第16話 ヌーシアの山開き

この雄大な山脈と、彼女の袖の刺繍は、同じ物語で綴られていた。


『ヌーシアの山開き』は、ウィスタリアの古い伝承にもとづく祭りで、

冥界に囚われた豊穣の女神が地上に戻り、春が訪れ、大地が生き返ったことを祝う催しだ。


ここまでなら、教示原書の『死と再生の秘跡』の説話と変わらないが、ウィスタリアでの伝承は少し違っている。

千数百年前に、ウィスタリアの国教が定められたとき、それまで崇められていた土着の信仰が混ざりあったものだろう。

伝えられるところによれば、


ヌーシアの野から、豊穣の女神は冥界深く下り、やがて地上へ向かって登り始める。

その途中、女神は地中で大カラカシス山脈の下を潜り抜け、山脈の向こう側に出てしまった。

豊穣の女神がいなくなり、終わりなく続く冬が訪れ、人々は飢えた。

遥か山脈の彼方の地は、翼を持つ巨大な獣にまたがり、自在に空を舞う、金色の瞳の神々が暮らす世界だった。

豊穣の女神の願いを聞き入れ、金色の目の神々は、翼を持つ獣の背に彼女を乗せ、大カラカシス山脈の上空を飛び越え、山脈のこちら側に春を取り戻した。

同時に女神を運んできた、金色の目の神は、彼女を愛し、ヌーシアの野に住んでウィスタリア人の祖となった。


だからこの祭りは、ウィスタリア民族の起源を祝う祭りでもある。


教示と一致しない、大カラカシス山脈の向こう側の世界と、金色の目の神の挿話は、もともと独立した伝承だったのだろう。

それを無理矢理くっつけたら、地下に潜っていった女神が空から降りてきたような、ヘンな話になってしまった。


どこかつじつまの合わないこの物語を、実はアマリリスは気に入っていた。


カラカシス山脈は、村から見えるときにも、灰色の霞の上高く、純白の雪を戴いた峰が連なる、神々しい連山である。

何度か、アマリリスは家族と一緒に、この山脈の裾野の高原に避暑に行ったことがあった。


はじめて間近に、この大山脈を見上げた日の驚きを、アマリリスは今でも覚えている。

何百メートルも続く岩の壁、無数に刻まれた深い爪痕のような谷、天空に突き上げる岩峰、この世の始めからそこの在るかのような氷河。

それらのかたまりが、アマリリスの頭上はるか、空の半ばまで覆い、信じられないほどの空の高みを、鶴の群れが山の向こうに渡っていった。


何千年も前に、彼女と同じようにこの偉大な山を仰ぎ見た人々が、それが決して越えることのできない、人間と神々の世界を隔てる境界だと考えたのも、不思議でない。


「本当に、あの向こう側には神々の国があって、私たちの先祖は、あの山の上を飛んでこちら側にやって来たんじゃないか、って気がするのよ。」


「どうやってよ。《翼を持つ獣》って何?んな動物いたの?

大体、前史のカラカシス北麓は、タマリスク人の遊牧民が走り回ってたんでしょ、はいやー、って言って。」


人のロマンはさんざんにぶち壊しておきながら、あどけない子供の夢想のようなことを言うアマリリスに、8週間後の花嫁が口を尖らせてまくし立てる。

アマリリスは、自分をやりこめたい相手の意図にも気付かず、即答した。


「しょうがないじゃん。

あの山を見てると、そんな気がしてくるんだから。」


三たび言葉を失った場を取り繕おうとしたのか、単に思い付きか、ヒルプシムが口を開いた。


「金色の目ってことは、魔族かも知れないね。何千年も前なら、カラカシスにも魔族がいたのかも。」


「魔族って、金色の目なの?」


「らしいよ。」


「空を飛べるの?」


「さぁ・・・あ、でもラフレシアには、狼と牡牛と鷲に変身出来る魔族の言い伝えがなかったっけ。」


「鷲か・・・鶴に越えられるんだから、鷲も飛び越えられるのかな。どう思う?

いいな、あたしも魔族に生まれたかったよぅ、ピスキィ」


「あたしに言われても・・・」


畳み掛けるようなアマリリスの詰問に、ヒルプシムはたじろいだ。

目で助けを求めても、年長の娘たちは、付き合いきれないといった様子で、とりとめもないおしゃべりに戻っていった。

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