第41話


 パンはバターを塗った面を下にして落ちる。


 最悪だな。

 パンを落とすだけでも割とショックなのに、よりにもよってバターだ。

 落ちたのが床なら拭き掃除も楽だが、これがカーペットだと目も当てられない。

 もしもジャムまで塗っていたらと思うと恐怖でしかない。


 つまり、何が言いたいかと言うと“悪いことが起こる可能性のある場合、それは実際に起こってしまう”という事だ。


 もちろん、このパンの話はただのジョークだが、このジョークの由来は無視できない経験則からきている。


 結局、どうすればいいのか?

 床に落ちる前につかみ取るしかない。



 放課後。

 なんとか今日一日をやり過ごした。

 昼からの教室内は今朝ほどの様相では無く、比較的に穏やかだった。


 もっとも、廊下を一歩出れば相変わらずの注目度だ。

 正直、おれも芸能人みたいに変装でもするべきかと検討したが、目立つだけだと諦めた。


 ともかく、ようやく待ちに待った放課後だ。

 さっさと帰ってゆっくりしたい。


 そう思って席を立とうとしたところで呼び止められる。


「ナルくん……」


 マエが恥ずかしそうに体を縮めてもじもじしながら俺に話しかけてくる。

 横に立った三倉がその背中を叩くと、マエは言葉を続ける。


「ちょっと、話いいかな?」


 なんとなく話しにくそうな雰囲気を感じる。


「中庭でも行くか?」


 マエは小さく頷くと三倉の袖を引っ張った。

 三倉は仕方なさそうにため息をつくと俺を見て頷いた。


 俺たちはそのまま会話も無く中庭まで移動する。

 途中、やはり視線を感じたが三倉が一緒なのもあって誤解を招くようなことにはなっていないと思う。


 中庭に到着すると周囲に人の姿はなかった。

 放課後ともなれば、ほとんどの生徒は部活などで、特別棟などの教室や部室に集まるからだ。


「ナルくん、その……」


 こちらの様子をうかがいながらマエが言葉を紡ぐ。

 俺はそれをただ見守った。


「ゴメン! アタシのせいで変なことになっちゃって!」


 それは予想通りの言葉だった。


「アタシが家にまで押しかけちゃったから、なんかナルくんが二股とか三股とか言われちゃって……」


 マエの声はどんどん小さく消え入りそうになっていく。俺は、マエが何を考えているのか、なんとなくわかる。


「だから、アタシ謝りたくて……。けど、こんなに遅くなっちゃって。さっきも無視しちゃったし」


 その声は少し震えているように聞こえた。

 だから、俺は言う。


「べつにいいんじゃね?」


 それを聞いたマエがはっとした顔で俺の目を見た。


「俺は何も気にしてないよ」


 マエの瞳を見つめながら笑みを浮かべてみせる。


「だって、三股だよ……!? ナルくんはそんな人じゃないのに……」


 マエは、自分が悪く言われることよりも俺が悪く言われていることを気にしている。こんなに思い詰めていた。

 なら、俺に出来ることは、やるべきことは一つだ。


「むしろ光栄だ。マエとそういう噂になったって聞いて満更でもなかった」


 マエの隣に立つ三倉が顔を背けた。


「ホントに……?」

「マジもマジだよ」


 すると、マエは力が抜けたのかその場にしゃがみ込んでしまった。

 三倉が心配そうに肩に触れたが、マエがそれを制した。


「よかった……。どうしようかと思ってた……」

「だから言ったじゃん、心配し過ぎだって」


 ようやく、マエの顔に笑顔が戻ったのがわかった。


「俺はそんなの気にしないって。俺が気にするのはクレープ屋の営業時間だけだ」


 それを聞いた二人が吹き出した。


「もう、ナルくんってば。今めっちゃシリアスだったのに……」

「マエにそういうのは似合わねーよ」

「それわかる」

「もー、ミクまでー」


 そして、マエがようやく立ち上がる。

 その姿は、先ほどまでの怯えたようなモノではなく、いつもの明るいマエだった。


「元気でたか?」

「うん」

「なら、パンケーキ食い行くか?」


 俺がそう言うとマエの隣に立つ三倉がその背中を押す。

 しかし、マエは首を振った。


「ううん。今日はいい! どうせなら、落ち着いて食べたいもん!」

「そうか。なら、夏休みにでも行くか」


 俺がそう言うと、マエは少し迷うような素振りをする。


「あー、そうなっちゃうよねー」

「なら、やっぱ今日にするか?」


 だが、マエはその提案には乗らない。


「ううん、待つよ。待ってるから」


 そう言うとマエは三倉と共に中庭を後にする。

 俺はその後ろ姿を黙って見送る。すると、途中でマエが一人で引き返してきた。

 三倉と俺はその姿を不思議そうに眺める。


 小走りで俺の前に来たマエが、ゆっくりと口を開く。

 瞬間、中庭に風が吹き込んできた。

 風音は、特別棟から聞こえてくる吹奏楽の演奏も、グラウンドから聞こえてくる運動部の掛け声も消し去り、マエの発する小さな声だけを俺の耳に届けた。


「アタシも、満更でもなかったよ」


 そして、マエはそのまま振り返ると離れて待つ三倉の方へ駆け寄っていく。

 俺は、しばらく思考が止まり頭に血が上る様な感覚を覚えた。


 そして、ようやく絞り出すように言う。


「反則だろ……」


 俺は、しばらく中庭の芝生に座って頭を冷やした。

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