太陽の幻惑

 翌日も、そのまた翌日も、海斗は陽子と共に海に浸かっていた。


 時に砂の中に足を突き刺して海藻の心地になり、時に水の上にぷかぷかと浮かんで漂流するプラスチックごみの気分を味わった。


 体の力を抜けば、水は思いのほか優しく海斗を受け入れた。水に対する忌避感きひかん無限大むげんだい希釈きしゃくされた。ほんの三日前まで自分が何をいとうていたのか、海斗にはもう解らない。


 思えば、海は生命の起源である。帰るべき故郷というものを持ったことのない海斗だが、潮騒の中に見出される奇妙な懐かしさは望郷ぼうきょうの念と呼ぶべきものかもしれない。


 ただ浮いているだけの時間は濃縮のうしゅくされて海斗の中に降り積もり、さらに重みを増してゆく。その重みが増すほどに、焦慮しょうりょが海斗の心を焼いた。


 盆休みが終われば海斗は家に帰る。陽子にも別れを告げなければならない。それを惜しむ気持ちが、海斗の中に生まれていた。


 ただ浮いているだけなのだ。話をするでもなく、ひたすら海面に顔を出すことだけを考える時間。一人でも良いはずなのに、何故だかかたわらに陽子がいなければならない気がした。


「明後日、僕はここを去ります」


 塩水に浮かんで青い空を眺めながら、海斗はだしぬけにそう言った。すぐ近くで水が音を鳴らした。


「お盆休みでこっちに来てるの?」


 陽子の問いに、海斗は苦い心地になった。自分たちはお互いのことをほとんど何も知らないのだ。


「ええ。祖父母の家に泊りに来ていたのです。僕の家はここから随分と遠いし、なかなか来ることが出来なくて」


「ふぅん」


 陽子は静かに相槌あいづちを打った。


「海斗くんの住んでいるのは、どんなところ?」


「都会ですよ。なんでもあります。皆、何かに追い立てられるように急ぎ足で歩いています。足跡なんて残らないし、残ったとしても誰のものか解りません」


 海斗は首を巡らせて、水に浮かぶ陽子の姿を探す。


「陽子さんは、この町の人なのですか?」


「うん、一応は」


 陽子は煮え切らない返事をした。


「どうして一人で泳いでいたんですか?」


「……唐突に海藻になりたくなったものだから」


 なるほど、彼女はよほど海藻ごっこが好きなのか。海斗は一つ陽子のことを理解した気分になった。


「友達と一緒だと、不都合もあるでしょう?」


「確かに、少し恥ずかしいかもしれません」


 海斗は同意した。陽子が苦笑したのが水を通して伝わった。


「僕は毎年、盆休みに来ます。来年も二人で海藻になりませんか?」


 陽子は答えない。潮騒が穏やかに二人の身体を揺らし、耳に優しく語りかける。


 プラスチックごみでもいいのですが、と、沈黙に耐えかねた海斗がそう言いかけた時、陽子は唐突に口を開いた。


「明日、さ。私の秘密の場所に連れて行ってあげる」


 そう言ったきり、彼女は口を閉ざした。海斗の質問は答えを得られないまま、宙に浮いた。



 *****



 二人がいつも利用しているロッカーの裏手には、岸壁がそびえていた。


 陽子は階段状に削れた岩肌を、サンダルで身軽に上ってゆく。海斗は裸足はだしで来たことを後悔していた。


 二人が足を踏み出す度、おびえたフナムシがわさわさと動いて物陰へと跳び込んでゆく。岩の隙間にはフナムシがみっちりと詰まっていた。海斗は意識的に視線を陽子の背に固定した。


 出会った時には白かった彼女の肌は、海で揺られるうち小麦色に染まっている。色の落ち始めた髪が、焼けた肌をさらさらとこすった。海斗は目のやり場に困って視線を彷徨わせ、フナムシと目が合うと再び陽子の背中を凝視した。


 やがて二人は岸壁を上り切った。


 その場所からは、普段二人が漂っている灰色の海が一望できた。


 何ということはない、平凡な景色である。ただいつもより少し視点が高いというだけだ。わびしいばかりの海岸線。二人の最終日を過ごす場所としては情緒じょうちょに欠ける。海斗は密やかな落胆を胸に抱いた。


「まるで飛び降りてみろと言わんばかりの場所だと思わない?」


 陽子の言葉を受けて、海斗は足元へと視線を移した。海斗が今立っている場所は、岩がややせり出していて、確かに飛び込み台めいた形状をしている。


「言われてみれば、そうかもしれません。だからと言って、飛び込もうとは思いませんけれど」


「そう? 私はよ」


 陽子は怪しく微笑んだ。海斗の背筋を寒いものが走った。ゴーグル型に抜けた日焼けの滑稽さが、ますます彼女を不気味に映す。


「大丈夫。少し深くなっているからね、怪我はしない。人生観が変わるような体験だったよ」


 日焼けを免れた肌がゴーグルの奥へと消える。


「さあ、飛んでごらん」


 笑みの形をした口元だけが、彼女の表情を映していた。海斗は足元を見下ろして尻込みする。高い。くらくらしながら、海斗はゴーグルを装着した。プラスチック越しに見ても、海面ははるかに遠かった。


「えい」


 唐突に、陽子は海斗の背中を押した。


 足が地面から離れた瞬間、海斗の心臓は跳ね上がった。直後、体が垂直落下を始める。内臓だけが取り残されたような、気持ちの悪い浮遊感。凝縮された感覚が、滞空時間を異様に長く感じさせた。その時間で海斗は自分が海に飛び込む途上であることを思い出し、悲鳴を切り上げて空気を吸った。


 体が海面を突破して、水底へと沈み込む。上も下も解らなくなった海斗の目に、浮遊する空気の玉が映った。移動の方向を目で追う。こちらが上だ。


 海斗は息を呑む。頭上には青の世界が広がっていた。海斗の身体に張り付いて海に沈んだ空気の塊が、細やかな泡となってきらめき踊っている。輝きの向かう先には太陽があった。空を映す水面に映り込んだ太陽は、優しく静かに揺らめいていた。


 空を割って青の世界に飛び込んできたものがある。陽子だった。陽子の髪は水を受けて海藻のように揺らぎ、光の粒を海中へと送り出す。


 空へと昇る球形の虹。空気とはこれほどに美しいものだったろうか。


 ぽかんと開いた海斗の口から零れた呼気が、海面と海斗との間に輝く筋をす。息を吸おうとして自分が陸上生物であることを思い出し、海斗は慌てて浮上に転じた。


 青い輝きを宿す海面を抜けると、そこはいつもの通り、灰色の海だった。空もまた嘘のように平凡に広がっている。興奮冷めやらぬまま、海斗は陸に向かって泳ぎ始めた。水の音が後を追って来る。


 陸に辿り着くと、海斗はゴーグルを放り出し、茶色の砂浜に尻を付けて海を振り返った。濡れた体を熱い砂がじんわりと温める。


 陽子は初めて会った時と同様に、波と共に砂浜に上陸した。


「綺麗だったでしょう」


 陽子はゴーグルを外して、キラキラ光る黒い目を海斗に向ける。


「ええ、綺麗です……」


 海斗は答えた。心臓が痛いほどに脈打っていた。水を飲んでしまったらしく、呼吸が苦しい。陽子は満足そうに笑うと、海斗の隣に座った。真上から照り付ける太陽が、濡れた肌と髪を艶めかしく色付かせていた。


 心臓の不随意ふずいい運動うんどうは強く激しい。送り出した血液が頬を上気させ、脳をで上がらせ、正常な判断力をどこかへと押しやる。


「陽子さん……」


 海斗は熱い砂浜から体を引きがし、ほんの少し顔を動かした。ただそれだけで、柔らかい唇の感触が海斗のそれと触れ合った。冷たかった。心臓が送り出した温度が接触面に吸い取られたかのように、一瞬の後には海斗は我に返った。


 陽子は唇を噛んで、悲しげな色をたたえた目で海斗を見つめていた。


「あ、あの……」


 海斗は口ごもる。陽子は海水に濡れた顔を歪めて立ち上がる。彼女の身長の分だけ離れた距離が、遥か遠く思われた。


「さよなら」


 陽子は身を翻すと、走り去った。足取りの安定しない彼女の姿がロッカーへと消えるのを、海斗は呆然と見送った。追いかけようという気力は湧かなかった。



 長く自失していた海斗がようやく立ち上がってロッカールームに辿り着く頃には、陽子の姿はどこにもなかった。彼女が着替えを入れていたロッカーは空だ。海岸から続いた足跡を引き継ぐような水の跡が、タイルの上に彼女の軌跡を残している。


 自分が間違えたことを、海斗は察した。飛び込みの高揚感と水底の美しさに充てられ、別れの気配に急かされて、やらかした。後悔と羞恥しゅうちが心を染める。


 海斗は自分のロッカーを開けた。ロッカーの奥から自分がのぞいていた。ゴーグルの形に白く抜けた肌の中で、黒い目が虚ろに潤んでいた。


 顔はまだ乾いていなかった。



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