


「大丈夫かい、理道君?」


 店長の声で、ハッと我に返る。


「すみません。ちょっと感傷に浸っちゃって」


 軽く苦笑し、長屋の方に歩く。


 砂利を踏む音を響かせ、山側の長屋の、五つ目の玄関の前で足を止める。

 いくつかの部屋から、子供の遊ぶ声が聞こえた。どこにでもある、一般の家庭の喧騒。


 もしかしたら、彼女の子供の声も混ざっているのかも知れない。…そんなことを思いながら、玄関の引き戸の曇り硝子を、軽くノックした。


「すいません、どなたかいらっしゃいますか」問いかけて、返事を待つ。


 しばらくすると、引き戸の向こうに人の気配がして、カラカラと音を立てて引き戸が開いた。


 出てきたのは、店長と同じくらいの歳に見える、夫婦らしい男女だ。


「はい。なんの御用でしょうか?」


 奥さんが少しだけニコリと微笑み、俺と店長の顔を見比べた。


 ……見覚えのない夫婦だ。ここが間違いなく、彼女の家だったと思うのだが。


「すみません。ちょっと、人を探してまして。名前は……えっと」


 と……そこに至ってようやく俺は、重大な矛盾に気がついた。


 彼女の、名前が、思い出せない。


「……理道君?」


 いきなり黙り込んだ俺を見て、店長が不思議がって顔を覗き込んでくる。


「店長……すいません。ちょっとだけ、任せていいですか?」


「え……?」


 呆然とする店長を残し、スマホを取り出して電話するそぶりをしてみせながら、夫婦にペコリとお辞儀をして、さっきの原付のところまで戻っていった。


 スマホをポッケに戻し、チラリと後ろを振り向く。店長が夫婦と話をしているのを確認すると、辺りに人がいないか確認したのち、左手首のロードリングに触れた。


 ……これは、明らかにおかしい。彼女との思い出どころか、名前までも忘れてしまっているなんて。


 異世界での、長い戦いの経験が、直感的に告げる。こんなことがあり得るわけがないと。


「ソゥルイーター、憑依融合」


 精神攻撃の能力を持つ、六星の闇魔獣、ソゥルイーターを取り出すと、自身の頭に憑依融合させた。


 いくつかある融合方法の中で、唯一、見た目を変えずに融合できる技術、憑依融合。


 身体能力にこそ大きな変化をもたらすことはないが、シィルスティングの持つ特殊な能力だけを使用するには、最も適した召喚方法だ。


 目を伏せ、意識を闇魔獣に集中し、記憶を探る。


 精神を操作する能力を使い、自身の記憶の中へ。彼女との思い出を、取り出すように命じる。同時に、俺の身体に内在する神力が、徐々に消耗されていった。


 過去の彼女との思い出。その様々な場面が、次々と移り変わってゆく。覚えている記憶。曖昧だった記憶。そして、忘れてしまった記憶。


 彼女の優しげな笑顔、柔らかな唇の感触、抱きしめあった、温かな身体。弾けるような笑い声に、俺の名を呼ぶ涼やかな声。


 いくつもの記憶が引き出されてゆく中……不意に、ソゥルイーターと同調した意識が、何かに跳ね返った。


 心の中にある、目に見えない壁のような何かが、行く手を塞ぎ、それ以上深く進めなくなる。


 強引に、彼女の名を求めて、突破する。途端、バチン!と弾かれるように、憑依融合が解除された。


 ハッと目を開ける。解除されたソゥルイーターが、一枚の銀のカードに戻り、リングの中に吸い込まれていった。


 ……記憶に、何かしらの細工がされていたことを、確信する。彼女のことを思い出さないように。記憶に壁を作るように、蓋をするようにして、結界のような何かが、思い出すことを阻んでいたのだと。


 それは、誰が、いつ、何の目的で……?


 取り戻した彼女の名前を、二度と奪われないよう、心の中で反芻させながら、彼女との思い出を辿る。


 未だにいくつか、思い出せないことがあるみたいだ。彼女との最後がどうだったのか。どうやって別れたのか。昔乗っていた原付だけが、ここにあるのは何故なのか。


 俺はいつ、記憶を封印させられていたのか。


 それが、転移前であることだけは、間違いがない。精神的な攻撃にも、記憶の封印にも、まるで抵抗力を持っていなかった、あの頃に。


水瀬みなせ……遥華はるか」彼女の名前を口にする。


 止まっていた彼女との時間が、ようやく歯車を嚙み合わせ、回り始めた気がした。

 

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