彼女たちを美しくするもの

水瀬 彗

紅色を落とす

口紅を落とす男なんて、下品な言葉の響きだわ。


そんなことを考えながら、真希は鏡に向かっていた。青みのつよいピンク色は、色白な真希によく似合う。今日という日は、彼女にとって何の意味も持たない、ただの金曜日だった。


今年で三十歳になる真希には、もう三年もの間恋人がいない。遊び相手は幾度となく入れ替わったし、真希に真剣な交際を申し込む男も決して少なくはなかった。

それでも彼女がそれを断り続けていたのは、気楽だという以前に、異性に追われる自分で在り続けることが好きだったからでもある。


紹介したい男性がいるから一度会ってみてほしい。


そう友人に声をかけられたのは、つい一週間前のことだった。IT企業に勤める、真希より三つ歳下というその男を「真面目で誠実だから是が非でもあってほしい、損はさせない」と称して、友人は強引に話をまとめてしまった。給料が良くても、真面目で誠実でも、そういったものは真希にとって必要のないもののように思えてならないのだ。



「そろそろ行かなきゃ」

「珍しいな。まだこんな時間なのに」


少し用事があるの。真希はそう言ってコートを羽織り、まだ裸のままベッドの上に腰掛けている男と目を合わせた。振り向きざまに鞄から財布を取り出すと「いいよ、俺が出しとくから」とうしろから声がする。


「いつもありがとう」


ベッドサイドに戻り軽くその男に口付けて、真希は またね とパンプスに足を滑らせた。



ホテルから一歩外に出ると、冷気が頬をかすめて、思わず寒いと声が出た。足早に、音を鳴らして冬の昼間を歩いて行く。百貨店のビルに入り、最上階にある待ち合わせ場所のカフェに着くと、それらしき男性が真希を見て会釈した。


「はじめまして。福良 智司です」


紺色のスーツに身を包んだ、福良というその男は、いかにも誠実という言葉を体現していた。物腰も穏やかで、清潔感もある。


「伺っていた通り、綺麗なかたで緊張します」


年下らしく屈託無い笑みを見せる福良には、ずっと昔に置いてきた煌めきがあるようで、真希は目を合わせているだけで彼がうらやましくなっていた。


「二十七歳からしたら、三十なんてもうおばさんでしょう」

「そんなこと思いませんよ。真希さんには、同い年にはない魅力を感じます」


お上手ね、と笑っていると机上に二杯のカフェラテが届いた。

仕事の話や将来の家庭のこと、趣味や休日の過ごし方。友人の紹介で出会ったに相応しい会話をふたりは続けた。


「真希さんは歳下はお嫌いですか」


嫌い、という言葉を耳にしたとき、真希はすぐに自分の言動を省みた。とはいえ、特に嫌いな相手にとる態度をとっていたようには思えない。


「なにか、気に障るようなことを言ったかしら、わたし」


動揺が顔に滲み出ていたらしい。今度は逆に福良が目を見開いて慌てて いやいやと言った。


「単純に質問しただけですよ。三つ年下の自分なんて、相手にされないのではと思いまして」


「申し訳ないのだけど」


真希がどのように伝えるべきか言葉探しをしていると、福良は不安そうな表情で彼女をまっすぐ見つめた。子犬のような目というのは、こういうことを言うのね、と真希は変に納得し、そして続けた。


「いまは、安定したお付き合いのことは考えていないの。歳上でも歳下でも、いまを楽しめたらそれで……って思ってしまうのよね。もう三十にもなって、情けないって自分でも思う。それに、わかっているの。楽しむために割りきって始めた恋愛が、長く続くことなんてないって。福良さんは世の中の女性からすると、理想を詰め込んだようなひとよ。そんな貴方が、わたしなんかに時間を費やすのは、それってとても勿体ないことだわ」


真希さん、と福良は真希に向き直し、今日一番真剣な目をして言った。


「それでも構わないというような歳下の男はお嫌いですか」

「嫌いではないけれど、そうなることを勧めはしないわ」

「そうですか」


カフェラテの最後の一口を流し込んで、福良は俯いた。

諦めさせてしまってごめんなさいね。真希はそう思いながら、左手首の腕時計を横目に見た。


「わたしより素敵で、福良さんに見合う誠実な女の子は、きっと他にたくさんいるはずよ」


困った顔のままの福良を見て、真希は子犬だと改めて感じる。子犬をいじめるようなことを、歳上の女にさせないでね。その言葉を口から出すか悩んで、喉の奥にしまいこんだ。


「ごめんなさい、少しお化粧室に」


福良とは目を合わせることなく、小さいメイクポーチを右手に真希は席を立った。わざと、背筋を伸ばして、ヒールの音を鳴らして化粧室へと向かう。


「いい男なんだけどな」


誰にも聞こえないように呟いてポーチから口紅を取り出し、ゆっくりと唇をなぞった。青の持つ透明感を信じて、念入りに彼女はリップメイクをやり直す。いつだって若々しく綺麗な女でいることは、彼女のポリシーだった。


席に戻ると、もう会計は済まされており、先程とは打って変わって、出会いたてのときのような爽やかな笑みで福良は「いきましょう」と真希の手を取った。コートを着せてもらってから、真希は福良のうしろをついてビルを出た。普段の彼女ならば「このあとどうする?」と聞くのだが、今日はまっすぐ帰ろうと、駅の方向に足を向けた。


「真希さん、ちょっとこっちきてください」


真希は強めの力で腕を掴まれて、ビルと隣の店との間にある細道に導かれた。勢いのあまりバランスを崩し、ブロックの壁に寄りかかった彼女の両肩を支えるように福良は腕をまわし、有無を言わさず口付けた。


「俺は、誠実な男なんかじゃないかもしれないですよ」


言葉を返す前に、再び唇を重ねられる。つい今しがたは押し付けられていただけだったが、今度は真希もそれを受け入れた。大の大人は覚える必要もない背徳感がふたりを襲っていることには双方が勘付いていても、ただひたすらに互いを貪りあって、決して行為をやめることはなかった。息をつぐのも忘れて、ようやくどちらからともなく唇同士の距離をとった。


福良が「真希さん、かわいいですよ」と赤らんだ顔で告げると、真希は「大人をからかわないで」と涙目になって強気に返す。


「女の口紅を落とすようなキスをする男なんて、品がないものだと思ってたわ」

「確かに、上品とは言えませんね」

「でも、嫌いじゃないかもしれないって、いま考えが変わった」


そうして、間髪入れずに真希は福良の首元に腕を絡ませてまた情熱的に口をつける。漠然とも言える時間ののちに、先に唇を離したのは福良のほうだった。


「俺と恋愛をしませんか。きっと、貴女のこと満足させますよ」


上目遣いでくすりと笑って、返事の代わりに真希はまた口紅を落としに彼に身を委ねた。

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