海が太陽のきらり SS
文月(ふづき)詩織
海のざわめき
一人分の足跡が海岸を覆う砂に刻まれている。
海斗は足跡の列の先端でふと立ち止まり、振り返った。
長く伸びた運動靴の
肥大化した太陽の上半身が、海面を茜色に染め上げていた。海斗はぼんやりと海を眺め、聴覚を
潮風が海斗の髪を揺らす。
それは
十七歳の夏。
受験が接近する中、海斗はこれと言って何もしていない。焦燥は募るが、何をしてよいのか解らない。自分が何をしたいのかさえ、海斗にはよく解らないのであった。
沈みゆく太陽を切なげに眺めている自分の姿は、あるいは青春の一ページのように見えるかもしれない。そう思うと
足早に沈む太陽に背を向けて、己が浪費した時間の痕跡を辿って帰ろうとした、まさにその時だった。
海斗は波間に人の姿を見つけた。夕日の残光を映す海から
絡みつく黒髪が、水に濡れた白い肌をますます白く浮かび上がらせていた。白いシャツが水を吸って肌に張り付き、下着をうっすら透かす。ハーフパンツは
太陽の
「まるで青臭い青春ドラマの一ページのようだね」
海水を滴らせながら無礼極まる言葉を吐いて、彼女は疲れたような目に悪戯っぽい光を宿した。
これが陽子と海斗との出会いだった。
*****
陽子。その名を海斗は幾度となく口の中で転がした。名は体を表すという。なるほど、彼女は正に太陽のような人だと、灼熱を投げかける真夏の太陽を苦々しく見上げて海斗は思う。熱を発して体を焼き、肉眼で見れば目が潰れる。
もっとも、海斗が己の名を体現しているかと言えば、そうでもない。海斗は海が嫌いだ。そもそも水が苦手だった。今までどれほどの人が水によって命を絶たれてきたことか。それなのに不要不急に水に入る人間の心理が理解できなかった。
「あれ、海斗くん。奇遇だね、散歩?」
横合いから襲いかかってきた声に、海斗は足を止めた。視線をやれば、夕暮れの海で一人、着衣水泳に興じていた破天荒な女性――陽子がそこに立っている。眩しい色合いのTシャツにショートパンツ、足はビーチサンダルという軽装だった。昨日感じた不吉さは鳴りを潜め、今はただ明るく眩しい。
「陽子さんは何をしているのですか?」
「私はまたひと泳ぎしようと思ってね」
陽子は寄せては引く海を示して、にこにこと笑う。
「海斗くんもどう?」
「遠慮します。水着もゴーグルもありませんし、貴重品も持っています」
「水着は買わなきゃいけないけど、それ以外ならそこで貸してもらえるよ。貴重品も預けられるし。よし、水着は私が買ってあげよう!」
陽子は海斗の手を掴んで引っ張った。海斗は湧き上がる不快感に歯を
されるがままに連れ込まれたのは、砂浜と
塩でべたつくドアを押し開けると、タイル張りの床の上に錆の浮いたコインロッカーが立ち並んだ狭い空間が二人を迎えた。カーテンに
陽子はゴーグルと水着を海斗に押し付けると、いきなり服を脱ぎ捨てた。下に着ていた水着が露わになる。
「じゃあ、これに着替えたら出て来てね」
有無を言わさぬ口調でそう言い置いて、陽子は建物の外に出て行った。海斗は眉の間に深い溝を作って彼女を見送り、不平を噛み潰してロッカーを開けた。
ロッカーの中には鏡が貼り付けられていた。しかめっ面の自分が、狭苦しい空間から
水着は陽子のものとそっくりな、明るい色の水着だった。あまりに自分にそぐわない浮ついた色味に目を焼かれて、海斗は覚えず黒ずんだ天井を仰ぎ見た。
世の中は盆休みの最中である。各地の海水浴場が浮ついた連中に埋め尽くされているであろうこの頃、しかしこの場所には海斗と陽子の二人きりである。名も知られぬ田舎の海水浴場に訪れる人は少ない。
陽子は砂浜に出るなり快哉を叫んで海へと駆けだした。海斗は冷ややかにその背を見送った。
海も雲も灰色だ。薄茶色の砂浜に、貝の屍が波の形を描いていた。潮に摩耗されて角の取れたガラスの欠片が、光を反射してキラキラと輝く。それを覆いつくすように、ゴミや海藻が浮力相当の位置に漂着して
海斗は砂浜に
忌まわしい真夏の太陽に
熱砂を駆け抜け、
陽子は目を丸くして海斗を見やり、
「楽しいですか?」
海斗は足をさすりながら、憮然として問いかけた。
「うん、海斗くんがとても楽しそうだったから」
そんなわけあるか、と海斗は
振り返れば、ロッカーの建物からここへと至るまでの足跡は深く、また広い。その足跡を刻む自分の姿を思い描けば、ただ
「ほら、泳ごう!」
「僕は泳ぐのが好きではありません」
「そうなの? なら教えてあげる」
「泳げない、とは言ってない」
海斗の苛立ちを知ってか知らずか、陽子は陽気に笑う。
「水に浸かっているだけでもけっこう楽しいよ。ほら、こっち」
またも陽子に手を掴まれて、海斗は
足の下で、砂が不気味に蠢いた。引く潮に乗じて、海斗を海へと引きずり込もうとしている。水が体に
海斗は必死になって平静を装った。恐怖感だけではない。泳いでみろと言われたときに
去年の夏、学年でただ一人泳げなかった海斗がプールの授業で受けた
決して砂から足を離すまい。海斗は譲らぬ一線をようやく定めた。もはや肩まで水に浸かっていた。
海斗の懸念は
海斗は体にかかる不気味な水圧に閉口しつつ、彼女に従った。砂浜から見れば弱々しく揺れるだけの波も、最中に身を置けば意外に強く体を押した。砂に突き刺した片足を軸に前へ後ろへ、波に小突き回される。
押し寄せる波の中で姿勢を保つことばかりを考えるうち、肩の力が抜けてゆく。自然と波に合わせることを覚えた。
波の中で
そうするうち、太陽は緩やかに傾き始めた。瞠目すべき時間の浪費。しかし、今の海斗は焦燥感とは無縁であった。
「なかなか良いでしょう」
「悪くないです」
「明日もここで泳がない?」
陽子の提案に、海斗は
「いいですよ」
自分でも驚くほど素直に海斗は答えた。
二人の身体を包む海水を通じて、陽子が微笑んだ気配が伝わってきた。
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