マフラーの季節
いぬい。
マフラーの季節
僕は春が好きだ。
これは特定の誰かに向けた告白ではなく、単に春という季節が好き、という話だ。
肌寒さを感じる日々も終わり、窓から差し込む暖かな日差しが眠気を誘い込む。少しだけ仮眠を取ろうと思ったが、部室の外から聞こえてくる活気ある声が邪魔をしてくる。そうか、運動部が部活動勧誘をする時期だもんな。そう納得し、制服のポケットから取り出したイヤホンを、何を聞くわけでもなく耳につけ、再び目をつむることにした。
「ねえ、せんぱい?」
「あの、無視ですか?」
「えっと、聞いてますか?」
「……音楽なら聞いてないないけど」
春の光を浴びながらの、貴重な睡眠を邪魔する後輩に僕は少しだけ冷たい態度を取る。別に嫌いというわけではない。むしろ可愛いとさえ思っている。ただ、部室で惰眠を貪るという背徳的行為が、可愛い可愛い後輩との会話に勝った。それだけの話なのだ。
「そのイヤホン何も聞こえてないんですか? それ、絶対わたしの声聞こえてましたよね。それで知らんぷりはヒドイです。無視はもっとヒドイです! シカトなんて以ての外です!」
「ごめんごめん。別に意地悪がしたかったわけじゃないんだ。ただ、どうにも眠くてね。多分この日差しが悪いんだと思う」
「いやそれせんぱいが悪いです。昨日はあまり寝てないんですか?」
「そうだね。本を読んでたら日を跨いじゃって。あまり夜更かしをするものじゃないね」
「やっぱり受験生になると寝る時間が減るんですかね。わたしなんて、昨日は10時間も寝ましたよ! 10時間!」
そう自信満々に答える彼女の髪を、窓から吹き込む風が優しく撫でる。春といっても、この時期の夕方はまだまだ冷える。寝るのを諦めた僕は重い腰を上げ、夕日の差し込む窓をそっと閉じた。外の喧騒も少しは落ち着いたようで、下校する生徒らを一瞥し、また元の席に戻った。
「10時間もよく眠れたね。まあ、寝る子は育つって言うし……あっ……」
「せんぱい、わたし今とても失礼な視線を感じました。風紀委員に報告してもよろしいでしょうか」
「いや待って、冤罪だよね。冤罪。ちょっと視線が泳いだだけで有罪なんて、僕はもう社会に出たくないよ」
「せんぱいって『女性専用車両があるなら男性専用車両も作るべき!』とか言ってそうですよね……」
「それはいくらなんでも偏見じゃないかな。僕だってある程度の分別はついてるつもりだよ?」
「まあ冗談ですよ。せんぱいの必死な顔も見れましたし、今日は許してあげます」
「それでも僕はやってない!」
僕はメリハリのある女性より、全体的に小柄な女の子が好きなんだ。と口に出しそうになったが、それを言った日には、卒業まで口を聞いてくれない気がして、意味もなくため息をついた。
外も暗くなり、部室を閉めて帰る旨を伝える。季節外れのマフラーを巻く後輩に「いっしょに帰りましょ」と言われ、少し動揺はしたが、なんとか顔には出さずに済んだようだ。
誰もいない校庭を二人で歩く。先週が見頃だった桜も、今では花びらが道を覆う。肌寒さを感じつつ、もし後輩と付き合ってたら今頃は手とか繋ぐのだろうか。などと厭らしいことを考えている自分がいた。そんな僕を他所に、隣からは流行歌の鼻歌が聞こえる。何度も同じサビを繰り返してるのがとても可愛らしい。
この夢のような楽しい時間も、校門を出れば終わりを迎える。遊園地から出たくない子供のような気持ちになり、僕は少しだけ歩く速さを遅くした。
「じゃあせんぱい。また明日です」
手を大きく振ってから、再びサビだらけの鼻歌を口ずさむ後輩を校門の前で見送る。少し歩いた先で一度振り返り、お辞儀をするのは彼女の性格なのだろう。
彼女の姿が見えなくなり、いよいよ夢のような時間が終わる。今夜は冷え込むと朝のニュース番組で天気予報士のお姉さんが言っていたのを思い出し、やっぱりマフラーを持ってくるべきだったなと少し後悔した。夜風に舞う桜を見ながら僕は走って帰ることにした。
「明日はこの桜の話をしよう」
そんなことを考えている僕はまだ、夢をみているのだろう。
マフラーの季節 いぬい。 @inui_s
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