父親とタバコの匂い

透明人間

第1話


 僕は彼が嫌いだ。今はまだ実家で同じ屋根の下、生活を共にしているが言葉を交わす事はほとんどない。


 彼はタバコを吸っていた。僕が物心ついた頃から中学を卒業するまでの間。が、何を思ってかそこから数年間は禁煙をしていた。

まだ僕が彼を父親として見ていた頃。彼にかけよっていって抱きつくと、僕をほのかにタバコの匂いが包みこんだ。当時マイルドセブンと呼ばれたタバコだ。今はメビウスという名前に変わっている。ただ僕がタバコの匂いに関して特別な嫌悪感を持つことはなかった。僕が彼を愛していたからかもしれない。


 僕は小学生からサッカーを始めた。その頃の彼はサッカーの事となるといつも僕を怒鳴り散らすような父親だった。とても厳しかった。試合から帰ってくるといつもどんな試合で、だれが得点をあげ、どんな失点をしたのかを詳細に聞かれた。それで答えられなければ「なんで試合をした本人がその事を答えられないんだ」と、怒鳴られる。例によって、そこで僕はだんまりを決め込む。手をあげられることも日常茶飯事だ。恐らく僕のことをプロにしようとしていたのだろう。理由は明確で僕に並外れた技術があったからだ。それを見越して厳しく指導していたのだろう。だが、僕には決定的に欠けているものがあった。俗に言う勝者のメンタリティー的なものだ。試合に本気で勝とうと思った事は一度もないし、寧ろ速く試合が終わる事ばかりを考えながらプレイしていた。足も早かったから相手ディフェンスの裏に飛んでいったボールを全力で追いかければ容易にキーパーと一対一の場面を作り出すこともできた。だが、それさえもシュートを外す事を恐れてあえて一歩遅れて相手と同時に追いつくようにしていた。相手ディフェンスとヘディングで競り合うことも怖かった。しかし、その試合で結果と内容が伴っていなければ、また怒鳴られ、手をあげられるから僕は必死にプレイしていた。いや、それを演じていた。プロになるような人間には少なからずそのメンタリティーが備わっていて、みんなサッカーを楽しんでいた。要するに僕は父親に怯えながらサッカーをしていたのだ。次第にサッカーの事が嫌いになっていった。あの、大好きだったサッカーがだ。


 大学生の今、僕はサッカーをしていない。苦痛から逃れるためだ。大好きだったサッカーをすることで僕はストレスを感じるようになっていた。そういう体になってしまったのだ。全ての責任を彼に帰属するわけではないが、僕は彼を憎んでいた。幼少期の僕に対する彼の教育は正しかったのか。いや、正しいはずはない。手をあげるようなこと自体ありえないからだ。そんな事を今更言ってもどうしようもないのだが、そんな中でも僕は彼を憎んでいた。


 彼と母は25歳で僕を産んだ。別に年齢のことはどうでもいいが、彼らが本当に子供を産むほどに人間的に成熟していたかは些か疑問である。子供を産む人間は大人でなければならない。教育的に問題があるからだ。それは心の器であり、多様な価値観の保持であり、教育への知識である。汚い言葉を使うと、ガキがガキを産んではならないと言うことだ。


 僕が3歳くらいの頃。物心ついたばかりの事でほとんどのことは記憶に残っていない。しかし、ひとつだけ脳裏に鮮明にこびりついている光景がある。

彼が母に手をあげている映像だ。これだけは20年たった今でも頭から離れる事はない。僕はその側で泣きじゃくっていた。その時の感情まで。鮮明に。心に刻まれている。

僕は彼を許していない。僕がこの世に生まれてから中学を卒業するまでの時間についての謝罪を受けていないからだ。彼は気づいていないかもしれない。この感情に。だが、気付かねばならない。何故、今、会話をする事を拒んでいるのか。視線を合わせることさえにも抵抗しているのか。これが長い反抗期でない事に気付かねばならない。それが彼を許す、唯一の道であることを。


 時折、街中でタバコの香りを感じる事がある。すると僕は彼を思い出す。あの無垢で何も知らなかった、僕が愛していたあの頃の彼を。

僕は彼を愛していた。尊敬していた。自慢のかっこいい父親だった。彼は様々なことを教えてくれた。社会での常識や人としての生き方、男としての生き方。一緒にグラウンドでボールを蹴って遊んだこともあった。楽しかった。

僕は彼を憎んでいる。絶対に許さないと、思っていた。


 僕は彼を憎んでいる。はずだ。絶対に許さない。はずだ。

だが。少し大人になって見てもいいかもしれない。

またあの時のように彼を愛して見てもいいのかもしれない。

本当は彼を愛したいのかもしれない。いや、違う。彼を愛したいのだ......。

僕の負けか。

意地を張るのはやめだ。我慢比べはもうよそう。とっくに彼のことは許している。心の奥底で。気付いていなかったのは僕の方かもしれない。

またあの腕に包まれたい。今では僕の方が少し大きくなったが、なんの迷いもなく彼を抱きしめたい。なんのこともない、たわいもない話で笑いあいたい。


 まだ遅くはないだろう。たった5年余りの空白などすぐに埋まるだろう。まだ間に合うだろう......。



 家までのいつもの帰り道、夕暮れの光とともに、またタバコの香りが僕を包み込んだ。今では僕がタバコを吸っている。メビウスだ。誰かに似たのだろうか。歩みを進めながらそんな事を考える。


 そろそろ家だ。帰ろう。あの日の二人に。

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