第21話 六甲の家


 十月も下旬ともなると急に秋の気配が深まりを見せ、木の葉も俄に赤と黄の渋い衣をまとい始めた。前戸家の庭では楓と銀杏の変化が特に鮮やかで、蜜柑や松の緑と目にまぶしいほどのコントラストを競い合っていて、ようやく疑いを入れることのない枯れ葉の季節の到来であった。近年の特徴になって久しいが、温暖化とエルニーニョないしラニーニャの競合のため、安定を欠く気候は不規則な猛暑と寒冷をもたらし、専門家の予測さえ困難にしていた。今年も九月末には初冬を疑う霜の降る寒い朝が訪れ、猛暑が襲った列島を震え上がらせてしまった。が、ここに至ってようやく第三の季節、遅く短命な秋が飛来しその営みを見せ始めたのだ。

 ―――x+y=aかな‥‥‥。

 小太刀を持ったまま、組み技もせず前戸は苦笑いを浮かべた。秋の背後に、すでに冬の気配が濃厚に漂い、今まさに取って代らん勢いを感じてしまうのだ。このように、猛暑の後に短い秋と厳冬が飛来し、結局は猛暑が厳冬と相殺され、トータルでは一定値に収まるのではないだろうか。ヘルムホルツやマイヤーのエネルギー不変の法則、これに似通った思い付きが頭を過る。

 ―――人生や恋にも当てはまるのかな。

 一次関数式がアバウトにでも当てはまるものなら、激しい恋は短く、穏やかなそれは細く長く続くという結論に至るのだが。

 ―――さて、俺と遼子のはどうなんだろう。

 苦笑いを浮かべながら、急に思いついた仮説に自分と遼子を当てはめようとするが、もちろんうまく行くはずがなかった。修正を図り、新たな仮説を探っていると、例の医療ミスが頭をもたげてきて気紛れな仮説を根底から揺り動かす。

 ―――小児外科で起こったのなら、亡くなった子供の人生は一体なんだったのか。

 余りに短く儚すぎて、しかも激しく命を燃やすこともなかったのだ。

 ―――やはり駄目だな‥‥‥。

 いかにシンプル・イズ・ベストといっても、一次関数で表わせるほど、人生は単純ではないのだ。

 ―――いや、待てよ。

 だからこそ、その子は俺に取り付いて、せめて両親、特に母親に真実を知らせてほしいと願っているのかも知れないのだ。自分の生きた証を母親の心と体を借りて、思いの丈、叫びたいのではないのか。

「許すなっ! 忘れちゃいやだーっ! 生きたかったのにーっ!」

 と慟哭を求めているのではないのか。

「タァー!」

 前戸は目の前の槙に激しい気合いをぶつけ、太い幹を小太刀で薙ぎ払った。足を送り、体制を整え上段に構える。と、同時に枝に小太刀を振り落とし、中段に構え、小太刀を腰に収めた。いつもは静かでスムースに流れる組み技が、今日は激しく息も荒く乱れてしまった。半眼で体を沈め、息を整えていると、 

「‥‥‥達夫、電話なんだけど」

 普段と違う気合いと動きに恐れをなしたのか、縁側のガラス戸を開けて母はぎこちない仕草で息子を呼んだ。

「うん」

 芝生から地肌を踏み、沓脱ぎ石まで足を運んで電話の子機を受け取ると、

「やあ、前戸。俺だよ」

 懐かしい声が前戸の耳に飛び込んできた。大学の四年間、剣道部で苦楽を共にした、親友の清水嘉津男だった。卒業後、彼は母校の大学院へ進み、現在、文学部の助教授をしている。

「な、前戸。お前、六甲にいい家はないかって言ってただろ。いい物件があるんだ。見に来ないか」

 八年前、OB会で前戸が冗談交じりに述べた言葉を清水は覚えていて、わざわざ電話をくれたのだ。神戸外大(外国語大学)教授が年内に退官し、スコットランドへ帰国するため、住み慣れた家を売りに出しているとのことだった。

「そんなに良い物件なのか。―――ほう!」

 詳しい事情説明を受けると条件は悪くなく、金額も周辺地価に較べかなり安価だった。

「早速だが明日の日曜日、見に来ないか。早くしないと人手に渡ってしまいそうなんだ」

 余程の好物件であるらしく、清水はライバルの存在を示唆するのだった。

「―――分かった。明日はこれといった予定がないし、久し振りにお前の顔も見たいから宜しく頼むよ。それじゃ」

 清水に案内を頼んで、前戸が受話器を母に手渡すと、

「電話の内容は何だったの?」

 会話の流れが耳に入り大凡(おおよそ)の察しがついているのだろう、母は不安な面持ちで前戸の顔をのぞき込んだ。

「六甲にいい家があるんで、見に来ないかって言うんだ」

「いい家って、それ、売り家のこと?」

 小太刀を取りに戻ろうとする息子に、和子は戸惑いを隠さなかった。

「そうだよ」

「そうだよって、‥‥‥それじゃ六甲で家を買って、ここを出て行くというの? ねぇ」

 哀願と非難を含む口調で呼び止められると、前戸も等閑にできず、仕方なく真意を伝えた。

「この家には和江たちが住むのがいいように思うんだ。俺と遼子の生活がこのままだったら、あなたたちも困るだろう。ちょうど良い機会かも知れないよ」

「そんなこと言ったって、この家は私たちが死んだらあんたのもんだよ。お母さんは嫌だよ、そんなこと‥‥‥」

 言い終わる前に、眼鏡の奥の和子の目から涙が流れた。最近、特に涙もろくなってしまったが、年のせいだけではもちろんなかった。

「あなたたちの老後は、和江に見てもらったほうが良いだろう。遼子は仕事があって、とても和江ほどの面倒見は出来ないよ。老後を十分見てくれるんだったら、この家は和江が取ればいい。裕美子のためにも、お祖父さんお祖母さんと一緒に暮らすのが一番だよ。今度、一度ゆっくり話し合おう、和江と裕美子も交えて」

 前戸は孫の名前を出して、まだ何か言いたそうな母の口を封じてしまった。最良の結論との自負があり、母の涙や説得程度で容易に変わる見込みはなかったのだ。

 翌日の日曜日、遼子は患者の子供たちとのハイキング予定が組まれていて同行は無理なので、前戸一人が清水の案内を受けることになった。行楽地への車の渋滞を考え、愛車はやめて、前戸は久方ぶりに阪急神戸線の世話になることにした。待ち合わせの午後二時少し前に六甲駅の改札をくぐると、清水はすでに来ていて、

「おーい、前戸。ここだ、ここだ!」

 小さな体に似合わず、大きな声で迎えてくれる。

「久し振りだな」

 八年振りの握手を交わし、互いの変わり用に軽口をたたき合う。

「ロマンスグレーだよ。どうだ? 教授っぽく見えるだろ。その準備さ。―――ま、互いに若いエネルギーに接しているので、精神年齢が若いのが共通点だな。さあ、俺の車で行こう」

 鬢(びん)に数本白いものが混じっているのを攻撃されると、清水は減らず口をたたいて親友を笑わせた。行楽客に混じって六甲ケーブル下行きのバス停近くまで歩き、神社前に止めてある清水の車に乗り込み、彼の運転で六甲山へ向かう。山が海に迫る土地柄であってみれば、南北道の急坂は致し方なしとしても、住宅街を過ぎるとカーブと傾斜が一層険しさを増し、時折、天空に向かうのではとの錯覚に車も体も陥ってしまうのだ。フロントガラスには大学のキャンパスや港それに六甲山系の山々が目まぐるしく映し出されていたが、六甲台から然程遠くない平地の奥に清水は車を止めた。金木犀が四本、こんもりと四隅に植わり、橙黄色の小さな花が空間を閉ざすように甘い香りで平地を覆っていた。

「ここが駐車場だ。ここから歩いて五分くらいかな。‥‥‥静かだろう」

 北西を指さし、小柄な清水が前戸を見上げて笑った。

 アスファルト道を一00メートル近く上り、山腹に沿った細い石垣道を並んで歩く。桜の木が等間隔に植えられ、褐色の落ち葉がまるでジュウタンさながら小道を覆っていた。起伏の少ない、程よい幅の渋い散策道を左に折れると、なだらかな傾斜の小路の奥に、右が山の斜面に護られ、広い庭が崖で途切れた、清楚な洋風館がひっそりと建っていた。山あいから漏れる光に、家も大地もセピア色に静まり、閉ざされた時空の趣であった。落ち葉を踏みしめ、清水の後から白い小さな門をくぐる。レンガ敷きのポーチを歩いて玄関に着くと、清水はジェームズ・ブラウンと書かれた表札横のベルを押した。

「ハーイ」

 舌のからんだ外人特有の返事が屋内から返ってくる。

「ハーイ、清水サン」

 木製のドアが開き、背の高い老外人が顔を出した。身長は前戸と変わらないが、書物に親しむ時間が長いのか、少し前かがみだった。

「コンニチハ、ヨウコソ」

 清水が紹介する前に、老教授は流暢な日本語で前戸に握手を求めた。

「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」

 手を差し出す前戸の顔も自然とほころぶ。手を握り顔を見合わすだけで、百年の知己にも勝る親しみと信頼が伝わってくる。伊達に年は取っていないのだ。彫りの深い端正な面立ちと豊かな口髭。右指のシルバーリングが、若き日のダンディズムをしのばせる。前戸は一目見て、老教授が好きになってしまった。そこはかとなく漂う気品。さりげなく羽織るタータンチェックのブレザーも、上品で嫌みがなかった。気品のある自由主義者としての人格の確立。前戸の理想だが、目の前の老教授はシンボルともいうべき存在感を漂わせ、前戸に明確な指標を示していた。

「ドウゾ」

 挨拶が済むと、教授は玄関右の広いゲストルームへ二人を招き入れる。ゼミ用に使っているのか、テーブルとソファーの周りに椅子が放射状に並んでいた。

 紅茶を味わい、教授の案内を受ける。広い廊下の片側には大きな部屋が三つ。最初が、いま出て来たゲストルームで、次が寝室、一番奥が書斎だった。

「良イ眺メデショウ」

 廊下にはガラス戸が十二枚も並び、庭と山々が一望できる仕組みだった。吸い込まれるが如き深い眼下の谷間に、急流が白い糸を走らせ、山水画を彷彿させる世界であった。遠景を楽しむため、庭の木々は低く刈り込まれ、足元の椿がピンクの可憐な蕾をつけて風に揺らいでいた。ゲストルームへ戻り、奥の畳敷きの居間へ入る。十畳余りの広さで、中央に掘り炬燵が埋め込まれてあった。火の無い炬燵に足を下ろし、教授から詳しい契約内容を聴く。家を大切に残すという前提さえクリアすれば、その他の条件はすこぶる良かった。売却代価一つとっても、周辺の地価に較べ驚くほど安価という好条件なのだ。

「コノ辺リハ、生マレ故郷ノスコットランドニトテモ似テイテ、充実シタ四十年ヲ過ゴサセテモライマシタ。アイ・ラブ‥‥‥」

 言いかけて、教授は言葉を切った。前戸に対する気配りなのだ。

「アイ・シー」

 前戸も短い返事と笑顔にとどめた。教授の意向に添う形でこの家を守っていくつもりだ。

「サンキュウ」

 真意が伝わったのか、老教授の笑顔はイタズラ仲間に返す、少年の仕草だった。

 三時間近くも長居し、教授に別れを告げたときは五時を回っていた。

「どうだ。いい家だろう」

 坂道を並んで下りながら、清水が夕陽に染まる顔で見上げた。

「ああ、気に入ったよ」

「俺はできれば、お前に買ってほしいんだ」

 言われなくともその決意だが、前戸は、なぜ? という顔を親友に向けた。

「うん。何度もあの先生の家へ御邪魔してると、あの家が好きになって堪らないんだ。かといって、大学教師の安月給じゃ買えるわけもないし。前戸、お前ならあの家を大事に残してくれるだろう。―――そうだろ、そうだな! ハハハ」

 最後に白い歯を見せ、清水は豪快に笑った。前戸の決意を読み取った顔で、学生時代、

「小手ー!」

 と、鮮やかに一本取られた時の、まさにあのしたり顔だった。


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