第98話 未来の種子

喝采に沸く5合目陣地で、その男は静かに尋ねた。


「これで信用して頂けましたか?」


ウェルウィチアは答える代わりに、黙って小さな鍵を取り出した。



昨夕、この赤い制服を着た上級将校は、丸腰でピスガ・ジェベルを登ってきた。

そして、ウィスタリア人への協力を申し出た。


敵の罠ではないかと訝しむリーダーたちに、それならば、拘束してもらって構わないと言い、自らの手に手錠を掛け、鍵をウィスタリア人に引き渡したのだった。


相応の苦労をして現在の地位を得たであろうに、自分の組織をあっさりと裏切って、絶望的な状況にある敵に寝返る心理は理解に苦しんだが、

この男のおかげで、ウィスタリア人が、まさしく起死回生のチャンスをものにしたことは事実だった。


ウェルウィチアは鍵を握ったまま、昨日と同じ問いをした。


「もう一度お尋ねしたい。

何故、我々に協力してくれたのですか?」


「私の母はウィスタリア人です。

自分の中に流れる民族の血が、この山の土に消えようとしていることが、忍びなかったのですよ。」


「それだけですか?」


タマリスク軍将校は、黙ってウェルウィチアを見つめた。

手錠をかけられていてもなお、毅然とした表情に、ある種不敵な笑みが浮かんだ。


「この目で見てみたかったのです。

『不可視の士師』の正体を。

何故、そう呼ばれているかわかりました。」


この時周囲は、大砲とその戦功の方に気を取られていて、向かい合って、二人だけに聞こえる声で会話する二人に、注意を払うものはいなかった。


男はやがて元の、穏和な様子に戻って言った。


「あなた方もお気づきでしょう。

我が軍、我が国の、狂気に。


こんな気違い沙汰を行う国家に、もはや未来はありません。

タマリスク将校の誰もが、それに気付きつつ、もはや誰も、破滅の螺旋らせんから外れることが出来ずにいます。

カリブラコア・タマリスク王朝は、遠からず滅亡の時を迎えるのでしょう。


その時に、あなた方、いまここにいるウィスタリア人が生き残っている見込みは、残念ながら極めて薄い。

それでも、このピスガ山は、未来への希望なのですよ。


この先おそらく、真の災厄が訪れ、地上の世界はすべてが押し流されて無に帰る。

しかし、その死に絶えた下界に、このピスガ山の灰は、未来の種子として降り蒔かれることでしょう。

私もまた、この身は滅びようとも、そういう未来の礎になりたいのですよ。」


手錠が外され、新たな仲間がウィスタリア人に加わった。

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