第3話

 本当に幼いころの私は意外にも優等生だった。

 言葉をしゃべり始めるのが早くて褒められたし、足し算や引き算を理解するのも早かった。「この子は天才かもしれない」なんて持ち上げる親戚のおばさんの言葉が、耳の中にざらついた感触を残している。

 でも、そんな優越があったのもせいぜいが小学校低学年までだった。いつしか、私は周りに追いつかれ、追い越され、置いていかれた。私は背中を見つめられる側から、見つめる側へと変わった。

 そんな私がどこの県にも一つはあるような馬鹿な公立高校に進学したときには、私は誰の背中も見えないような位置でぽつんと立ち尽くしていた。




 まなかは勉強のできない娘だった。

 彼女はクラスの中でもとびきりにテストの点が悪く、よく補修を受けていた。


「茜ちゃん、勉強教えて」


 そんなとき、彼女はよく私を頼った。

 私は物覚えの悪い彼女に付き合った。それは打算だった。こうして、彼女に貸しを作っておけば彼女は私から離れられない。彼女を隣に置くことで、私は「彼女の友達」としてどんなグループも渡り歩けた。それは楽で、安全な生き方だった。その見返りを確保するために、私は彼女に恩を売り続けたのだ。


「茜ちゃん、本当にありがとう!」


 彼女の天真爛漫な笑顔。それを見て、私は内心でほくそ笑んでいたのだ。




 二次会に向かうというメンバーと別れ、私は一人帰路に就く。最寄り駅の改札を抜け、この田舎町では希少なコンビニの前を通って、街灯の少ない暗い道を進む。

 何もない町だ。私はこの何もない町に産まれたときからずっと住んでいる。高校を出て、就職すれば、何かが変わると思っていた。何が変わると思っていたんだと聞かれれば、答えに窮する。けれど、少なくとも、ずっと胸にあった閉塞感は消えるだろうと思っていた。だが、私の胸には今も靄がかかっている。

 音楽プレイヤーの音量を上げる。男性ボーカルの低くがなるような声が私の耳を叩く。別段、その曲が気に入っているわけではなかったが、田舎の静けさよりはずっとましだった。

 私はため息をつく。やはり、同窓会に出たのは失敗だった。かつて教室で席を並べた馬鹿たちと顔を合わせたところで、何も得るものはなかった。もちろん、懐かしさを感じることもないではなかったが、そんな気持ちの代償としてはあの会費は少しばかり高かった。あの会費を払わなければ、いったい何が買えただろうか。

 心がささくれ立っている。我ながら、何をイライラしているのだろうと思う。まなかが、ちやほやされていたのはいつものことだと言うのに。

 私は荒れた心を振り落とすために、足を速めた。




「ただいま」


 私は建て付けが悪くなった戸を開け、靴を脱ぎ捨てた。そして、そのまま、二階にある自室へと向かう。さっさと化粧を落として、風呂に入って、寝よう。


「茜、ごはんは?」


 母の声が背中に刺さる。ああ、そう言えば、今日、同窓会だと伝え忘れていた。


「要らない。食べてきたから」


 私は階段を上りながら、そう答えた。


「そういうときは、先に言ってって言ったでしょ」


 母の険のある言葉。私はゆっくりと振り返り、階段の下に居る母を見つめた。母と私の視線が交わる。視線はまるで蛇のようにぐにゃりと絡みついた。

 母が小さく見えるようになったのはいったいいつからだろう。幼い時分、父親が居なかった私にとって、母親というのは間違いなく大きな存在だった。私の世界を定めるルールのほとんどは母によって管理されていた。遅くなる前に家に帰りなさい、片付けをしなさい、宿題はきちんとやりなさい。私にとって母は確かに大いなる存在であった。

 けれど、今の母は小さい。まるで小人だ。まったく存在感がない。今日、連絡するのを忘れていたのだって、私が無意識のうちに母のことを忘却していた証拠だろう。

 いったい、いつからだ。

 きっと、それは私が自分で稼いで、その金の一部を家に入れ始めてから。

 事実として、母がパートで稼いでくる金よりも、私が派遣で稼いでくる額の方が上回った。もし今、私の稼ぎがなくなれば、この家が貧窮にあえぐことは間違いなかった。

 この家は実質的に私が支えていた。

 別に恩に着せたつもりはなかった。「良い親」であったかはともかく、少なくとも自分を育ててくれた親であることは間違いない。自分はまだ実家に住んでいるし、家事だってやってくれているのだから、母を嫌ったり、厄介に思っている気持ちはないつもりだ。

 だから、きっと変わったのは母の方だと思っている。

 昔は言っていた小言を私に言わなくなった。

 掃除をしろ、洗濯をしろ、食事を作れ。

 私が学生だったころは、分担されていた家事を、母はいつしか黙ってすべてやるようになった。

 母はきっと自ら進んで小人になったのだ。

 私が母の言葉に何も応えず、黙って見つめていると、先に視線を逸らしたのは母の方だった。


「ともかく、頼むわよ」


 そう言って、彼女は背を向けた。

 私は階段の上からリビングへと消えていく彼女を見送った。

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