第24話 貞光にて


「一体、何年ぶりかしら‥‥‥」

 ハンドルを握りながら、遼子の口元が自然とほころぶ。前戸と六甲の家を見に出かけた三日後の木曜日、彼女は四国へ向かって車を走らせていた。東京で操と会い、抱き合って泣いたのが、まだ一カ月も経っていない先月の六日だった。翌日には城野が駆けつけ、操は危機を脱した。テレビ局に辞表を提出し、大阪で城野と暮らす決意をしたのだ。遼子は見事に大任を果たしたのだった。

 ―――ありがとう、操さん。

 操と抱き合って泣きながら、遼子もある決意をしたのだ。おそらく、あの事件がなければ遼子もライフスタイルを変えることはなかったであろうが、操の苦悩は遼子に出産の決意を促したのだった。

「遼子さん、‥‥‥分かる? ねぇ、御両親を亡くし、孤独な健さんが一番望んでいたことは、子供を持つことだったのよ。でも、私は子供を産めないの。産みたくても産めないのよ。私の自堕落な生活でこんなことになって‥‥‥、健さんには何の責任もないのに。ねぇ、だから私たちが意図的に子供を持たない生活を選んだなんて、思わないで。後生だから。あなたの誤解で、前戸さんまで苦しめることになれば、私は辛くて堪らないわ」

 操の涙の告白に、遼子は時折彼女が自分に見せてきた、敵意を含む突き放す態度の原因を垣間見たのだった。

 ―――さあ、お祖母ちゃんに報告しよう。

 出産を決意して以来、遼子は高揚した気分に満たされ、動きたくて心と体が突き上げる衝動に支配され抑制できなかった。今週、月・木・金と、三日間も休暇を取ったのもそのためだった。

 祖母の死以来、意図的に避けてきた四国だったが、彼女の墓前への報告とともに、遼子には出産前にどうしても一度訪れておきたい場所が、四国には一つあるのだ。早朝、芦屋の自宅マンションを出たので七時前には明石のフェリー乗り場へ着いてしまった。隆盛を極めたカーフェリーも、今は見る影もなく、頑丈な剥き出しの鉄骨が往時をしのばせていた。時間帯のせいであろう、フェリー乗場に乗用車はまばらで、大型の貨物トラックが乗船ラインに沿って幾重にも並んでいた。遼子が三列目のコンテナ車の後ろへ車を着けようとすると、同時に進入してきた大型保冷車が急ブレーキをかけて道を譲ってくれた。

 ―――嫌だわ。

 苦笑しながら、遼子は保冷車の運転手に軽く会釈した。前戸の言葉を思い出したのだ。能登旅行以来、前戸は父の愛車だったこの車をよく運転するようになったが、周りのドライバーから受ける異常ともいえる好意的態度に呆れてしまった。

「私が女性だから親切にしてくれると思っていたのに、達夫さんの運転でも同じなのはどうしてかしら‥‥‥」

 遼子の問いに、

「我々を其のスジの者と誤解してんじゃないのかな」

 前戸は笑いを噛み殺し、運転席からポーカーフェースを向けたのだった。

「それじゃ、私はヤクザの奥さんと思われているの!?」

「いや、どちらかといえば、情婦との認識の確率のほうが高いんじゃないかな」

 最後までポーカーフェースを通すつもりが、前戸の口から白い歯がこぼれてしまった。

 ―――情婦なんて、失礼しちゃうわ。

 あながち的外れとは思えぬ前戸の指摘で、遼子はバックミラーに映る保冷車にふくれっ面を向け、フェリー会社の誘導員にまで無愛想な受け答えをしたのだった。

「本日のご利用ありがとうございます。間も無く御乗船時間ですから、係員の案内にしたがって、お車の移動をお願いいたします」

 乗船時間が迫ってくるとスピーカーの案内が一段とかまびすしく、乗り場もようやく活気づいて、遼子の脳裏に昔の賑わいが甦り懐かしさが込み上げてくる。幼い頃から、遼子はフェリーが好きで堪らなかった。父に連れられ、フェリーで数え切れないほど四国へ渡ったのだ。今回は愛車のリッターカーを利用するつもりだったが、出発直前、父の愛用だったこの車に替えた。安全面への配慮もあったが、四国へは父がこだわり続けた、彼の愛車で行きたかったのだ。このドイツ車には父の匂いが染みついている。父の体臭、好きだった煙草の匂い。愛用の整髪料の香りさえ、微かになってしまったが、遼子は車内でかぐことが出来るのだ。

 ―――お父さん‥‥‥。

 デッキでハーフコートの襟を立て、潮風に吹かれていると、幼い日の思い出が甦ってくる。父に連れられ鳴門の墓へ参ったとき、父は遼子を膝に抱いて、遠い日のことを話してくれた。

「‥‥‥遼子。お父さんが遼子と同じ歳にね―――」

 この言葉で始まる父の語り口調は三十年近く経った今も、遼子の耳の奥に深く刻みつけられていて、決して忘れられることはなかった。彼の父である遼子の祖父が、友人に手形を騙し取られて事業に失敗し、資産を失ったこと。貧しさも苦痛だったが、身近な人たちの裏切りと蔑視が耐えられなかったこと。そんな少年にとって神戸は憧れの町であり、神戸で暮らす夢を胸につらい日々を耐えてきたことを、膝の上の娘に優しく語りかけたのである。まるで少年の日の自分に話すような口調だった。フェリーの周りにはカモメが舞い、海は群青で空は透きとおるように青かった。

「‥‥‥でもお父さんは、お前さえいれば、もう何もいらない!」

 急に言葉につまると、震える手で膝の上の娘を抱きしめ背中に顔をうずめた。ブラウスの肩に落ちた熱いしずくは、初めて見る父の涙だった。

 二十五分の船旅は、思い出に浸るには短すぎて、追憶が「ボーッ!」と、泣くような汽笛にさらわれ波の彼方へ消えてしまう。着岸しても、遼子はお腹に手を当て海を見つめたまま、長い間デッキにとどまっていた。船内放送に促され、最後尾で兵庫南端の島へ上陸する。春は瑞々しい若葉の島が、枯れた渋い装いで不義理な通過人を迎えてくれる。時折の潮騒に送られ、澄んだ秋風を浴びながら高速で淡路島を駆け抜け、大鳴門橋を渡ると、そこは父の生まれ故郷だった。鳴門の墓には、母と不仲だった祖母が眠っている。

「お願いだから芦屋の墓へは入れないで。お父さんと一緒に眠らせて―――後生だから」

 息を引き取る間際まで、息子と孫の手を握り、何度も何度も哀願して、彼女は旅立って行ったのだった。

 ―――お祖母ちゃん‥‥‥。

 鳴門の墓参りは、遼子はもの心ついた時から嫌だった。父や祖母が石もて追われるように出た町は、好きになれるはずがなかった。墓の近くの、父が生まれた家も見たくなかった。人手に渡った大きな家に見下ろされ、祖母が小さくなって眠っているのかと思うと、祖母が哀れでならなかった。墓に手を合わせながら、六甲の新居近くに移す決意を、遼子は祖母に誓ったのだった。

 鳴門を出た遼子は西へ一路ひた走る。剣山の登山口にあたるという、美馬郡(現在は美馬市)貞光町(現在のつるぎ町)へ向かうのだ。前戸と城野の胸に、熱い青春の一ページを刻み込む貞光は、遼子が恋い焦がれてきた町であった。

〈四国三郎〉の異名を取る―――吉野川に沿う国道に案内され、お目当ての町に着いたのは正午過ぎだった。今夜の宿はまだ決めていないが、この町に泊まるか、徳島市内へ戻り徳大(徳島大学)医学部勤務の友人宅に泊めてもらうか、二者の択一であった。

 家々が軒を連ねる、狭い本通りのはずれを左に折れ、遼子は旧専売公社跡地前に車を止めた。すぐには降りず、シートを倒し、ゆっくりと体を伸ばす。体調は良く、何の不安もなかった。この町には真っ先にでも訪れたい家があり、当然訪問予定に入っているが、感動は少し先へ延ばそう。訪問先は、貞光を歩く機会さえ失わせかねないのだ。ドアを開けると、地面から湧き上がるせせらぎが心地よい響きで旅人を迎えてくれる。見上げる周囲の山々はカラフルな衣をまとい、秋化粧を競い合っていた。

 遼子はせせらぎに誘われるように、民家の軒先の細い坂道を下って、貞光川へ下りる。吉野川へ注ぐ河口近くなので川幅は広く、川原には上流から運ばれた白い砂利が、角もあらわに堆積していた。

 目を対岸に向けると、正面の山肌に点在する家々は、主の歳を写すかのようにどれも寂しく、ひっそりと、牧歌的な佇まいであった。向こう岸へ渡された、欄干のない狭いコンクリート橋を、過去へ戻るように、ゆっくりと、対岸まで歩く。目の前に、若き日の前戸と城野、石河がふざけながら駆けて来そうな錯覚に陥ってしまう。

 ―――楽しそうに、三人でこの橋を渡ったのだろう。

 勉強をそっち退けにして。

 ―――私には及びもつかなかった青春の日々を、ここで送ったのね。

 遼子は川上にそびえる山々を仰いで、両手を広げた。産まれてくる子を祝福してもらいたいのだ。

 ―――もし男の子が産まれたら‥‥‥。

 父親と同じ青春の日々を送ってもらいたい。そして強くたくましく育ってほしい。

 ―――もし、女の子だったら‥‥‥。

 考えるのはやめよう。遼子は首を振って苦笑いを浮かべた。二人して、どれほど甘やかすか想像に難くないのだ。大きな溜め息を吐くと、遼子はゆっくりと対岸まで歩いて来し方を振り返った。対岸から見る貞光の家並みは、変化を忘れた、過去そのものの姿で遼子の前に佇んでいるのであった。

 棚田に点々と煙る野焼きや、田の畔の柿の実を飽かず眺め、遼子は高度順化ならぬ、時間順化をゆっくりと果たす。間もなく、会ったことはないが懐かしい女性に会いに行くのである。〈古田のおばさん〉の名は、前戸と城野に幾度聞かされたことか。それこそ、耳にタコが出来るくらいなのだ。本通り中ほどの、看板も色あせた洋菓子店を訪れ、三人の下宿先だった古田家への道を尋ねると、

「すぐそこの、その道を上がったとこにあるけん。すぐそこじゃけんな」

 老店主が震える手で菓子折を手渡し、ショーケース越しに右手を伸ばして指先を曲げた。教えられたとおりに本通りを折れ細い路地を五十メートルばかり西へ上がると、古田と小さく墨書された表札が引き戸のついた門に掛かっていた。引き戸は閉じられたまま鍵が掛けられていたが山側の平屋に勝手口があった。

「ごめんください」

 カラカラとくもりガラス戸を開け、屋内に挨拶する。

「はいはい」

 板の間の奥に、古田のおばさんがドテラを着て座っていた。医師としての見立てでは明らかに九十を越す高齢だった。座椅子に座りはいはいと答えるだけで目と耳の反応は乏しかった。年齢を加算し修正を加えたつもりだったが時間とは残酷なものである。想像を絶する変化に戸惑いながら、遼子が次の言葉をかけようとすると二階の掃除機の音が止まり、

「はーい」

 右手の階段から、遼子と同年輩の着物姿の女性が顔を出した。遼子の容姿に少し驚いた様子で、

「‥‥‥あのう、どちら様でしょうか?」

 ぎこちない仕草で姉さん被りを外したが、うりざね顔と涼やかな目元が石河香苗と瓜二つだった。

「ひょっとして、石河香苗さんの、お身内の方ですか?」

 自己紹介も忘れ、遼子は思わず尋ねてしまった。写真の香苗に、それほど酷似しているのだ。

「はい、香苗の妹の今日子ですが‥‥‥」

 石河という名字を聞いて、今日子は一瞬、怪訝な表情を浮かべたが、すぐ板の間に膝を折って、

「義兄の、お知り合いの方ですか?」

 緊張した面持ちで遼子を見上げた。

「はい。熊谷遼子という者です」

 と答えるつもりが、

「はい、前戸の家内です」

 口に出してから遼子は少女のように赤くなってしまい、苦笑しながら頬を右手で包んだ。

「えっ! 前戸さんの! ―――おばさん! おばさん! 前戸さんの奥さんじゃって。ほら、―――ほら、覚えとうだろう。石河さんのお友達の、あの背の高い前戸さん!」

 今日子はおばさんに駆け寄り、彼女の手を軽くたたいて、嬉しそうに耳元で呼びかける。

「うん、‥‥‥うん? エッ、前戸さん!」

 おばさんは認知症が進んでいるのか反応はぎこちなかったが、前戸の名前を口にすると大粒の涙が頬を伝ったので深刻な事態ではなく、年齢を勘案すると軽度と言ってよいのであろう。

「済みません、涙もろくなってしまって。それに耳が遠くて」

 おばさんの涙を拭きながら、今日子は向かいに腰を下ろした遼子に、気遣いを見せる。

「いいんですよ、気になさらなくて―――。それに私、こう見えても医者ですのよ」

「えー! 本当ですか?」

 よほど驚いたのか、今日子はハンカチを動かす手を止めて遼子の顔をのぞき込んだ。

「ええ」

 苦笑しながら立ち上がると、遼子はおばさんの手を握って脈をとり、注意深く病状と健康を調べる。あまりの時間ギャップに一瞬戸惑い後悔したが、矢張り会って良かった。暖かい手の温もり、嬉しそうな笑顔‥‥‥。帰って前戸と城野に、邪気のない寝顔も見た自慢をしよう。貞光は、もはや二人の専売特許ではなくなったのだ。

「ね、今日子さん。おばさんが眠られたので、三人がお借りした部屋へ、案内していただけないかしら」

 蒲団を掛け終え、遼子が台所の今日子に勉強部屋への案内を頼んだ。

「今は使ってないんですが毎日掃除はしてるんですよ。掃除だけが私の取り得ですから」

 はにかみながら今日子は微笑んだが、彼女の言葉通り、渡り廊下の奥の部屋は塵一つ無く綺麗に片付いていた。明かり障子が部屋の隅々まで照らし白檀の香りが渋く上品だった。

 ―――あの人は多分、ここに座っただろう。

 中央の座り机に目をやり、遼子はくすっと笑った。鉢巻き姿で机に向かう、初々しい前戸が目に浮かんでくる。

「‥‥‥ね、今日子さん。今夜、私をこの部屋に泊めていただけないかしら」

 書院風の離れで、貞光の秋の夜長を、三人の若者たちと共有したくなったのだ。

「ええ、かまいませんとも。家へ帰って、すぐ蒲団を持ってきますから。ほん近くなんです」

 今日子も遼子をこのまま帰したくはなかった。三軒隣に住み、バツイチで、子供と二人暮らしだと屈託なく笑って帰り仕度をする。

「月々、姉から過分のお金が送られてくるんですよ。大した世話もしていないのに、‥‥‥ご免ね、ご免ねって、いつも涙声で」

 今日子の言葉に、遼子は胸が締め付けられ目頭が熱くなった。何て律儀な人たちであろう。三十年も前にくれた、たった一つのチャンスを、香苗は決して忘れようとしないのだ。老婆が亡くなるまで、この姉妹は彼女の世話を続けるのであろう。濃やかに淡々と―――。

「ね、遼子さん。今夜、私もここに泊まりますから、遼子さんの横に蒲団を敷いてもいいですか。お話したいんです、遼子さんと。‥‥‥もし、お嫌じゃなかったら」

 帰りぎわ、今日子は遠慮がちに、さきほど見せたはにかんだ仕草で遼子を見上げた。

「ええ」

 遼子はこぼれる笑顔を今日子に返した。願ってもない語り部の出現なのだ。貞光で生まれた―――石河と香苗の、世紀の恋。少女の目で見た―――高校時代の前戸と城野が、今夜、四国の小さな町の、小さな部屋で語られようとしているのだ。生涯、忘れられることのない、貞光の夜の予感であった。


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