第4話 私の名は、

『おにいちゃん、

おにいちゃん、

おとうさ・・・』


そこで目が覚めた。


全身が汗でびっしょり濡れている。

目が良く見えない。

頭ががんがんして、

耳鳴りでなにも聞こえない。


少女は袖口で涙を拭った。

途端にひどく惨めな気分になり、

こらえ切れずにわっと泣き出した。


ふと、首筋に触れた小さな冷たい手。


「だいじょぶ?」


心配そうに覗き込む顔があった。

知らない女の子。

ラフレシア語だ。


少女は入り口のところまでトコトコと駆けてゆき、

壁の向こう側に身を乗り出すようにして怒鳴った。


「おとーさーん!ヘリアン君!

おねぇちゃん、気がついたよ!!」


すぐにどたどたと階段を上がる音がして、

弟のヘリアンサスと、大柄な50くらいの男が姿を現した。


「おねえちゃん!」


ヘリアンサスは駆け寄ってきて、

彼女に抱きつくのは恥ずかしかったのか、女の子に並んでじっと姉を見下ろした。

その目には涙と一緒に安堵の色が輝いていた。


「大丈夫かね?

自分の、名前が言える?」


熊のような大男は近付いてきて、少ししわがれた、

優しい声で尋ねた。

少女は涙にぬれた顔で頷いた。


「私は、アマリリス。

アマリリス・ウェルウィチアです。」


アマリリスは、母国語よりも多少扱いづらく感じる程度に堪能なラフレシア語で答えた。

男はほっとしたようだった。


「よかった。君は3日間、眠りっぱなしだった。

弟さんのほうは、すぐに目覚めてね。

ずっと君の事を心配して、食事も喉を通らない有り様だった。

でももう大丈夫、ゆっくり休みなさい。」


そう言って男はずり落ちた毛布を

アマリリスの首まで引き上げた。


アマリリスは 、まだしっかりと定まらない視界を見回した。

古い木材と、すすけた漆喰の壁、太い梁に支えられた天井。

不均一な厚みのガラス窓の向こうには、陰気な灰色の空の下、雨か霧に濡れた斜面に散らばる、裸の樹木の姿が見える。


「ここは、、どこですか。」


「ここかね。

トワトワト半島の東岸、オシヨロフという小さな岬だ。

君らは、ボートで流れ着いたんだよ。」


「ボート?」


「そう。救命ボートのようだった。

岬の突端の岩に引っかかっているのを、

このファーベルが見つけたんだよ。」


男はそう言って黒髪の少女の頭を撫でた。


「私はオニキス・クリプトメリア。

この建物は、マグノリア大学の臨海実験施設でね。

私がここの施設長で、唯一の職員だ。」


アマリリスはぼんやりと、小さく会釈した。

そして、重大なことに思い当たった。


「お父さんは?」


クリプトメリア氏の表情が曇った。


「少し休みなさい。話の続きは後で・・・」


「教えてください、お父さんは?

父はどこですか!?」


アマリリスは不安に駆られて布団を跳ね除け、

クリプトメリアの肩にすがりついた。


「行方不明だ。」


少女の顔が真っ青になった。


「弟さんからも聞いて、この付近を探したんだが・・・


スカビオーサ号の救難信号はオロクシュマ・トワトワト

―ここから50キロ離れたところにある港だが―

でも受信していて、救助船が現場を捜索している。

ベルファトラバ諸島に流れ着いた生存者を、

何人か救助したという話だ。


大丈夫、お父さんもきっと見つかるよ。

さあ、だから今はゆっくり休みなさい・・・」


クリプトメリアに肩を支えられ、ようやく横になった少女は、

毛布の下から、大きなみどり色の瞳で彼を見上げた。


傷ついて保護された動物のようなその視線が、やっと自分から反れた時、

クリプトメリアはほっとしてため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る