第4話

「ああ、はいはい。ありがとね」


 部長はちらりと横目で私の顔を見ると、適当な調子で言った。私は返事をせずに、お盆を持って、給湯室に戻った。

 あの部長は私に対して、いつもあんな感じだ。私がわざわざお茶を汲んでやっているというのに、まともに感謝している様子も見られない。さらに腹立たしいのは、私以外の、特にもっと若い、女が相手のときには嬉しそうに目を細めることだ。別にあんな親父に相手にされたいわけではない。ただ、侮られている。そんな事実が単純に癇に障った。


「狭山さん、印刷お願い」


 別の社員が私に声をかけてくる。


「データ送っといたから、見て。十人分、ホッチキス止めで。よろしく」


 そう適当な調子で告げると、去って行く。

 ああ、すべてが腹立たしい。印刷くらい自分でやったらどうだ。確かに、お茶くみなんて馬鹿な仕事よりはましだが、それでも、こんな雑用ばかりやらされているのは単純に腹が立った。

 高校を卒業して、就職すると決めたとき、どうせなら華やかな職場、いい男がいる職場で働きたいと思った。私はよく知りもせず、広告会社であったこの会社に就職した。広告業界というのは、無条件ですごいものだと思っていた。綺麗なオフィス、仕事のできる社員、高い給料。だけれど、実態は雑居ビルのワンフロアでしかない小さなオフィスに、なめ腐った態度の社員たち、そして、雀の涙ほどの給料。私が求めていたものは、何一つなかった。

 すべてが腹立たしいかった。

 私はため息をつきながら、デスクに向かう。今から送られてきた書類を印刷して、ホッチキス留めしなくてはならない。私は届いていたデータを開く。


「げ……」


 書類のページ数は百を越えていた。うちの会社では節約という名目で、書類を印刷する必要があるときは、原本を一部、プリンターで出力し、その原本をコピー機を使って、印刷することになっていた。これだけ多いと少々手間だ。

 私はプリンター出力を済ませ、その原稿をコピー機上部の原稿送りにセットする。こうすれば、あとは自動的にコピー機が原稿を一枚ずつ読み取り、印刷してくれるはずだ。

 コピー機が独特の機械音を出しながら、原稿を一枚ずつ呑み込んでいく。あとは待っているだけでいい。

 そのはずだった。


「は……?」


 リズミカルな音を刻んていたコピー機は沈黙し、甲高いエラー音を奏で始めた。


「紙詰まり……? 嘘……?」


 原稿送りにセットした紙の量がさすがに多すぎたのだろうか。コピー機は原稿を呑み込み切れず、内部で紙が詰まってしまったようだった。こうなると、紙詰まりを解消しないと、コピーはできない。

 私は周囲を見回す。今のエラー音は聞こえていただろう。誰か適当な男が直してくれるのでは。そう期待したのだ。

 だが、周囲のデスクの男たちは素知らぬ顔でパソコンに向かっている。誰一人として、こちらに来てくれる者は居ない。

 ――こいつらは、本当に。

 私の腹の真ん中で、炎がぼうと音を立てて、燃え上がった。他の女性社員が困っているときは、皆、すぐに来てくれるというのに。

 ふと、考える。こんなとき、まなかだったら。私がまなかだったら、ここに居る男たちはすぐに腰を上げてやってきたのではないか。いや、そうに決まっている。

 私は諦めて、自分で紙詰まりを解消しようと試みる。コピー機の上部の紙送りの蓋を開ける。原稿が詰まってしまっているのは、一目見て解った。要はこれを引っこ抜けば、またコピーができるようになるはず……。

 私は詰まっていた原稿を引っこ抜いた。


「あ……」


 しかし、私の予想とは裏腹に、原稿は途中で破れてしまった。破れた原稿はコピー機の内部に残ったまま。しかもさっきと違って、詰まった原稿を抜くために引っ張る部分がなくなってしまった。これでは、中に入った原稿を取り出すことができない。

 私は中に残ってしまった原稿を取り出そうと四苦八苦していると、先程、私にコピーを頼んだ社員がようやくやってきた。


「あーあ。破っちゃったか。こうなると、面倒なんだよなぁ」


 男性社員は面倒だという感情を隠そうともせずに、そう言いながら、コピー機を覗き込む。

 

「あのさ」


 彼は指先でコピー機をいじりながら言った。


「できないんだったら、最初から声をかけてよね」




 何もかもが腹立たしかった。

 楽しそうに笑い合うカップルも、街路樹の下で丸くなっているホームレスも、歩道を我が物顔で走り去っていく自転車の老人も、馬鹿みたいにはしゃぐ学生たちも。

 何もかもが腹立たしかった。

 夜の街からは下卑た笑い声と怒号。車の風切り音と遠くで鳴らされるクラクション。うるさい、うるさい。何もかもがうるさい。

 昔は憧れた。ずっと田舎に住んでいた私は、都会というものに憧れた。だけれど、実際に都会を形作る一つの歯車になれば、この街が憧れるほどの価値もなかったものなのだとすぐに気が付いてしまった。結局、私は自分が居る場所すべてが気に入らないのかもしれない。

 そんなことを漠然と考え、駅への道を歩いていたときだった。


「あれ? 茜じゃない?」


 甲高い声に名前を呼ばれ、私は振り返る。

 そこに立っていたのは、まなかだった。


「やっぱり、茜だ。偶然だね。今、仕事終わり?」


 私を見て、彼女は満面の笑みを浮かべて、そう尋ねた。

 相変わらず、彼女の容姿は完璧だ。今だって、周囲を歩く男たちは、彼女の媚びるような甘い声に振り返り、彼女の顔を二度見している。同窓会のときと同じ、薄いピンクのコートを着た彼女は言う。


「まあね。あんたは?」

「私? 私はお母さんのお見舞いの帰り」


 彼女はこともなげな調子で言った。


「ああ、そう言えば入院しているんだっけ」


 私がそう尋ねると、


「うん。まだね」


 彼女の母は確か癌だったはずだ。女手一つでまなかを育てた彼女は、その無理がたたったのか、まなかが高校を卒業する直前に病に倒れた。そんなことが、女子の間で噂になったことを覚えている。

 彼女は母の治療費を賄うために進学を諦め、就職することに決めた。そして、最初は何か別の仕事をしていたようだが、結局、より稼ぎのいい風俗で働き始めたのだったはずだ。


「お母さん、今日はだいぶ調子が良かったみたいで、私も安心してたの」

「そう」


 病気の母のために身体を売る女。私は彼女のそういうところも大嫌いだった。


「今帰りなんだよね。もし、良かったらお茶でも飲まない? こないだは私が遅れたから禄にお話もできなかったし」


 同窓会の場では彼女は引っ張りだこだった。だから、あの日は、落ち着いて彼女と話す時間はなかった。


「ごめん、ちょっと疲れてるから」


 だけれど、今から彼女と話すほどの気力はなかった。今日の私は疲れすぎている。こんなときに、こんな女の相手をする余裕はなかった。

 私の言葉に彼女は頷いて言う。


「そうだよね、お仕事帰りだもんね。ごめんね、気が利かなくて」

「ううん、全然」


 彼女は気分を害した様子もなく微笑んでいる。この女の外面の良さは、本当に尊敬に値する。こういうときに嫌な顔一つ見せずに取り繕える辺りがモテる秘訣なのだろうか。


「ごめんね、また休日にでも。じゃあね」


 そう言って、私は彼女に背を向け、歩き出す。

 お茶くみをしても感謝もされず、コピー機の一件で嫌みを言われ、帰り道にまなかに会う。

 ——今日は本当に最悪の一日だった。

 私は大きな大きなため息をついた。


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