第5話

 まどろみの中で掛布団を強く引き寄せる。

 休日の朝の空気には、ほんの少しの幸せが混じっている。少なくとも、今晩眠りにつくまでは、あのくだらなくてつまらない職場に足を運ぶ必要はないから。ただ、それだけのことが朝の空気の味をほんの少し変える。

 一度目を覚まして時計を見て、すぐにもう一度布団に潜り込む。結局、ベッドから起き上がったのは、正午になろうかという時間帯だった。

 階段を下りて、洗面所で顔を洗う。そして、前を見ると、ぼさぼさの髪の自分がこちらを見ていた。

 老けた。

 不意にそんなことを思う。

 学生の頃は社会人になれば、すべてがうまくいくと思っていた。

 社会人になった今は、学生に戻れたらすべてがうまくできると思っている。

 未来は暗い道でしかなくて、過去は輝いていたと振り向きもせずに考えている。

 水道から流れる水のシンクを叩く音。私はその音に耳を傾けながら、蛇口を閉めた。




「あなた名前は? 私は、まなかって言います」

 入学式を終えて、教室に入った直後だった。まなかは後ろの席から私に向かって声をかけてきた。

 入学式が終わったばかりで、当然まだグループも何もできていない頃だった。皆が周囲を警戒しながら、同時に品定めをする。

 ——誰と組めば、よい学生生活を送れるか。

 そんな考えを巡らせているはずのタイミング。彼女は、おそらくは何も考えず、すぐ目の前の席に座った私に声をかけた。

 不意打ちだった。

 席が近い者に声をかけるというのは悪くない考えだが、それでも一応相手の雰囲気とか様子を確かめてからにするべきだ。もし、声をかけた相手がよほどの変人だったりして、その相手と話しているところを第三者に見られでもしたら。

 そうならないように少しは様子を見るというのが、普通の考えなのではなかろうか。

 しかし、まなかは、いきなりに私に声をかけてきた。後で解ったことだが、彼女は最初の一週間でクラス中の人間に声をかけていたらしい。私には真似できないし、真似したくもないことだった。

 急に声をかけられたことには面食らったが、私は適当にまなかと会話を交わした。その中で、彼女が何も考えていない能天気な女だということはすぐに解った。

 だが、彼女の容姿だけには文句のつけようがなかった。肩口までかかる神は艶やかで、まるで絹のような滑らかさ。大きな瞳に長い睫毛は美しくあるように作られたとしか思えない造形。微笑んだときにできる小さなえくぼが彼女の愛嬌を一層に引き出した。

 私は彼女と組もうと決めた。彼女のこれは天性のものだ。誰が真似しようとして出せるものではない。生中に美人な人間と組むと比較され、惨めになるということあろうが、彼女ほど美しい相手ならば、そういう気持ちにもならない。たとえば、アイドル相手に容姿で負けていたとしても、それを気にする人間はあまりいないだろう。ある意味で彼女は私にとって、画面の向こうの存在に近いと思えるほどに、いっそ非現実的な存在だった。

「よろしくね、狭山さん」

 そう言って、微笑む彼女を見て、私は努めて優しく微笑んだのだった。




 彼女が片親だったことは私と彼女が距離を縮める一つのきっかけになった。私の家もまた父親がいなかったからだ。

 父親は私が幼いころに母親を捨てて、蒸発。母は実家に帰って、私を育てた。だから、幼い私にとって、家族とは「おじいちゃん」と「おばあちゃん」と「おかあさん」で、「おとうさん」というポジションは、私にとっての家族の定義に最初から入ってはいなかった。

 中学時代に、「おじいちゃん」と「おばあちゃん」は立て続けに亡くなった。働き手を失った母は、近所のスーパーでパートを始めた。その稼ぎと祖父が遺した雀の涙の遺産を切り崩して、うちの生計はなんとか成り立っていた。


「そっか、茜ちゃんの家もそうなんだ」


 なんでそんな話をまなかにしたのか、今となってはもう思い出せない。別に自分を不幸なマッチ売りの少女だと思っていたつもりはない。だから、同情してもらいたかったとかそういう理由ではなかったはずだ。けれど、なぜだか、まなかには自分の家の事情を話しておきたくなったのだ。

 冷たい秋風が吹き始めたある日のことだった。

 そのときにまなかも自分の家庭の話をした。父親を幼いころに事故で亡くしたこと。今は母親が女手一つで自分を育ててくれていること。

 それを聞いて、浮かんだ気持ちは共感だった。

 自分たちの境遇は似ている。父親がおらず、母一人に育てられた女。似たような人生を送ったものには、やはり多少なりとも親近感というものが湧くものだ。だから、このときの私は柄にもなく、自分から彼女の手を握ったりした。


「私たち仲間だね」


 そんなこっぱずかしいセリフすら吐いていたような気がする。まなかは「そうだね」と女神のような微笑みで私を見ていた。

 そして、彼女は雲一つない晴れ渡る秋空を見上げながら言った。


「私、お母さんには本当に感謝してるんだ」

「感謝?」

「うん。お母さんは私を育てるために、本当に無理してくれてるから」


 そのときだ。私の心の温度が急激に下がったのは。

 まるで冷たい湖に急に突き落とされたような気分だった。すうと自分の熱が引いていく。

 祖父と祖母が立て続けに亡くなり、私の家は母のパートの収入一つに支えられていた。母はほぼ毎日のパート勤めの合間で食事を作り、洗濯をし、掃除をしていた。もちろん、そんな事実を私はきちんと認識していた。だけれど、それは私にとっての「当たり前」で、そこに感謝の念を抱いたことなどなかった。

 正確に言えば、まったくなかったわけではない。それこそ、母の日とか誕生日とか、そういった特別なときにふと母がやっていることを振り返って、「感謝」の気持ちを覚えることはあった。だが、一日経つと、それは夏の日の水たまりみたいに跡も残さずに消えた。

 そんな気持ちを彼女は持ち続けているという。いや、ポーズでしょ。いい子ちゃんぶってるだけでしょ。そう思う自分の考えを、彼女の朗らかな微笑みが打ち消した。彼女はきっと心の底から、母に感謝しているのだ。

 そんな考えに至った途端に掴んでいた彼女の掌がやけどしそうなくらいに熱くなった。私は思わず、その手を離した。

 急に手を離した私を見て、彼女は小さく首を傾げた。

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