第9話 味噌汁の味を覚えられました
全く新しいことを始めたときに、それまでの生活と違った刺激に、変に充実感を感じて、スッキリとした寝覚めの朝を迎えるのも、ありがちなことだと思う。
異世界にいた頃の俺は、剣と魔法と、戦争の世界の真っ只中にいて、こっちの世界とは掛け離れた生活を送っていたけれど、今ではあの世界での生活の方が、日本での生活より遥かに長い時間になってしまっていて、この世界での普通の日常、というものが、ものすごく貴重なものに思えてしまう。
目覚めた視線の先に、同じベッドの中でスヤスヤと寝息を立てるウィラルヴァの顔が、目の前にあるということだけは、かつての日常から程遠いものではあるが。
台所から聞こえる母が朝食を作る音も、部屋の時計がカチカチと時間を刻む音も、近くの国道を走る車の音も、慣れ親しんだ、いつもの日常そのものの情緒だ。
静かに起き上がり、スマホのアラームを止める。ウィラルヴァが小さく身じろぎし、微かに寝息を乱したが、そのまま何事もなく、スヤスヤと幸せそうな寝顔を浮かべた。
……この状況にあって、よく間違いが起こらないものだと思う。
ウィラルヴァからしてみればそれは、間違いなどではなく大正解な事柄なのだろうが、それでも無理に寝込みを襲うなどして来なかったし、俺も俺で、ウィラルヴァが運命付けられた相手なのだと分かってはいるのだが、自分から何かややこしいことをしようなどとは、不思議と思うことはなかった。
まぁ、全くないのかと言われれば、言葉に詰まってはしまうだろうが。
どの道これから先、永久の時間を共に過ごしてゆくのだから、急ぐ必要もないんだというのも、正直ある。
だけど本音のほとんどを占めているものは、創造主としての俺に寄せる、ウィラルヴァの果てしない期待に、上手く応えてやれないんじゃないかという、不安。その部分が、とてつもなく重く、胸の内に伸し掛かっていたのだ。
こいつはいつでも、俺を待ち続けて来たのだろう。この世界とは別の、ずっとずっと離れた世界で。果てしない時を、ただ静かに俺を見守りながら。
この地球で、何度も生まれ変わりながら、想像や、もしくは小説や漫画などという形で、理を形作りながら、少しずつ構築されていった世界。
その世界観を、この星とは遠く離れた星で、創造し、管理し、より良い世界へと導くために、ウィラルヴァは独り、試行錯誤を繰り返していた。
世界が完成したときに、創造主である俺と、結ばれることを夢見ながら。
それがどれだけ根気のいる作業だったか、どれだけの時間を必要としたのか、俺の想像なんかでは及ぶこともできない。
今生での俺は、あの世界に、特に深く、直接関わってきた。今では世界も安定し、正規の星として、この宇宙のどこかに存在している。
いずれはあの世界からも、俺のように、別の世界の創造主となる者も、生まれてきてくれるだろう。ウィラルヴァが言うには、そうなるまでには、まだまだ時間が必要だというが。
──ウィラルヴァを起こしてしまわないよう気をつけながら、廊下に出て洗面所に向かう。
顔を洗って歯磨きを終えると、母の気配のする台所に向かい、流し台で洗い物をする母の後ろ姿を、横目で見やりながら、棚からマグカップを取り出すと、インスタントコーヒーの粉を多めに入れて、テーブルの上の電気ケトルからコポコポとお湯を注いだ。
「おはよう」
角砂糖を二つほどマグカップの中に放り込み、スプーンでクルクル掻き混ぜながら、洗い物をする母の背中に呼びかける。
「あら珍しい。おはようなんて、何年振りに聞いたかしら」
振り返った母が、ニコリと笑顔を浮かべた。
久し振りに見た母の笑顔に、どことなく気まずさを感じてしまう。
「大袈裟な。朝飯、何作ったの?」熱いコーヒーを啜る。
「お味噌汁くらいしか作ってないわよ。貴方、いつも食べないじゃないの」
そうだったっけ。……いや、確かに。そうだった気がする。
朝飯は……というか夕食も含めて、家で食べることがほとんどなかった。いつも外で済ませて来たり、コンビニで弁当を買って来たり。
それでも家に帰れば、必ず、俺の分の夕食が用意されてあった。たまに、夜中のゲームの夜食として有り難く頂いたりはしていたけれど。ほとんどの場合が、食べずに放置されたのち、翌朝の母の朝食になったりしていたのだろう。
考えてみれば……転移前の俺は、相当に家族のことを蔑ろにしていたように思う。一緒に母子家庭に育った、三つ年上の姉は、今ではもう結婚して家を出てしまっていて、母と二人きりの生活だったというのに。
「納豆だったらあるわよ。…目玉焼きでも作りましょうか?」
「いいよ。それだけで」
お椀に味噌汁を注ぎ、茶碗にご飯をよそうと、冷蔵庫から取り出した納豆を1パックと一緒に、トレイに乗せる。
「……何かあったの? この間から、おかしいわよ、貴方?」
怪訝そうに眉を潜ませた母を尻目に、
「なんもないよ。……今日はちょっと、出掛けるから。晩飯はいらないかも」と言い残し、母の淹れてくれた温かいお茶も、マグカップと一緒にトレイに乗せると、台所をでて、部屋へと戻った。
部屋に戻ると、ちょうど目が覚めたらしいウィラルヴァが、ベッドの上で起き上がり、大きく伸びをしているところだった。
「朝飯貰ってきた。きっちり半分こだからな。食い足りない分は、あとで弁当でも買うよ」
ベッドの前の背の低いテーブルに、カチャリとトレイを置いて、忘れずに部屋の鍵を閉める。
「いつになったら、母上に紹介してもらえるのだ。コソコソとするのは、性に合わないのだが?」薄着のネグリジェ姿で、頰を膨らませて不満を漏らす。
「どう説明しろってんだよ。本当のこと話したって、信じてくれるわけないだろ」
「全てをありのまま話すこともないだろう。嘘も方便という言葉もある」ノソノソとベッドから這い出て、テーブルの前にちょこんと腰を下ろす。露出した白い肌の覗く膝元が、窓から差し込む朝日に、眩しく照らし出されていた。
「……お前の身元は、断罪者の本部が用意してくれるんだっけ」
「うむ。国内でも外国でも、好きなところに籍を置くことができるぞ。どこがいい? アメリカか? ヨーロッパか? 中国や韓国など、近い国でも良いぞ」
器用に箸を使ってパクリと白米を頬張り、味噌汁の入ったお椀を手に取って、ずずっと啜った。そしてやおらお椀の中の味噌汁にジッと視線を落とし、
「これがシュウイチの慣れ親しんだ味噌汁の味か。完璧にコピーせねばな」
「覚えるのは勝手だけど……魔法で作るなんてやめてくれよ? それじゃ味気ないからさ」
テーブルの向かいに腰を下ろしながら苦笑いすると、ウィラルヴァはムッとしたように唇を尖らせた。
「そのくらいの趣は弁えておる。家庭の温もりというものは、手間暇かけて作った、気持ちの込もった料理にこそ、宿るものだからな」と言って、自慢気にフフンとドヤ顔を見せた。
そういえば向こうの世界で、こいつの母親代わりだったセラお姉さんが、似たようなことを言っていた気がする。
受け売りじゃないかよ。自分の言葉のように言いやがって……まぁ、それをちゃんと覚えているあたり、ちゃんと自分で実感した上での言葉なんだろうけれど。
「……今日は、断罪者の事務所に行くんだよな。場所はちゃんと分かってるのか?」
問いかけるとウィラルヴァは、付け合わせた納豆のパックを手に取って、不思議そうに縦から横から観察しながら、
「しっかり記憶しておるぞ。シズカとセブラスは、現地集合だ。お前も今日はバイトは休みなのだろう。最後まで付き合ってもらうからな」パカっと納豆のパックを開ける。
店長は今日は、昼から夜間にかけてのシフトに入っていたと思う。ということは、車で送り迎えしてもらうことができないから、電車やバスなど、公共機関を使っての移動になるわけだ。
まぁ、一抹の不安は残る。断罪者の事務所である、神坂探偵事務所というところは、都内にあるため、片道一時間くらいはかけて移動することになる。
田舎者感丸出しで、変に注目を集めなければいいが。ウィラルヴァはともかく、セブラスとかいうあの虎男なんかは、問題を引き起こしてナンボとでも言わんばかりのキャラだったし。
なんとなく嫌な予感を感じ取り、ふうっと小さくため息を吐いた。
と、
「し……シュウイチ。なんだこれは! ネバネバして変な臭いがする。腐っているぞ! む……だが、美味い!」
言われて、何気なくテーブルの向こうに目を向ける。
納豆でべちゃべちゃの顔になったウィラルヴァが、そこにいた。
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