第46話 可能性は海に
「脱走?」
父の声が一層低くなった。
オステオスペルマムに着いてから10日が過ぎようとしていた。
キャンプには、未来について楽天的でありたいと思う願望と、拭っても拭ってもにじみ出してくる、苦い膿のような不安とが拮抗しつつあった。
「一体どこへ逃げようというんだ、こんな敵地のど真ん中で。」
「まあこれを見てくれ。」
ヒルプシムの父、つまり彼の弟が、カラカシス地方と、タマリスク主要部の描かれた地図を広げた。
「俺たちが今いるのが、ここ、オステオスペルマムだ。
タマリスクに入ってから、この街道を東に進んできた。
移動した距離は長いが、国境のすぐ南をうろうろしていただけだ。
ウィスタリアまで、この道を突っ走れば、2日かそこらでたどり着ける。」
叔父はタマリスクとウィスタリアの国境を南北に交わる赤い線を指した。
「うまい具合に脱走したとして、国境の検問をどうやってパスするんだ。
そして、ウィスタリアに逃げ込んだ後は?もう、ウィスタリアという国は、おれたちの間でしか存在しない。
向こうにうじゃうじゃいる、《治安維持軍》に捕まったら、一巻の終わりだ。」
「一つ目の答えは、まさにお前の言葉の中にある。
もうウィスタリアは存在しない。この線は、連中にとって国境じゃないんだよ。」
叔父は国境線を示す、赤い破線をなぞった。
「この道を通って運ばれてきた奴らから聞いた話だ。
検問は一応あるが、タマリスクからウィスタリアに向かう方面はほとんどフリーパスだそうだ。
ラフレシアが攻めてくるのを恐れて、ウィスタリアから逃げ出すタマリスク人やアムスデンジュン人の対応に追われて、それどころじゃないらしい。」
「征服する側も大変だな、何かと。」
「ウィスタリア国内も、アムスデンジュン軍の連中がうじゃうじゃしてるってわけじゃないらしい。
いるんだが、北部のラフレシアとの国境に集中しているんだ。
めぼしい街のウィスタリア人は、もう刈り取りが終わった。
おまけにステラ海側から、ラフレシア軍がアムスデンジュン本土を攻めはじめたんで、ウィスタリアを占領してた部隊も、必要最低限の兵力を残して、大半が国に引き上げたらしい。
言ってみれば、ウィスタリア南部、西部はがら空きなんだ。」
ウェルウィチアは改めて、まじまじと地図を眺めた。
カラカシス地方は、西のトレヴェシア海、東のステラ海に挟まれた、幅広い回廊状の土地である。
ほぼ中央を、カラカシス山脈が東西に走っている。
山脈の北側の平原は、かつて大小多数の王国が割拠していたところだが、みな前世紀のうちにラフレシアに組み込まれ、直轄領や自治州となっている。
山脈の南側、カラカシス山脈とタマリスク帝国に挟まれた領域を、ウィスタリア王国、アムスデンジュン藩王国が分け合っている。
アムスデンジュン藩王国は東側、ステラ海に面し、北部で西側に張り出してきている。
東にアムスデンジュン、南西方向にタマリスクに挟まれ、北側のカラカシス山脈の分水嶺でラフレシアと接するのがウィスタリアだ。
叔父が言っているのは、ウィスタリアに侵攻してきたアムスデンジュン軍は、北部のカラカシス山脈、ラフレシアとの国境付近に集中しており、南部や西部にはほとんどいない、ということだ。
「だが、それも一時的なことだろう。
情勢次第で、いつアムスデンジュンの奴等が戻って来るかもわからん。
タマリスクの援軍もいずれ北上してくるだろう。」
「だろうな。
そうとも、ウィスタリアの山の中に隠れようと言っているわけじゃない。ウィスタリアを通って、ラフレシアに抜けるんだ。
おれたちは理屈上は、ラフレシア帝国の臣民だ。保護してくれる、少なくともタマリスクに引き渡したりはしないだろう。
何とかしてラフレシアに逃げ込めれば、この災厄は終わるんだ。」
「・・・どうやって。
国境はアムスデンジュン軍が固めているんだろう。」
「そこなんだよなぁ、問題は。
連中が大砲を据え付けている脇をすり抜けるわけにもいかんしなぁ。」
叔父は髪を掻きむしった。
ウェルウィチアは更に地図の上に乗り出した。
懐疑的ながら、その目は活路の可能性を鋭く審議していた。
「可能性があるとすれば、海だろうな。」
ウェルウィチアはウィスタリア北西部、町や道を示す記号がほとんどない一帯を指した。
「海ねぇ。
だが、我が国に船はないんだぞ。
ラフレシアまで泳ぐか?」
ウィスタリアは北西部で、カラカシスの西の内海、トレヴェシア海に接している。
トレヴェシア海南岸、西岸はタマリスク領だが、北岸、東岸は、タマリスクの属国である、リナリア汗国が北岸に残るほかは、ラフレシアの領土で占められている。
ウィスタリア領の海岸は、トレヴェシア海の南東の角、タマリスクとラフレシアの境界に位置し、北側には、カラカシス山脈を隔ててラフレシアに接している。
だがその海岸は、港湾としては利用されておらず、 そもそも、一帯にはほとんど人が住んでいない。
ほぼ無人の土地だから、アムスデンジュン軍に出くわす心配は少ないが、かわりにこの一帯から、北に山脈を越えてラフレシアに至るルートはない。
「とはいえ、出口まで見通せなくとも、踏み出す勇気が必要かも知れん。」
「同感だ。」
ウェルウィチアは頷いた。
「既に、何万、何十万というウィスタリア人が、この道を進んでいった。
そして、一人も戻ってこない。
おそろしくならないか。
この先あるのは、一千キロの砂漠だ。
住んでいる人間は、せいぜい遊牧民が数千人、それも渇き痩せこけた、食うや食わずの連中ばかりだ。
そこに吸い込まれた、百倍もの人間はどうなった。」
「殺されたというのか。
30万人だぞ。
砂漠全体が死体で溢れ返りそうじゃないか。
よく考えろ、30万人だぞ。
いくらタマリスク人でも、そこまで残虐なことができるだろうか?」
「砂漠は広大無辺で非情だ。
人間など、何百万人いようが、風に吹き飛ばされる砂粒と変わらんよ。
そうでないと、信じたいがね。
ただ確実なのは、この先ウィスタリアから離れれば離れるほど、お前のプランは困難になるということだ。」
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