空の向こうの世界より

番外編1話 死神と少女

 噂があった。世界のどこかに、死者と生者をつなぐ死神がいると。彼らは鎌ではなく手紙を持ってきては、それで空を超えるのだ、と。

 日本の海辺の片田舎。潮騒と海鮮丼くらいしか取り柄のない街にも、その噂はある。

 街を一望できる岬の突端で、彼女は祈っていた。どうかあの切手が、本物であってくれたなら。

 足音に振り向くと、そこには人がいた。御伽噺の死神とは似つかないほどに柔らかな表情で、鎌の代わりにリュックを背負い、ローブの代わりに真っ黒なスーツを着た銀髪の青年だった。

「一通につき寿命一年です。僕が責任を持って、あなたの言葉を空に届けます。お相手から返事が来るかはわかりません。それでもわければ、どうぞ。この死神郵便局の切手を舐めてください」

 古びた外国の風景が印刷された切手だった。震える手で、彼女はそれを受け取る。

 死神と名乗る青年は、少し遠くを見つめていた。



 銀波と磯の香りに包まれて、シオンは船を漕いでいた。ここ数日、移動に時間を費やしすぎてうまく眠れていなかったせいで、片道三十分のフェリーの中でついに限界を超える睡魔に襲われたのだ。

 さっきまで読んでいた小説のおかげで、夢の中にはライ麦畑が広がっている。授業中の居眠りが心地よいように、仕事前の一眠りは快適だった。

 だがそれも、唸る汽笛に邪魔をされる。目を開けると、窓の外に港があった。何十艇かの漁船と、すっかり静まった魚河岸と、心ばかりの観光看板。小さな島だ。

 預けていたリュックを受け取って、生まれて初めての土地をシオンは踏んだ。たった三十分の乗船だったのに、身体はうまく直立してくれない。

「この島は初めてかい? どっから来たの?」

 港近くの食堂で、昼飯にといくら丼を食べている時だった。好奇の目をしたおばさん数人が、シオンを取り囲むように座っていた。

「はい。ちょっと仕事で喚ばれまして。にしても、ここの飯うまいですね」

「あら、日本語喋れるの。キレイな顔してるから、てっきり外国人なのかと思ったよ〜」

「あぁ……。仕事柄世界のいろんなところ行くんで、教えてもらったんです」

 ゆっくり飯を味わいたいシオンと、離れ島じゃ珍しい銀髪の青年と話したいおばさんたち。体力のある島育ちに、シオンは屈した。

 以前はドイツにいたこと。国籍はイングランドだということ。仕事やら何日いるのやら、根掘り葉掘り探られたシオンは、ぐったり肩を落としながら大盛りのいくら丼を完食した。もう着いてから一時間近くも尋問を受けていた。

「あんたら、さっきから一体どれだけ詰め寄るつもりだい。お兄さん困ってるじゃないか」

 助け舟をくれたのは、食堂の若女将だった。割烹着に三角巾を巻いた彼女は、写真で見た昔の日本人そのものだ。

 女将の鶴の一声で、シオンはやっと解放された。おばさんたちを見送って、漬物をかじる。塩がくどかった。

「ごめんね。本島から学生さんがくるなんて珍しくて、ついはしゃいじまったんだよ。悪気はなかったから、許してやっておくれ」

 サービスにとコロッケを一つ貰っては、シオンも首を縦に振るしかない。

 白銀の青年は、己を大学生だと名乗った。事実彼は日本の大学に籍を置いている。海洋生物の研究のために島に来たといった。それも間違いじゃない。授業で出された課題だ。

 ただ一つ、彼は嘘をついた。自分は普通の大学生だと。

「フレンドリーなのはありがたいです。まだ日本語喋るのあんまり得意じゃないので、勉強になりますから」

「そりゃよかった。この島の人間はみんな家族みたいなもんだからね。人工も確か二千人もいないんじゃなかったかな? 困ったことがあれば言っとくれ。難しい研究は分からないけど、飯と人探しならお手の物さ」

 茶柱の立つ渋い茶をすすりながら、シオンは鞄から一通の便箋を取り出した。宛名も切手も欄がない、妙な上質紙だった。

「……この街で最近、誰かが妙な噂を言ってませんでしたか? 例えば、『死神』とか」

「死神ねぇ……。漁に出た人が死ぬ話はよくあるけど、それは聞いたことないねぇ。それも研究なのかい?」

 個人的な仕事です。青年はそう答えると、女将の目の前で便箋を振った。

 黙って虚を見る女将を傍目に、シオンはそそくさと荷物をまとめて店を出る。古びて奇怪な音を立てる引き戸が閉められた直後に、静寂の糸は切られた。

「……あら? 空いた食器下げなかったっけ? でも、誰もいなかったわよねぇ……?」

 波が砂浜の文字を消すように、死神の記憶も人から薄れてゆく。シオンはそれを少し早めさせた。

 銀の飛沫と金の陽と。想いは遠く、空の向こうへ。誰かの祈りに応えるために、死神は重たい腰を上げた。



 満腹になったシオンは、砂浜に足跡を残しながら海の境界線を歩いていた。肌がベタつく汐風を嗅ぐのは久しぶりだった。

 彼の依頼人は、海岸から少し離れた崖の上、ちょうど人が二人ほど立てそうな岬に腰を下ろしていた。

 すぐ後ろの森からいつも来ているのだろう。獣道が続いているのが見える。

 栗色の短髪を靡かせながら、彼女は海を見つめていた。そこで誰かを待っているように。尻が地面に縫い付けられたように。

 黒スーツの一番上のボタンを外し、肩上の崖によじ登る。地元の人でも滅多に来ないであろう秘密のスポットに客が来た彼女は、しかしどこか期待を孕んだ目をしていた。

 死神として、始めに言う言葉は決まっている。先代に幾度も教えられたせいで、今は二十を超える国の言葉で言える簡単な文だ。

「はじめまして。私はあなたが呼んだ死神です」

「……噂は本当だったのか。でもまさか、こんなにカッコいいお兄さんが死神だなんてね」

「一通につき寿命一年。信じるかはあなた次第。死者から返事が来るかはわからない。それでもよければ、どうぞ、この『死神郵便局』の切手を舐めてください」

 便箋とともに切手を差し出す。これが死神が依頼人に出会って真っ先に取らなければならない行動だった。

「どうやってボクがここにいるってわかったの? 案外ハイテクなのかい? 最近の死神さんは」

「誰かからもらった切手を枕に貼ったでしょう? それが死神を呼ぶ合図なんです。……聞いてなかったですか?」

 死神郵便局の切手は、死者からの返信用便箋に入っている。使い方は枕に貼るだけ。込められた想いがシオンに伝わって、彼は世界中どこへでも飛んでゆく。

 目の前の少女は十代の半ばほどだった。言葉遣いと、シャツに短パンという姿が少年を連想させるが、シオンは姿にこだわらない。

 小麦色の肌をシャツの隙間から覗かせながら、少女は大きく伸びをした。猫のような仕草だった。

「もらったのはずいぶん昔でさ、どうしていいかわからなかったんだ。あんまり信じてもいなかったしね。けれど、死神が目の前に現れたんだ。ボク、感激だよ」

「それはよかった。私はシオン。アカツキ・シオンです。よろしく」

「君も花の名前なんだね。ボクは撫子。女の子っぽくないってよく言われるんだけどね」

 笑いながら差し出された撫子の手を、シオンは握り返した。

 日も傾いた午後六時、二人は埠頭でピクリとも動かない釣竿を見つめていた。出会った後に撫子が、「島を案内してあげるよ。初めてなんだろ? こう見えてボク、観光の手伝いとかしてるんだ」と言ったものだから、それに誘われてシオンが後をついて行った。

 彼女は死神を恐れなかった。だからシオンも、撫子の行動を見守った。死神の仕事に時間はない。大学が休みの間ならば、いくらでも待ってられる。

 獣道を抜け、山を下り、泉を横切った。大地の限り広がる自然と潮の調和に、時間は悠然と過ぎて行く。あらかた歩き疲れた頃合いに、今晩のおかずをと埠頭に寄ったのだ。

「シオンはさ、海外から来たの? 死神は外国人なの?」

「パスポートはイングランドのだけど、それはそこにいる知り合いに作ってもらったからだから、そうだな。死神に国境はないんだ。紛争地域とかにもいけるしね」

「すごいな……。ボクはこの島から出られないんだ。父さんと母さんがいなくなったあの日から、ずっと……」

 華は語る。華は耳を傾ける。それは釣りの余暇に聞くにはあまりに不釣り合いで、あまりにつまらない話だった。

 曰く、撫子の父親は探検家だった。世界中を旅してはその時の体験をネタに執筆をし、その印税でまた旅をするというような、根っからの旅人気質だったらしい。ある時この島に来た彼は撫子の母親と出会い、撫子が産まれた。

 そこまでは良くある話だ。浮き草だっていつかは根を張る。いつまでも風と雲に身を任せていられるわけじゃない。

 けれど、探検家は根まで探検家だった。新たな世界、まだ見ぬフロンティアを目指し、再び船に舞い戻った。もちろん、家族を連れて。

「幼いボクはイヤだってごねたらしいんだけどね。ばあちゃんと離れたくないー、って。まあでもそれなりに馴染んでたみたいだし、何より夢枕に父さんから聞く昔話が楽しかった。それは覚えてる」

 一息ついて、お茶を流し込む。まだ釣竿に反応はない。

 冒険は序章から第二章、第三章を経て終幕を迎える。なんて事はない。冒険家の最後なんて決まっているのだから。

 シオンの予想に違わず、撫子の両親の最後は事故だった。幸い現地の人に預けられていた撫子だけが一命を取り留め、祖母のいるこの島に送り返された。

 とっぷり日は暮れて、星が出ていた。幼気な、けれど大人のふりをした少女の話に、シオンは黙って頷いていた。

「……ボクはもうここから出られない。この島がボクの世界の全てになっちゃった。だってここは、二人の影が残ってるから」

 家に帰れば、まだ両親の部屋がある。母が使っていた化粧品も、父のリュックの中身も全て。食事に行けば、食堂のおばちゃんから昔の両親の話を聞ける。この島はみんなが家族みたいなものだから。

「想い出に浸るのは悪い事じゃないですよ。私もそうでした。意味もなく引き出しを開けたり、知ってる人から話を聞いたりしましたよ」

「……シオン、ボクはね……」

 外の世界へもう一度羽ばたきたい。それが彼女の望みだった。そのために父親の言葉が欲しいと、撫子は言った。

 まっさらな便箋を、彼女は受け取った。それに綴る想いを描いているのだろう。目を閉じ、考え込んでいた。魚がヒットしていることにも気付かずに。

 島の夜は空が近い。二人が家に帰る頃には、もう外は真っ暗だった。

「民宿はとってないんだろ? ここらじゃ夜はイノシシも鹿も出るし、何よりもうどこの店も閉まってるよ」

 そんな謳い文句に乗せられて、シオンは撫子に半ば強引に引っ張ってこられた。彼女の家は、島の中央寄りの山中にあった。周りは森に囲まれているが、高いところにあるせいか、玄関から街が一望できる。

「ただいま、ばあちゃん。また父さんと母さんにお参りしてるの? 几帳面だねー」

「私にゃ参るしかできないからねぇ。あんたもちゃんと参りな、お盆の時くらい」

「わかってるよ。あ、この人お客さんね。宿ないからウチに泊めてあげるの。いいでしょ?」

 なんとも軽い会話で、シオンは篝家に招かれた。

 晩御飯はさっき釣ってきた鮎の塩焼きに、地元野菜のサラダ。豆と南瓜をごった煮にして餡をかけた謎の郷土料理と、中々に豪華だった。

 宵が暮れても、撫子は机に向かって頭を捻らせていた。寿命一年の対価に見合う内容を描かなければと勤しんで、中々筆が進まない。

 死神はそんな彼女を見守った。空に想いが届くように。一度は一人になった彼女を、また孤独にさせないために。

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