第23話 妹
「先生、今日は車じゃないんですか」
一緒に予備校を出た松井が、地下へ下りずに駅へ向かう前戸の背中に声をかけた。フワフワと飛ぶように歩かれると、松井のさほど長くない足ではついて行けないのだ。
「うん」
今日は月一番の渋滞日で、車は富木の駐車場までだった。
「私は少し考え事をしたいので、ここのラウンジへ寄っていくよ。―――うん、それじゃ、さよなら」
前戸は天王寺駅の券売機前で松井に別れを告げた。一緒に改札を抜けてもいいのだが、ステーションビルのラウンジで骨休めというと可笑しいが、ここしばらく随分慌ただしい日々で、少し肩の力を抜いてぼんやりと時を過ごしたかった。エレベーターで五階へ上がり、ラウンジ奥の窓際のテーブルに腰を下ろし、ウェートレスにコーヒーとカツサンドを注文する。運ばれてきたコーヒーを飲みながら、前戸は暗褐色のガラス越しにぼんやりと眼下の景色に目を落とした。二十年前とほとんど変わらぬ街並みで、遼子と暮らしたマンションもそのままの姿で残っているが、正面ビルに隠されここからは見えなかった。
―――二十年も過ぎてしまったんだな。
最近、ぼんやりと物思いに耽ることが多くなった。以前の自分からは想像もできないことだが、なぜか思考が停滞気味で、しかも心がそれを楽しんでいる。運ばれてきたカツサンドに手をつけず、長い間、窓の外を眺めていたが、車の列がライトの帯に変わったのに気づいて、前戸はようやく腰を上げたのだった。
富木駅で愛車に乗り換え道路上をスムースにハンドルを握っていたが、泉北二号線へ入る交差点前で英会話のカセットテープを止め、前戸は自宅への幹線道路へ入らず急にハンドルを右に切って小代という集落へ進んだ。人影まばらな集落の外れに差しかかると、石津川の手前に、ぽつんと古いアパートが視界に入ってくる。妹の和江が三年前からここに住んでいた。アパート前の路上に車を止め、時計を見ると八時三分。妹の夫は塾でアルバイトをしている時間だった。車を出て、薄明りの中を二階の奥へ進む。坪田と書かれた部屋のドアをノックすると、
「はーい」
可愛い姪の返事とともに、和江の声が返ってきて古びたドアが開いた。
「あっ! お兄ちゃん」
意外な訪問客に、和江は驚きを隠さなかった。家にいたときと同じブラウスにカーディガンだったが、化粧っ気のない素顔のせいか、随分所帯染みて年齢以上に老けてみえる。
「ちょっと邪魔していいかな」
前戸が怪訝顔の妹に了解を求めると、
「御免なさい、ぼうっとして。どうぞ、狭いとこだけど」
慌てて招き入れた。
「おじちゃん、こんばんは」
ちょうど食事中だったらしく、姪の真澄がエプロンを着けて食卓の前に座っていた。
「真澄ちゃん、今晩は。お利口だね、ちゃんと話せるようになって」
姪の頭を撫でて、前戸も彼女の横に腰を下ろした。
「こんな時間に突然寄って、迷惑だったね」
「いいえそんなことないわ。でも何か用?」
湯飲み茶碗を差し出しながら、和江は怖々とぎこちなかった。
「いや、大した用じゃないんだが―――。おふくろから聞いているかな、俺が六甲の家を買うつもりなのを」
「ええ、こないだ聞きました」
和江は目を伏せて消え入るような声で答えた。
「‥‥‥そうか。実は買うことに決めたんだ。そのことで、一度お前にも話をしないといけないと思って―――」
前戸が次の言葉を選んでいると、和江が思い詰めた顔で先に口を開いた。
「お兄さん。六甲の家を買うのは私たちが原因なの? 私たちが可哀想だと思って、そんなふうに決めたの?」
和江の目から涙が溢れ出した。
「いや、そうじゃない。俺はあの家が気に入ったから買うことにしたんだ。それに遼子との生活を考えると、六甲で暮らすのが一番いいように思うんだ」
「遼子さんも、一緒にそこで?」
「うん。そのつもりらしい」
「‥‥‥そうだったの」
前戸一人で住むと思っていたのか、和江の顔に安堵の色が浮かんだ。
「そんなわけで、俺が出ていった後、お前たちが両親と一緒に住んでほしいんだ。両親も真澄ちゃんと暮らせると喜ぶだろうし」
「でも、あの家はお兄ちゃんのものだわ。‥‥‥私は、お父さんお母さんにまで散々迷惑をかけて、今もこんな状態で―――」
和江は両手で顔を覆ってしまった。
「いや、あの家は両親のもので、彼らを十分幸福にする者があの家をもらえばいい。俺と遼子はお前達ほど両親を幸福には出来ないと思うんだ。だから、お前たちさえ良ければ両親と一緒に暮らしてやってくれないか」
前戸が優しく語りかけると、和江の目に再び涙が溢れる。
「そりゃあ私たちがあの家に住めるのは嬉しいわ。茂満さんだってもっと勉強に集中できるし、真澄をゆったりとした広いところで育てられるのは何より嬉しいわ。でも‥‥‥」
前戸が黙って次の言葉を待っていると、
「でも、お兄さんや遼子さんが私たちの犠牲になるんだったら、‥‥‥辛いわ」
和江はハンカチを目に当てて、床に泣き崩れてしまった。
「和江、それは誤解だ。何も犠牲じゃないんだ。俺は俺たちにとって一番良いと思うから六甲に住むんだ。な、両親やお前に迷惑をかけているのは、むしろ俺のほうだよ。この年になるまで勝手気ままな生き方をしてきたんだ。これ以上、両親を俺に付き合わすのは酷というもんだよ。―――な、だからお前たちは何の遠慮もなくあそこへ住めばいいんだ」
真澄をあやしながら、前戸が優しく和江をなだめ自分たちの転居を説明すると、ようやく納得したのか、
「ありがとう。お兄ちゃんと遼子さんがそれでいいんだったら、そうさせてもらうわ」
ハンカチで涙を拭って素直に頷いた。
「―――ごめんなさい。お腹がふくれると、すぐ眠っちゃう子なんで。寝させますから」
前戸の膝で眠る真澄を受け取り和江は隣室の蒲団へ運んだが、戻ってきて兄の前に座り直した彼女の表情は明るさを取り戻していた。
「お兄ちゃん、知ってたんでしょ。私が城野さんのこと、好きだったのを。だからあんなことを言ったのね」
はにかみながら、和江は二十年以上もの昔に兄を連れ戻したのだった。大学入学直後も紛争中で講義がなく、城野は前戸の家へやって来ては時折泊まって帰ったが、操の入院中は三日に空けず、まるで下宿人さながらの前戸家の客人だった。操の治療費を得るためのアルバイト基地として前戸宅を使ったのだが、よく顔を合わせるようになると思春期の和江は兄の親友に淡い恋心を抱くようになった。傍目にも明らかに城野への想いが伝わってきたが叶わぬ恋なので、
「城野は一人の女性を愛している。おそらく、彼は死ぬまで彼女を愛し続けるだろう」
何気ない会話の折に、城野を諦めさせるべく、前戸は和江に伝えたことがあった。
「‥‥‥城野さんは今もその人と?」
和江は赤くなった顔を隠すように俯いた。
「そうだ。彼女の名前は鈴木操だよ」
「えっ! 鈴木操って、‥‥‥まさか、あのニュースキャスターの鈴木操なんじゃないでしょうね」
顔を上げて、冗談交じりに兄の顔をのぞき込んだが、
「そうだよ。その鈴木操だよ」
「えっ!」
兄の返事に和江は絶句してしまったが、次に彼女の口から漏れた言葉に前戸は顔をしかめた。
「鈴木操といえば、この前、不倫事件を起こしていたでしょう。‥‥‥そんな人と?」
「あれはでっち上げだ! ―――いや、大きな声を出して済まなかったが、鈴木操というのはね―――」
前戸は城野と操の二十年近い交際と、操の人となりを語って聞かせた。
「‥‥‥そうだったの。鈴木操って、そんな人だったの。私、誤解していたわ」
和江はようやく納得して、軽はずみな言動を恥じたのだった。
「俺も遼子も、彼らの生き方に多大な影響を受けてきたんだ。幼い頃、城野それに石川と巡り会えたことが、俺の生き方や価値観を決定したように思うんだ。堺から住吉まで越境通学した価値があったよ」
生涯の友といえる二人との出会いは、幼少時、住吉大社の境内から始まったのだ。遠い過去を振り返って前戸が微笑みを浮かべると、
「でも、お兄ちゃんと遼子さんもすごいわ。私、うらやましかったの。私も二人のような恋をして、いつまでも、―――死ぬまで若々しい人生を送りたかったのに‥‥‥、結局は平凡な恋愛しか出来なかったわ」
和江も微笑みを返したが、一緒に暮らしていた頃の、向日葵のような邪気のない笑顔だった。
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