第55話


 学校を飛び出た俺は何とかバイトの時間に間に合った。

 大急ぎで着替えて店内に入る。


「おはようございます」


 俺がそう言うといつもならモモさんの返事が返ってくるはずだが、今日はそれがなかった。

 店内には客の姿はなく、カウンターの内側から見た限りではモモさんの姿も見えない。


「あれ……? モモさーん?」


 俺がそう呼ぶと、カウンターの向こう側から腕が一本生えてきた。

 予想外の出来事に少し驚いたが、すぐにそれがモモさんだと気付く。


「何してんですか?」


 カウンターから覗き込むように顔を出すと、顔を突っ伏した状態のモモさんがそこには居た。


「頭痛いー」


 情けない声を出しながらモモさんは顔を上げる。

 明らかに疲れた表情を浮かべている。


「どうしたんです? 体調でも悪いんですか?」


 俺はモモさんの隣に移動しながら様子を確かめる。

 この時期だからカビの生えたパンでも食べてお腹でも壊したのか、と考えていたらモモさんが重い口を開く。


「呑み過ぎたー……頭いたいー」


 そうとう情けない姿だった。

 俺は少し呆れながら冷たい水をコップに注いで差し出す。


「ありがとー」


 モモさんは力の入ってない手でそれを受け取ると飲み干した。


「というか、夕方なんですけど今」

「朝まで飲んでたから……」


 その状態で店を開く姿勢を賞賛すべきか、店があるのに朝まで飲む愚行を非難すべきか。


「よくそれで仕事になりましたね」

「ほら、アタシは客がいるとやる気出るから」


 そういう問題だろうか。

 ともかく、今はお客さんがいないためやる気が無い状態という訳だ。


「なんでそんな時間まで飲んでたんですか?」

「もうすぐ七夕祭りあんじゃん? その関係……」


 それを聞いて、俺は店先に貼られたポスターに視線を向ける。

 毎年この地域で行われている風物詩のそれは、それなりに賑わいを見せる。

 ちょっとした屋台も出たり昼間はライブのようなモノもあるらしいが、メインとなるのは陽が落ちてから行われる灯篭流しだ。


 お盆と勘違いしてないか? と思われるかもしれないが、これには意味があるらしい。

 街中を流れる川を、灯篭の星を流して天の川に見立てるとのことだ。


 うちの学校からも、吹奏楽部なんかが昼間に演奏するらしいが、学生の間では夏祭りほどのインパクトは無いのか盛り上がりに欠ける。


「モモさんは何か運営とか関係あるんですか?」

「いやー、特になんもないけど、宣伝に協力してくれってことでさー」


 モモさんはのそのそとした動きで立ち上がるとコップに水を注いで二杯目を飲み干す。

 すると、何かに気付いたのか意味深な笑みを浮かべる。


「あ、ナルキさー。その日はなんか予定ある?」


 俺はそれを聞いて少し考えた。

 残念なことにその日に予定は無い。

 いや、ほんと悲しいことに無い。

 せっかくの日だというのに無い。


「無いですね」


 それを聞いたモモさんが何か記入された用紙を取り出した。


「なら、悪いんだけどさ。ボランティアやってくんない?」


 それを受け取った俺は無いように目を通す。

 七夕祭りボランティア募集。内容、会場設営等。


「人数があんまり集まってないらしくてさー」

「あー、大変ですねー」


 俺がやる気なさげな声を返すとモモさんが悪い笑みを浮かべて言う。


「報酬出すよ」

「ボランティアの意味知ってます?」


 自発的な奉仕精神の欠片も無い発言に思わずツッコミを入れる。


「アタシもあれだけご馳走になったからには一人も紹介しない訳にいかなくてね」

「完全にアウトだ。組織的な犯行だ」


 とはいえ、向こうも切実なんだと思う。

 だったらバイトを雇えとも思うが、今更そういう訳にもいかないのだろう。


 そこらへんが気に入らないが、モモさんの頼みならやぶさかでは無い。

 7月7日という特別な日を寂しく過ごすよりかはマシだろう。


「いいですよ。モモさんのお願いですし」

「あー、やっぱモテる男は違うわ!」

「いや、ホメても何も出ませんし」

「アタシは出すよ。はい、コーヒー券」


 手渡された賄賂はこの店のブレンドコーヒー十杯分の価値があった。

 俺はありがたくそれを受け取るとボランティアの募集用紙に名前と連絡先を記入する。


 そんな事をしていた時だった。

 入り口の扉が開かれ、店内にはお客の入店を告げるベルが鳴る。


 先ほどまでぐでーっとしていたモモさんは即座にいつもの調子を取り戻す。

 俺はその変わり身の早さに苦笑しながらお客を出迎える。


「いらっしゃいませ――――って、壱岐じゃないか」


 それはよく知る顔だった。

 いつもの怠そうな顔をした壱岐は、俺の顔を見ると何かを取り出す。


「成嶋、俺のカバンに混ざってた」


 壱岐から手渡されたそれは学生証だった。

 今日の帰り際にぶつかった時に間違って入り込んだのだろう。


「ああ、わざわざ悪いな」

「近くまで来たからな」


 そう言って壱岐は店を後にしようとする。

 俺はそれを慌てて引き止めた。


「まてまて、この雨の中でわざわざ来てくれた奴をそのまま帰せるか!」


 学生証には、生年月日などの個人情報が記載されているため紛失した場合、その後の対応は結構面倒だ。

 その分の礼はしなければならない。


「奢るから、コーヒーでも飲んでいけ」

「いや、俺は別に」

「遠慮するな」


 俺がそう言うと壱岐は観念したのか店内に戻った。

 カウンターに座った壱岐はいつものブレンドコーヒーを注文する。

 すると、カウンターに置かれていたボランティア募集の用紙を見つけた。


「成嶋、ボランティアするのか?」

「ああ、暇だったし、モモさんにも頼まれたし」


 壱岐はそれをじっくりと読むとカウンターの上に戻した。

 俺は、意地の悪い顔を浮かべて聞く。


「お前もやるか?」

「俺がそんな殊勝な奴に見えるか?」


 自嘲するように言った壱岐に俺は同意の言葉をかけて自分の仕事に戻る。


「7月7日か……」


 去り際、壱岐が何かを呟いたように聞こえたが、気にせず店の掃除を始めた。

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