第115話 ウラジカラカシス
カラカシス山脈北麓、ウラジカラカシスの難民保護施設で、アマリリスはその年の秋と冬を過ごした。
大山脈を仰ぎ見れば、永久氷雪の峰を隔ててウィスタリアと向かい合うこの一帯は、以前の彼女には漠然とした憧れの地だった。
ウィスタリア教示聖典は伝える。
かつて大カラカシス嶺の彼方には、翼を持つ強大な獣を操り、自由に空を舞う、金色の瞳の神々が住む国があった。
地下深く、百尋の冥界で道を失った春の女神は、山脈の地下を通り過ぎ、やがてその地に迷い出る。
金色の瞳の神は、女神と共に、翼を持つ獣の背に乗ってカラカシスの尾根を飛び、ヌーシアの野に降り立った。
金色の瞳の神は、春を司る女神を愛し、二人の間に、もっとも古いウィスタリアの子が生まれた、と。
しかし現実のカラカシス北麓は、翼を持つ獣どころか、
カラカシス全体で36あるという少数民族のいくつかの氏族が、今やラフレシアの国家に組み入れられ、
ラフレシア人によって名付けられた、屈辱的な街で暮らす、暗く悲しい土地だった。
秋の紅葉は美しく、一面の黄色に染まった林に、暖かな陽ざしが降り注ぐような日は、ウィスタリアの気候に似ていた。
しかし、冬の寒さはずっと厳しく、雪はそれほど多くなかったが、身を切るような冷たく乾いた風に晒された。
新年が明けた頃、父が、アスティルベへの移住の話を持ってきた。
戦争は続き、主戦場はボレアシアに移っていた。
一時は苦境にあったタマリスクも、リンデンバウムの援軍を得て体勢を立て直し、
参戦国が20を超えた戦争は、地上に、海上に、炎と血の雨を降らせていた。
カラカシスの情勢にこれといった変化はなく、最近はむしろラフレシアが押され気味だった。
ここ、北カラカシスにタマリスク軍が侵攻してくる事態も、考えられなくはなかった。
ピスガ・ジェベルで戦ったウィスタリア人には、義勇兵としてラフレシア軍に加わり、祖国奪還を希望に戦う者も多かった。
追放の旅の頃、評判の良くなかったすずかけ村の村長は、それなりの年齢でありながら軍に入り、
ピスガ・ジェベルで彼らに合流したタマリスク軍の亡命将校と共に、後年には、ウィスタリア解放戦線と呼ばれることになる組織の礎を作った。
一方で、地域の不安定な情勢に見切りを付け、新天地への移住を希望する者も少なくなかった。
ある者はラフレシア中原の穀倉地帯へ、そしてある者は、ラフレシア帝国の比較的新しい海外領土、アスティルベへの移民募集に目を止めた。
「未開の新天地で、誰の物でもない土地がいくらでも広がっている。
森の木を切り出して売れば、値段の9割が伐採者の物になるし、原野を開墾して畑にすれば、自分の土地になるそうだ。
楽しそうだと思わないかね。自分の土地を自分でどんどん作り出していくわけだよ。」
父親は努めて楽しそうに、二人に持ちかけた。
二人を楽しませる話ばかり、父はいつも探しているようだった。
ヘリアンサスは姉の顔色をうかがった。
『誰の物でもない』土地。
そこにアマリリスが反応した。
薄暗いランプの下、ヘリアンサスと二人で地図を開いた。
ラフレシア帝国は、ライオンかトラか、そんな獣の形をしている。
西のボレアシア部分が頭で、首都クリムゾン・グローリーがちょうど目の位置に当たる。
ステラ海の東で南にせり出した部分が前脚で、タマリスクやプルメリアを踏みつけている。
カラカシスは、獅子の下顎から垂れ下がるあごひげか、たてがみだ。
その下半分は最近切り取られてしまったが、かわりに獅子は新しい牙、リナリア半島を手に入れた。
それはいいとして。
ラフレシアの領土は、ずっとずっと東まで、経度にして、この大陸のじつに8割の幅に広がっている。
東端は、北極圏に近いレウカンタ岬、そこから太い尾のようなトワトワト半島が垂れ下がり、ベルファトラバ海を隔ててやや北、
つまり、ラフレシア本土とは別の大陸にアスティルベはある。
咆哮し、あるいは跳躍し、ボレアシアの高邁な文明や、コルムバリアの偉大な歴史に襲いかかろうとする、野蛮で強大な獅子が、身体の外に残した異物のように。
「ライオンのウンコだ!!」
「やめてよ、きたならしい。
・・・世界の裏側だねぇ、ウィスタリアからは。」
経線を十数本数え、アマリリスの指は海を隔てた陸地に辿り着いた。
約300年前からボレアシア人が入植するようになった、新しい大陸。
ボレアシアが神経質な国境線で細切れにされ、カラカシスなど、このスケールの図では国の形も分からないほどだが、
新大陸は悠々と引かれた境界で、カメリア連邦ほか数ヶ国に分かれ、北西の半島のような、ひとかたまりの土地がラフレシアのものだった。
3月を待って、父と子2人の家族は出発した。
まず鉄道で、ひたすら東、ラフレシア鉄道終点の港、極東州首府マグノリアへ。
そこから船に乗り、新大陸へ。
ちょうどベルファトラバ海の流氷が消える5月頃、アスティルベ行きの船に乗れる計算だ。
あとはアスティルベに到着するまで、何もすることがなかった。
ただ考える時間だけがあった。
何かを思い出すことも、未来について考えることも、同じくらい辛かった。
ラフレシア極東への、果てしのない列車の旅、そして続く船旅の間、アマリリスは彼女が見た最後のウィスタリアの姿、炎上するピスガ・ジェベルの光景を見続けていた。
それは失われたものの象徴であり、
決して戻ることの出来ない、彼女の子供時代の火葬の炎でもあった。
〈カラカシス編 了〉
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