第20話 隣を見ること
一年前のあの時と同じように、死神の手紙は波紋を描いて広まった。少年が少年へ、上官から部下へ。想いの手紙は、いつしか彼らの空を覆っていた。
ある時、シオンは重症の兵に泣かれた。「愛を確かめさせてくれてありがとう」そう言って、彼は目を閉じた。
少年兵たちは、家族に手紙を送っていた。母に甘える者、父に強がる者。祖父や祖母に、活気づけられた者もいた。
「……これを読むべきか、迷っているんです。兵として引き金とともに生きる私が、錆びてしまいそうで」
小春日和の午後、ハルバレインはシオンを呼び出した。机の上には、だんだんと増えていく戦死報告書が積み重なっていた。
「ミヤビはいつも、決めるのは自分だって言ってる。読みたくなる日がくれば、封を切るのも悪くない。思い出をしまっておきたいなら捨てればいいって」
「あの死神どのは、なんとも強い人だ。それで、今日彼女はどちらに?」
「ハイルレインに呼ばれてた。向こうも手紙が溜まってるって」
「そうですか……。シオンくんは、どうしたらいいと思いますか?私は君の意見を聞きたい」
髪をいじって、少しシオンは考えた。
「俺は開くべきだと思う。そこには死者の想いが詰まってる。だから、死神の手紙を出した人は、どんな想いが込められていても、それを背負うべきだ」
「君もまた強い。だから、私は君の強さを見習おう」
便箋の封を切り、ハルバレインは時間をかけてじっくりと読んだ。砂時計を眺めているように、シオンは彼の目を追った。
風が硝煙とともにインクの香りを運んでくる。砂が落ち切ると同時に、彼は目を閉じた。
「ずっと悩んでいた『愛』の在り処が、ようやくわかった気がします。ありがとう、シオンくん。そして死神どの。私からの最大の感謝を、あなたに賜ろう」
頭を下げ、ハルバレインは目を伏せた。俺こそありがとう。それだけ言い残して、シオンは部屋を出た。
いつしか空は茜色に染まり、戦いを終えた兵たちが、血と生気を土に染み込ませながら携行食を齧っていた。
三日前は、シオンが文字を教えた少年が帰ってこなかった。昨日は歌手を目指していた少年と、絵がうまかった少年が。
そして今日は、オーリーの姿が無かった。
その晩、シオンは何も食べなかった。死神になったのに、何もできなかった己を呪うように、木を殴り続けた。
涙が出たのは、痛みのせいじゃない。戦場には慣れていたはず。仲間の死は乾燥していたはず。
無力な彼は、考えた。世界が歪んでいるのは仕方がない。だから、その世界でどう生きて行くか。
大木に血が滲んだ時、メリッサがシオンを止めた。帰ってきたミヤビのところへ連れて行き、脱力していたシオンをベッドに寝かせて彼は去った。
「これじゃダメだ。このままじゃ、俺は変われない。ねえミヤビ。俺、本当に死神になれるのかな」
ミヤビは大量の手紙を持って帰ってきていた。けれど、ミヤビはシオンを方を向いてくれた。空に手紙を送るより、となりのシオンを見てくれた。
「……君の所に初めて行った時、私も同じことを考えていた。だが、死神が届けられるのは想いだけ。平和や綺麗な世界は、私じゃ届けられない。
愛を知れば、人は変われる。だから、私たちは私たちで、出来ることをやるんだ。小さくても、一歩づつ」
凛としたミヤビの顔は、初めて会った時よりも美しかった。
「みんなが愛を知れば、きっとここは変わる。ここだけでもかえたい」
どれだけ本を読んでも、答えは書いていない。そんな問題を解くのが、シオンは苦手だった。
「思い詰まったら、手紙を読んで息抜きしなさい。フリーアからだ。わざわざダヴィに私たちが何処にいるのかを聞いて、死神宛に出してくれた」
しばらくフリーアからの手紙のことが、シオンは頭から抜けていた。
いつも通りの整ったフランス語。たまに、全く同じことが別の言語で書かれた文が二通入っていることもあった。いつまで経っても、フリーアはシオンの先生だった。
『お久しぶりです、シオン。最近暖かくなって来ましたが、いかがですか?風邪を引いてはいませんか?
こうしてシオンに手紙を綴っていると、一年前を思い出します。あの時シオンがいなかったら、私はきっと世界を嫌っていたでしょう。
私の笑顔は、いつだってシオンと、死神さんに向けられているんですよ?だからどこか遠くへ行くときは言ってください。おかげで最近、ずっとシーターさんとお手紙をやりとりしていたんです。
この間ケーキを焼いたんですけど、アレは難しいですね。焦げてしまいました。一人だと、やることが多くて大変です。
だからシオン、今度遊びに来てください。そして、二人で一緒にケーキを作りましょう。一人じゃできないことも、二人なら意外と簡単にできちゃったりするんですよ』
可愛いイラストと一緒に、シオンは手紙を目で追った。
フリーアの言葉は、シオンに元気をくれた。時に行動のヒントをくれた。彼女の笑顔が瞼に浮かぶ。
シオンはようやく目を開けた。
「二人なら、この戦争を止められる。ミヤビだけじゃなくて、俺も死神だ。俺はミヤビを信じてる。だから、俺の話を聞いて、ミヤビ」
いつもの優しい笑顔で、ミヤビは頭を撫でた。
「俺が向こうの国へ行く」
灼熱の砂漠を、シオンは歩いていた。持っているのは水と食料が入った鞄と、死神の手紙だけ。目指しているキャンプがあるのは、もうすぐそこだった。
シオンは考えた。一人の死神が片方の陣営に愛を届ければ、そこの人たちは変わる。実際、シオンたちもそうだったように。
二人の死神が、両方の国へ愛を届ければ、なにかが変わる。だからシオンは汗を掻きながら、干ばつの大地を踏んでいた。
やがて、シオンは一つの野営基地を見つけていた。地雷の位置も、兵士の巡回ルートもシオンは知っていた。
だからシオンは、喧嘩別れした実家に帰るように、基地に足を踏み入れた。
「何者だ?スパイか?少なくとも民間人ではないだろう?」
その教官を、シオンは知らなかった。基地にいる人間の誰一人、シオンを知る者はいない。それはかえって好都合だった。
「俺は『文を持つ死神』だ。お前たちが呼んだ。だから来た」
教官の目が細まる。けれど、シオンは逸らさなかった。今の自分は、引き金でも銃弾でもない。
それに、ここに死神の切手があることはミヤビから聞いていた。
「よく地雷原にかからなかったな。それに、言葉も達者だ。まだ子供という点も気にかかる」
「長話は嫌いだ。他の部隊から聞いているだろ?第七七中隊。一年前に報告があったはずだ」
当時のことを、シオンは語った。話が進むと、周りの兵士たちの目が鋭くなっていった。
「……あの部隊は全滅している。それに、死神の報告は聞いていた。詳細を知っているのなら、お前が死神なのも頷ける。国際規定において、死神の存在をここに認めよう。私はこの中隊の指揮官、ホルビオ・マニェータ軍曹だ」
「あまり俺には時間がない。自由に動いていいか?」
「許可しよう。ただし、その手紙を私にも一枚くれないか。病で倒れた家内に出したい」
ミヤビから貰った千枚の中から、シオンは一枚を渡した。大人たちも、何人か望んでいたから置いていった。
シオンは少年兵たちのいるテントへ向かった。そこにいたのは、やはり昔のシオンだった。今度は打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
言葉を交わし、氷を溶かした。ミヤビのいない所で死神になるのは初めてだった。
シオンは手紙を送れなかった。だから、毎日彼は二つの国を往復した。手紙を運ぶ、死神郵便局の配達人は、雨が吹こうと弾丸が飛び交おうと、息を切らし続けた。
死神の手紙は、波紋の如く広まった。一日に何十通もの手紙を運び、想いが空に舞い上がった。
言葉も文字も知らない少年たちは、シオンの教えを喜んで受け入れた。大人たちは、死神を怖れて近づかなかった。
数えて十日経っても、戦場は変わらなかった。毎日煙が上がり、また一つ届かぬ想いが降り積もる。死神を信じない人たちは、手紙を交わした少年たちと対立した。
けれど、シオンの願いは少しづつ形を成していっていた。喧嘩が減って、空気に混じっていた甘ったるい薬物の匂いが薄れた。
空の向こうを見た人たちは、確実に変わっていた。
シオンたちがハイルレインに呼び出されたのは、それから一週間が経った後だった。
国の紋章が入った書類を見る彼は、いつもと同じ無表情だった。
「三日後、我が部隊は全面衝突作戦を決行する。これ以上の足踏みは、火薬を暖めるだけだと上が判断した。死神どのは狙われはしないが、流れ弾に当たることも、爆炎に呑まれることもあるだろう。早急に避難されよ」
「……その決定は覆らないのか?」
「これは私の判断ではない。再審を通しても、それが通ることはない。死神反対派の意見も多い。この基地の中にも、一定数はいる」
ハイルレインは、ずっとミヤビと睨み合っていた。太陽のような黒い瞳が、氷の壁に阻まれる。
「私の立場上、君たちに何かしろとは言えん。だから何か疑問があれば、ハルバレインに訊ねてくれ。アレは私の全てを受け継いでいる」
それだけ言い残すと、ハイルレインは扉を開けた。
ハルバレインたちの基地に連絡が入ったのは、シオンたちが戻ってきたのと同じ時だった。教官からの指令に、少年兵は俯いた。
誰も声を上げないまま、夜は更けていった。次の日、メリッサは子供たちを集め、文字を教えた。知らないが故に死神の手紙を送れなかった子供たちに筆を握らせて、想いの吐き出し方を教えた。
「メリッサは送らないのか?手紙」
「一週間後に生きてたら、また依頼する。その時は、シオンが俺の手紙を受け取りに来てくれ。約束だ」
力強く腕を組む。それだけで、糸は繋がった。
川の向こうへ、シオンは何度も足を運んだ。シオンのいた国は死神の信仰が強いのか、やけに手紙が多かった。
帰り際に、ホルビオがシオンを呼び止めた。重たい顔で、彼はシオンに「早くここから去った方がいい。一週間後だ」と告げた。
それ以上、シオンは聞かなかった。
シオンを殴った教官と同じ目をした大人が、毎日手紙を出していた。祈りを込めて、シオンに十字を切る人間もいた。
戦場にとっての死神は、他の場所よりも強い太陽だった。
ミヤビの持ってきた段ボールが底をついた時、もう決戦は明日に迫っていた。飛び交った想いは、千をとうに超えていた。
「どうしても、方法がないのかな、ミヤビ。俺の力じゃこれが限界だ。もうミヤビに聞くしかない」
雲が多い夜だった。月が届かず、梟が夜を食っていた。
「……戦いを止める方法を知っているか、シオン?」
「兵士がいなくなればいい。ミサイルのボタンを押すやつも、引き金を引くやつも。全員。死神の手紙で、ほとんどのやつは無くした。でもまだ持ってるやつも沢山いる。そいつらを殺すのか?」
「半分正解だ。戦いたい者が消えれば、戦争なんてものは勝手に消える。だがそれは、あまりにも強大すぎる力なんだ、シオン。そんな事をすれば、人は人で無くなる。死神と言えど同じだ」
自然と頰が濡れていた。気づかれないように拭ったけれど、きっとミヤビは気づいていた。
二つの世界を渡り、幾千の想いを届けてなお、争いは終わらない。シオンはただ、人に報われて欲しかった。
「シオンは私ができなかった半分をやってくれた。私だけでは、この国の人間の想いを届けるしかできなかったからね。だから、次は私がやる番だ」
立ち上がったミヤビは、自分の荷物をまとめだした。リュックサック一つを背負い、星空の下で、死神は言った。
「今日私は、死神の禁忌を犯す。そして明日、この争いを終わらせる。そしてもう一度君に問う。君はどうなりたい?」
死神はシオンにとって、はじめての憧れだった。だから自然と、同じ道を歩いていた。
橋を渡り切る前に、シオンは足を止めた。振り向く事も、引く事もなかった少年は、生まれて初めて、前以外を向いた。
遠い山の向こうを、シーターが登っていた。川の下をダヴィが泳いでいた。隣の橋にはフリーアが、背後にはメリッサがいた。
ずっと前を孤独に走る黒髪を、追いかけるのはもうやめた。
ミヤビの乗った車が林へ消えてゆくのを、シオンはずっと見守った。シオンは、ミヤビの隣に立ちたかった。
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