第22話 遼子の決意
四十も後半を過ぎると一年は驚嘆するほどの短さで、坂道を転がるが如き速さで年を取ると俗耳に入っていたが、正にその通りの我が身の実感であった。ほんついこないだ新年を迎えたと記憶に新しかったのに、気がつくとすでに十月最後の日曜日が訪れていたのだ。
「今夜は帰らないから」
母に告げず、前戸は居間の父に伝え七時過ぎに家を出た。愛車のヘッドライトに導かれ富木の作業場に着くと、デスクに書類とパソコンを広げ六甲の家購入の資金計画に取りかかった。ジェームズ教授宅購入は前戸の一存で決まるもので、遼子の反対は数学的表現を借りれば限りなくゼロに近い、というより確率はゼロそのものであったのだ。結局残された最後の問題は購入資金の捻出に尽きるといってよかったが、遼子の援助を排除したい前戸としては、難題だった。手持ちの資金は半額を満たすだけで、残部はローンで賄われねばならなかった。記録的といって良い低金利状況は確かに有利ではあるが、それでも月々の返済は馬鹿にならず、講師料及びテキストの印税の大半が消えてしまう計算だった。
―――何とかなるか‥‥‥。
パソコン画面をにらんで、前戸は渋い顔で舌打ちをした。三時間近くかかって懸案の資金計画がようやく完成したのだった。今月は多忙を極める月で、センター試験の予想問題に模試の作成、(他校生も)オープン参加の特別講義まで週一回、土曜日に組み込まれてしまっていた。そんな中で、貴重な安息日の今日も日中は予備校関係の仕事に忙殺されたが、資金計画はライバル潰しのためにも緊急懸案事項であったことから早急の作成が必要であったのだ。
―――よし! これでいい、間違っていないな。
もう一度計算をし直し、前戸はプリントアウトされた計画表に確認印を押す代わりに、指でトン、と叩いたのだった。椅子の背もたれで体を伸ばし、宝塚のマンションにいる遼子に電話して往訪を伝える。
「うん、今すぐ出るから」
十一時前に作業場を出て、澄んだ星空を見上げると吐く息が白く棚引き、瞬きのうちに天空へ吸い込まれてしまった。薄手のブルゾンでは風邪を呼び醒ます夜の冷気なのだ。宝塚へ着いたのは、途中深夜レストランで軽食を取ったので、腕時計の日付は翌二十九日の午前零時三十二分だった。
「思ってたより遅かったのね」
彼女はいつものようにリビングのテーブルで書きものをしていたが、前戸が入ってくると万年筆を動かす手を止めた。
「うん。軽く食事をしてきたから」
鞄を足元に置き、遼子の向かいの椅子を引いて腰を下ろす。
「冷蔵庫に簡単な材料だったらあると言ってあったのに。―――気を遣ってくれたのね。それじゃ、お茶を入れるわ」
遼子はテーブルの専門書や書きかけの原稿を片付け、書斎へ運ぶ。
「六甲の家、お買いになるの?」
書斎から戻ると、前戸を背後から抱いて耳元でしんみりとささやく。背中を押す柔らかな胸と、湯上がりの匂いが何ともいい表しようがない。
「そのつもりだ」
おもむろに答えて、唇を合わせようと振り向くが、
「ううん、駄目よ―――。少し聞いてほしいことがあるの。それに六甲の家のことも伺いたいわ」
遼子は首を振って、前戸の腕から逃れてしまった。彼の向かいの先程まで座っていた椅子に腰を下ろすと、神妙な面持ちで家の説明に耳を傾けていたが、
「‥‥‥そう、土地が百坪近くもあるの。―――私も来年、そこへ引っ越してもいいかしら。一緒に暮らしたくなったの。城野先生と操さんも近々一緒に暮らされることだし。―――ねぇ、いいでしょう」
前戸が話し終わると、遼子は甘えるような仕草で前戸の顔をのぞき込んだ。
「うん」
一緒に暮らすために購入を決めたといっても過言でないのだ。
「ありがとう。―――ね、明日六甲の家を見に連れていってくださらない。休暇をもらってあるから。達夫さんも、明日は四時限目だけだっておっしゃってたでしょう」
「うん」
遼子の用意周到に、前戸は苦笑いを浮かべてしまった。ゆっくりと紅茶を味わい、取り留めのない遼子の話に相槌を打っていると、さすがに長い秋の夜も時間の遣り繰りがつかなくなってしまい、遠慮がちな睡魔の力を借りて遼子を現実に連れ戻した。
「あ、大変。もう三時前だわ。私ったら、‥‥‥さあ、もう休みましょう」
軽い欠伸のあと、リビングの柱時計に目をやり遼子は自分の長話に呆れてしまった。丘陵にあるマンションの八階は未明近くともなると一段と冷え込みを増し、外気は寝室の窓ガラスを水滴で濡らすが、室内は空調が効いてもちろん寒さは感じられない。むしろ互いの肌の温もりが心地好い汗をもたらしていた。
「‥‥‥ねぇ、これまでのようにしなくていいから。―――ね、中へ」
唇が離れたとき、遼子は前戸を見上げ恥らい気味にささやくと、赤くなった顔を隠すように彼の首に腕を絡ませたのだった。就寝が午前四時近くであり、起床は翌朝というわけに行かず当日になってしまったが、八時過ぎに二人ともカーテンから漏れる眩しい光で目を覚ました。
「もう、本当に意地悪な朝の光ね。もう少し眠っていたかったのに。ちょうど顔のあたりを照らすんだもの―――。ちゃんと、カーテンを引いとくんだったわ」
遼子は窓にふくれっ面を向けて、毛布を頭から被ってしまった。前戸が起き上がってカーテンの隙間を埋め暗くしてやると、毛布は外したが、そのままベッドに留まっていた。何か物思いを楽しんでいるふうで、前戸が朝刊を読み終え、柔軟運動と簡単な小太刀の組み技をしていると、
「おはよう。一緒にシャワー、浴びましょうか」
ネグリジェ姿で、十時前にようやくリビングに顔を出したのだった。野菜ジュースとトーストで朝食を済ませ、うっとりと夢見心地の遼子を乗せて、車が六甲に着いたのは正午前だった。小路の奥の家が目に入ると、
「まあ、〈アンの夢の家〉みたいな素敵なお家」
小さく叫んで、少女のはしゃぎようだった。
「ね、〈赤毛のアン〉って、ご存じ?」
長い間、ジェームズ教授宅に見入っていたが、満面の笑みを浮かべ前戸を振り向いた。
「うん」
至福の笑顔に釣られ、前戸の顔も自然とほころぶ。小説は読む機会に恵まれなかったが、モンゴメリーが作り出した小説の主人公くらいの知識は当然持っているのだ。引っ越しの邪魔をしないよう、二人は小路の中ほどに立ち止まって家を眺めていたが、学生たちと一緒に庭へ出てきた教授に見つかってしまった。
「ハーイ。ミスター前戸ノ奥サンデスネ」
二人に駆け寄ると、老教授は遼子を抱きしめ頬にキスをしてしまった。
「ナイス・ツー・ミート・ユー」
さすがの遼子も照れてしまい、赤くなって手を差し出した。
「サア、入ッテ、入ッテ。カマイマセーン。ネバー・マインド」
引っ越しのじゃになってはと、恐縮しながら固辞する二人の肩を押して、ジェームズ教授は玄関へ入れてしまった。引っ越し荷物は大半が書物のようで、廊下はおろかゲストルームにも所狭しと〈BOOK〉表示の段ボール箱が積み上げられてあった。
「ドウゾ、サア、ドウゾ」
学生たちが作ってくれた空間に二人を誘い、ジェームズ教授は紅茶を勧める。
「美味しい!」
段ボールの山に囲まれて飲む、本場のブラックティーの味はまた格別なのだ。遼子は飛び上がらんばかりの喜びようだった。
「サンキュー」
ウィットに富むユーモアまで供されると、文句なしに最高の贅沢で、遼子はサンキューの連発だった。教授とは完全に意気投合してしまい、来年中にスコットランドを訪れる約束までする始末だった。
「さあ、そろそろ御暇しなくちゃ」
昼食を終えた学生たちが入ってきたのを機に前戸が促すと、遼子は渋々腰を上げたが、未練たっぷりだった。
「何て素晴らしい家でしょう。それに、何て素敵な先生なの。故郷のスコットランドを離れて、この日本で四十年も学究生活に携わってこられたなんて‥‥‥。私にはとうてい真似の出来ないことだわ。今日は人間の素晴らしさを存分に味わわせてもらった―――」
老教授が見えなくなっても、遼子は何度も立ち止まっては小路の奥を振り返っていた。
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