私の執事の言うことにゃ

菅井群青

本編

 立体駐車場にヒールの足音が響く。夜も遅いこの時間帯は人通りも少ない。震える体を自分の両手で抱え込み、黒塗りの車へと乗り込む。ドアが閉められる音が聞こえて一気に現実味を増して目を瞑る。政略結婚相手の情事の現場を目撃するなんて、自分の人生で最初で最後だろう。そうであってほしい……。


 政略結婚相手である婚約者を慰労せよと母親に言いつけられ、夜食を持って会社を訪れた。いつも残業ばかりしているからと聞いてきたが、少しのようだ。艶かしい女の声を頭から振り払うべくコツンとおでこに拳を当てる。


 運転席に乗り込んできた黒のスーツの青年は幼い頃からの五つ年上の幼馴染であり、私の執事の堅誠けんせいだ。彼の家系は代々うちの一族に仕える運命にある。もちろん彼も例外ではない。


「真白お嬢様……大丈夫でしょうか?」


 ルームミラー越しに真白の様子を伺う。彼もまたその現場に居合わせた一人だ。真白は優しく微笑んだ。華麗に微笑むことなど容易い、そういう世界で生きてきたのだ。


「出してちょうだい」


「…………」


 堅誠はなぜか動かない。どうしたのか。


「堅誠……?」


 運転席のドアが開き、すぐに後部座席のドアが開く。見下ろす顔を見て真白は体を震わせる。彼はどうしてこんなにも怒っているのか。


「失礼いたします」


「え? あ……んー?!」


 そのまま後部座席に真白を押し倒し器用にドアを閉める。そのまま真白の首の後ろに手を入れ唇を奪う。首に当たる白い手袋の感触や、胸元に押し当てられたスーツに縫い付けられた家紋に堅誠に押し倒されキスされている事実をまざまざと知らされる。


「真白……」


 真白の体が跳ねる。もう随分とこの呼ばれ方はされていない。いつのまにか呼び名が変わり……そして彼は私の執事になった。もう過去の話だが、堅誠は私の初恋だ。流れる茶色い髪も、切れ長で美しい横顔も──今でも立ち居振る舞いが王子のようで大抵の道行く人は振り返る。真白も魅了された一人だった。


「君のそばで君を守るために執事になったのに、このザマだよ。あんな男に嫁ぐなんて……」


 真白の頰を優しく撫でながらあの男の事を思い出し眉間にしわを寄せる。


「だけど、僕は執事だからそれを止めることはできないが……」


 真白の耳元に口を寄せると甘い声が降り注ぐ。


「……慰めることは、執事の役目だ──」


 背骨が反り電気が走ったように真白の体はゾクゾクする。再開した口付けは先程よりも激しく真白の口の中を熱い生き物が蠢く。真白の舌をすくい上げると、逃がさないと言わんばかりに食らいつく。真白は苦しいはずなのに、このまま二人の唇からくっついてしまえばいいと、ぼんやりした頭で考えていた。

 少し離して指で真白の下唇を自らの唇で優しくなぞる。ふやけた顔の真白に満足したように微笑むと堅誠はゴクリと生唾を飲んだ。耳朶をわざと舌を出し舐めると真白が息を飲む。そのまま首の横に頭を埋めた。


 いつまでそうしていただろう。堅誠のシャンプーの香りが心地よい……。堅誠は真白の体を起こし、左腕で支えるとそのまま右手は頰に添えた。優しい温もりが真白の体を包んでいる。目の前にある堅誠の瞳は揺らめき、それはまさに欲情の色を含んだ雄の目だ。


「堅、誠……」


「お嬢様……失礼いたしました」


 堅誠はゆっくりと出ていくと何事もなかったかのように運転席に向かい銀縁の眼鏡をかけた。


「出発いたします、シートベルトを……」


「ええ、お願い」


 エンジンのかかる音で少し現実へと戻される。だが、真白はもう先程社内で起きた出来事などすっかり忘れていた。

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