第20話 操の決意
十月も半ばを過ぎてしまった十七日の水曜日、操は半月振りに城野のマンションを訪れた。彼に会うことだけを考え時をしのいできたので、一日千秋というと大袈裟だが、一日がまるで一年のように長く感じられる日々だった。遼子に叱り飛ばされてから、まだほんの十日あまりしか経っていないとは未だに信じられないほど長く感じられてしまうのだ。
―――あのときの遼子さんったら‥‥‥。
恐ろしいほどの迫力があった。操の弱い性根を叩きのめしてくれたのだ。
JR阪和線杉本町駅の改札を出て、階段を下りながら操は苦笑いを浮かべた。城野のマンションへは地下鉄我孫子町駅からのほうが若干近いのだが、彼女はいつも阪和線を利用する。新幹線との接続が便利なこともあるが、地下鉄に乗りたくないのが大きな理由だった。地下鉄車内にいると、なぜかバリケードの中での起居を思い出してしまい、暗い陰鬱な感覚とともに苦い後悔が呼び覚まされ、顔を隠し耳を塞ぎたくなってしまうのだ。踏切を渡り、大阪市立大学キャンパスに沿って歩いていると、大勢の学生たちと行き違う。若いって、本当にいい。若いというだけで、輝いて素晴らしく見える。良いものというのは、年輪を重ねるにしたがい価値を増すもの。前戸の評価パタンであり、操も文句なしに賛意を表するものであるが、すれ違う学生たちを見ていると彼らの若さには、マイ・ハッツ・オフ、正に脱帽の心境だった。
―――年を経るにしたがい価値を増すもの、‥‥‥か。
年とともに輝きを増す努力を怠ってきたわけではもちろんなく、絶えず上を向いて歩いてきたつもりだった。知的で落ち着いていて、優しく、それでいて芯の強い女性になりたい。そう思って自分なりに努力もしてきた。熊谷遼子を理想にもしてきて、少しは近づけたと自惚れていたのに‥‥‥。あの過去の忌まわしい暴露記事は、その自惚れをぺしゃんこにうちひしいでしまった。
―――また一からやり直しだわ。
キャンパスの外れで、操は立ち止まって大きな溜め息を吐くと、ボストンバッグを右肩に担ぎ直した。幹線道路を横切り、しばらく北東方向に歩くと右手に城野のマンションが見えてくる。このマンションに通い始めて五年になるが、今日ほど安堵と愛着を持って眺めたことはなかった。エレベーターを降り、五O五号室の前に立ってドアホンを押すが返事はなかった。ボストンからキィーホルダーを取り出し、遠慮がちに鍵穴に差し込む。夏の間は留守部屋のドアを開けると、むっとした熱気が襲ってきたが、十月も半ばともなるとさすがにそれはなかった。玄関に荷物を置き、操は廊下を歩いて一つ一つドアを開け、ゆっくりと部屋の隅々まで見回す。二、三日に一度は掃除をしているのだろうが、廊下の奥や部屋の隅々には埃がたまっていた。掃除機の吸い残しを見て、操はクスっと笑顔がこぼれ名状しがたい安堵感に包まれてしまった。普段着に着替え、部屋中の窓を開けると、居間から順に手際良く掃除機をかけて行く。すでに四十を超えてしまったが、年齢より相当若く見られる。健康には人一倍気を使ってきたし、透き通るような色白の肌も味方していた。それに肉薄の理知的な面立ちも、年齢を引き下げる大きな武器だった。
「ふぅー」
部屋の掃除を終え、キッチンで洗い物をしていると、五時過ぎに城野が帰ってきた。慌てて廊下へ出たものの、城野と顔を合わせるのは何とも決りが悪い。
「お帰りなさい。‥‥‥お邪魔してます」
俯いたまま、操は消え入るような声で彼を迎えた。
「何を他人行儀な。ここは俺と君の家だ。遠慮なんかいらないよ」
普段通りに振舞おうとするが、城野もしっくりとせずぎこちなかった。
「御免なさいね、ご迷惑をかけて。遼子さんにも随分叱られちゃったわ。もう泣き言は言いませんから、ここへ置いてください」
操は俯いたまま遠慮がちに語りかけていたが、最後は恥じらうように頬を染めた。
「‥‥‥さあ」
抱き寄せられても、操は感情のない人形さながらだったが、城野が腕に力を入れると、
「あっ! 痛い」
小さな悲鳴を上げた。
「もう、いじわるね」
ようやく顔を上げて、操は城野をにらみつけた。人形でなく、やっと生身の鈴木操に戻ったのだ。
「仕事を辞めて、出来るだけ早い機会にここへ移らせてもらいま―――」
言葉が終わらない内に、城野は唇を合わせた。病院で初めて重ねたときのキスの味だった。二人は長い間、廊下で抱き合っていたが、
「―――ね、もうすぐ松井君が来る頃じゃないかしら」
操に促されて、城野は渋々腕の力を抜いたのだった。
「遼子さんが来てくれなかったら、私、どうなっていたか‥‥‥。本当にありがたかった。遼子さんを寄越してくださった、前戸さんの配慮もありがたかったわ」
廊下を歩きながら、操は素直に感謝の気持ちを口にして、城野に微笑みかけた。
「持つべきものは、だよ。俺の一番の財産が前戸と石河、かな。―――いや、もちろん君や遼子君、それに松井も一番だよ」
軽口のつもりが操の微笑に引き込まれ、城野は頭をかいて言葉を続けた。
「ところで、こっちへ越してくるとなると、立花のマンションはどうするんだ。処分するのか」
居間のテーブルに腰を下ろすと、城野は明るい話題を持ち出して、操の気を紛らわす。新生活のプランを一つずつ積み上げて、二人の未来を創造せねばならないのだ。
「あれは民間の分譲じゃないので、契約条項をよく読んでみないと。それに、処分可能だったら欲しいっていう同僚もいるから、それほど慌てる必要はないと思ってるの」
「そうか、それは良かった。―――それで、いつ引っ越してくるつもりなんだ」
「そんなに急かさないで。会社と話し合わないと決められないことだから。弁護士さんに間へ入ってもらわないといけないかも知れないわ。ひょっとすると会社ともめちゃって、その処理に高額の委任料を取られるかも知れないわよ」
操もようやく軽口をたたく余裕が生まれた。やはり、このマンションは我が家なのだ。二人の会話がようやく以前の和みを取り戻したとき、松井がドアホンを押した。
「操さん、いらっしゃい。今日あたり来てくれるんじゃないかと期待していたんです。城野先生の入れてくれるコーヒー、余り美味しくないから」
嫌なことに触れず、松井は頭をかきながら城野をダシに操を笑わす。
「そう、じゃ、飛びっ切り美味しいコーヒーを入れてあげるから。さあ、座って頂戴」
操も朗らかに応じ、腕捲くりをしてキッチンへ立ち上がった。やはりここが一番だった。このメンバーと、このムード。操は最上の安堵と、最高のくつろぎに浸れるのだった。
「‥‥‥ありがとう」
コーヒーを口に運びながら、二人に小さく微笑みかけた。過去を葬り去ることは出来ないが、それを帳消しにして余りある大切なものが、自分には与えられていたのだ。このことが痛いほどよく分かった。これだけでも、声を大にして誇れる収穫なのだ。もう嘆くまい。そして、‥‥‥決して負けない! 穏やかな微笑に、操は強い決意を秘めたのだった。
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