第八章 ペルソナ少女は放っておけない
第45話
人の口に戸は立てられない。
人の口から吐き出される情報は、扉を閉めるように塞ぐことは出来ないという意味のことわざだ。
人間、何かを知ると誰かに知らせたくなるのはなぜだろうか。
情報の共有化は、社会を構成するうえで重要な要素であり、人間が社会性の動物である以上は仕方のないことなのか。
見方を変えてみよう。
人は知らせることを尊ぶのではなく、知ることを求めるのではないか。
知ることへの際限のない欲求。
いや、知らないことに対する恐怖を埋めるために、人は知ることを求めて、知りたいからこそ誰かに知らせる。
無知とは恐怖であり、知らないことは孤独である。
なら、身近な人間の秘密こそが最も恐ろしいのではないだろうか。
翌日。
梅雨前線の影響を受け、その日は朝から雨が降っていた。
雨はあまり好きではない。
陰鬱とした空気、纏わりつく湿気、買い置きのパンはカビて、スナック菓子は湿気る。
制服を濡らせば色々と面倒なのもいただけない。
とはいえ、梅雨の雨が重要な意味を持っていることは十分理解している。
だから、文句を抱くことはすれど吐き出すことは無い。
まぁ、どちらにしろ憂鬱な気分になるのは変わらない。
その日、教室の扉を開け放った時に俺の気分が落ち込んだのは、梅雨のせいということにしておく。
「…………」
誰にも迎えられない無言の登校。
今日に限っては空気を読まないアキトでさえ、空気を読んで待ちの姿勢をとっている。
カバンを机の上に放り投げ、席に座る。
すると、その様子を窺っていたマエが近づいて来た。
マエはいつもの気楽な雰囲気とは違った。
空いている近くの席にも座らず、俺の横に立ったまま話しかけてくる。
「ナルくん、おはよ」
「おう、おはよ」
どこか、元気のないその声、いつもと違い屈託のありそうな笑顔が少し気になった。
「どうかしたか?」
どこか迷っているようなそぶりを見せたので、俺の方から訊ねる。
「あー、うん。昨日、ミクから聞いたんだけど……」
それを聞いて、俺は昨日の夜に三倉からかかってきた電話の内容を思い出す。
二上との共犯関係成立後の夜だ。
連絡先を交換してはいたが、あまりかかってくる事のない番号からだったので少し印象的だった。
電話の内容は簡単だ。
“まさか、本当に二上と付き合っているのか”。
情報の拡散スピードに驚愕した。噂が広まるにしても、こんなに早く、そして身近な人間ですら信じそうになるくらい具体的で説得力のある内容になっているとは。
二上とのあれを目撃したのは二年生だ。しかし、一晩待つことなく一年生に、そしてその時の状況が詳細に伝わっているとは思わなかった。
当然俺は否定した。
そんなわけない、と。
当然、その場では三倉はそれ以上の追求はしてこなかったが、今度はアキトを使って探りを入れてきたのだ。
俺は、すこし楽観的に考えすぎていたのかも知れない。
もしこのまま、昨日の打ち合わせ通りに事を進めると、割と取り返しのつかないことになる様な気がしてきた。
もう一度、二上と話し合う必要があるかも知れない。
こんなことなら昨日のうちに連絡先を聞いておけばよかった。
ともかく、今は目の前のことに集中しよう。
俺は、不安そうに話すマエに、なるべく普段の通りの表情を浮かべて話しかける。
「ただの噂だ。そんなわけないだろ」
俺の言葉に一瞬だけ迷うような素振りを見せたマエだったが、すぐに普段通りの笑顔を浮かべながら頷く。
「ナルくんがそう言うなら、そうだよね!」
俺はその言葉にマエからの信頼の高さを感じた。
やはり、普段から誠実に対応していれば友達は分かってくれるのだ。
その時だった。
「おはようございます、“鳴希くん”」
二上双葉は俺が考え得る最悪のタイミングで話しかけてきた。
さらに、二上の発したその言葉はクラス内の空気を一瞬にして凍結させる。
「なる、き……くん?」
マエは、その大きな瞳をパチクリさせながら、消え入りそうな声で言う。
俺はどうすべきか逡巡していたが、二上が一瞬だけ目を見開きそれを促してきた。
ここで、昨日決定した今後の方針を思い返す。
俺たちは付き合う寸前の二人を演じる。そのためには、あえて積極的なアプローチをしているように装う。
これは、今まさに距離を詰めようとしていると見せかけて、『あ、まだこの段階なんだ。ならまだ付き合ってないね』と誤認させる作戦だ。
この場合、名前呼びで距離感縮まりはじめましたアピールなのだが、今ここでするのはマズいのではないか?
だが、ごねると後が面倒くさそうだ。でも、言う通りにするとそれはそれで厄介だ。
しかし、もう一度俺にだけわかるように向けられたその視線を受けて、意を決した。
「ああ、おはよう。……双葉」
静まり返っていた教室がにわかに騒々しくなった。
会話の内容は聞こえては来ないが、その中身は察しが付く。
俺は、嫌な汗を背中に流しながらちらりとマエの方を向いた。
「――――――」
マエは、目の前で起こった出来事に理解が追いついていないのか呆けたような顔をしている。
俺は、頭が痛くなりながらも目線で二上に訴えかける。
周りを見ろ、空気よめ。
それは全く伝わっていないことは二上の発する次の言葉で理解できた。
「鳴希くん、“昨日”聞き忘れたことがありまして」
あえて、わざわざ昨日という単語を使用するこの女の思考が理解できなかった。
「何だよ……?」
俺は、なるべく何でもない風を装って言葉を返す。
しかし、そんな小手先の努力は無残にも吹き飛ばされる。
「はい、連絡先を教えていただきたいなと」
もう家に帰りたかった。
この二上双葉という女、文武両道の完璧美少女ではあるがある一点だけ欠落している要素があるのを忘れていた。
漫画でもそうであったが、恋愛関係における機微を理解していない。
知識も理屈もあるくせに、肝心なところでわかっていない。空気が読めない。
他人を慈しんだり、献身的に尽くすことは出来る。
なのに、ことが色恋に移れば途端にポンコツ化する。
漫画では、まぁよくある設定だなくらいに思っていたが、こうして接してみて、昨日のあれを目撃してわかったことがある。
この女、割と真面目に他人を素で下に見ている。
見下している、という訳ではない。
ただ、自分が他人より優れているという事を完全に理解しているし、事実その通りなのだが、それがもたらす弊害が恋愛方面に出ている。
二上が他人の心を理解できるのは、施しの精神から何を求められているのかを理解できるからであり、恋愛における対等でありながらも不条理な関係においては彼女の気配りスキルは発揮されない。
その推測は、この短いやり取りで俺の中で確信へ変わった。
俺は、いますぐこの場からこのバカを連れだして説教でもしてやるべきかと考えた。
しかし、この衆人環視の中でそんなことをすれば余計に火に油を注ぐことになる。
「ほら」
俺は、とりあえずこの場は言う通りにしてスマホを手渡した。
「はい、では」
二上は、自分のスマホに読み込むと俺のスマホを返却しようとする。
しかし、その時だった。
「あ――――」
二上の手が俺の右手に触れると、彼女は顔を赤くして咄嗟に手を自分の胸に引きよせた。
当然、俺のスマホは机の上に落ちる。
「す、すみません!」
触れてしまった右手を左手で抑えながら頬を赤く染める。その仕草は、バカな高校生男子を一撃で仕留めるだけの威力を持っている。
だが、俺はこの女がそれをわざとやったことに気付いている。
目が全然、笑ってないのだ。
というか、スマホ落とされてキレそうなんだが、ここは我慢だ。
「ああ、大丈夫だ気にするな」
大丈夫だけど気にはしろ。
「はい、ありがとうございます」
ありがとうじゃなくて謝れ。
などと思っていると、視界の端の人影に気が付いた。
顔をそちらに向けると、教室の入り口付近に久遠が立っているのがわかる。
俺は、久遠がどれくらいそうしていたのかわからなかった。
しかし、教室に掛けられた時計の針から察するにそれほど短い時間ではないように思えた。
そして次の瞬間に始業を告げるチャイムが鳴る。
「あ、もうこんな時間ですね。では、また後で」
そう言うと二上は自分の席に戻っていった。
久遠も俺の後ろを無言で通り抜け、横に居たはずのマエもいつの間にか自席に座っていた。
「……あぁ、頭痛い」
しかし、そうは言っていられない。
担任がやってきて朝のホームルームが始まった教室。
俺は、先ほど連絡先を交換した二上にメッセージを送る。
あとで話がある。昼休みにでも人気のないところで。
入力して送信ボタンを押す。
すると、同時に静かな教室内に着信音が鳴り響いた。
「だれだー? 電源切るか、マナーモードにしとけー」
スマホの着信音が鳴ること自体は珍しいことではない。
それは担任のこなれた対応からもわかる。
「すみません」
しかし、そのスマホの持ち主は珍しくないこと無かった。
二上がそう申告すると、一瞬だけ教室がざわつき担任の教師も動きが止まる。
「き、気を付けろー」
注意を受けた二上は申し訳なさそうにした後、俺の方に顔を振り向けて少し怒ったような表情を見せた。
この女、わざとやりやがった。
最悪なことに二上の席は教室の最前列、廊下側から二番目。
つまり、教室の真ん中で最後尾の俺の席との間には多数のクラスメイトがおり、二上のその行動はばっちり彼らに観測されていた。
二上のそのあざとい表情を見たクラスメイトが一斉に振り返ってこちらを向いた。
俺は、顔を伏せて寝たふりをする。
「勘弁してくれ……」
もう帰りたい。
俺は、昼休みに二上に浴びせる罵詈雑言を考えながら肩身の狭い時間を過ごした。
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