第19話 ガーゼミスの発覚
今年の十月は何とも慌ただしい月で、城野たちのまわりで予期せぬ出来事が次々に起こって行く。新世界の乱闘、操のプライバシー暴露事件。そして今また、彼らにとってとてつもなく重要な出来事が発覚してしまった。
遼子が操に会ってまだ六日しか経っていない十月十二日の朝のことだった。いつもながら気忙しいひとときで、紅茶をすすりながら、遼子は朝刊をパラパラと流し読んでいた。
「えっ!」
最後のページの見出しに、彼女の目は釘付けになってしまった。
〈腹部にガーゼ忘れる〉という見出しで始まる朝日新聞の記事は以下の内容だった。
大阪大学附属病院で今年三月、腎臓の摘出手術を受けた鹿児島県名瀬市の男性の腹部に、手術用ガーゼが置き忘れていたことが昨日明らかになったというのだ。術後、炎症や激痛が続くので名瀬市内の医院で手術を受けたところ、腹部からガーゼが発見されたのだった。阪大病院は、「起きてはいけないミス」として、男性に陳謝していた。
―――やっぱり、よくあるんだ。
ただ、この男性は不幸中の幸いなのだ。オペをした病院へ再度入院していたら、ガーゼ失念ミスは明らかにならず、闇に葬られていた可能性無きにしも非ずなのだ。
間もなく自宅を出ねばならないというのに、遼子はトーストを口に運ぶのも忘れ長い間、紙面から目を離すことが出来なかった。
遼子が紙面に釘付けになっていた頃、前戸も朝食の席でその記事を読んでいた。
―――長さ十三センチ、幅四、五センチのガーゼ一枚か。
こんなものを体に置き忘れられれば、幼児なら相当なダメージを受ける。しかも聞いた話では、しばらく経過を見ていたというのだ。
子供の苦しみを思い浮かべると怒りが込み上げてきて、前戸は眉間に皺を寄せて紙面を睨みつけてしまった。
「どうしたの、そんな怖い顔をして。―――新聞に何か載っているの?」
母が向かいの席から、おずおずとした眼差しで息子の顔をのぞき込んだ。
「いや、何でもないよ」
前戸は記事の内容を告げず、ハムエッグに箸を伸ばした。医療ミスの話題は前戸家の食卓の話題から遠ざけられて随分久しく、特に母に感知させないのが家族間の暗黙の了解事項だった。
「ごちそうさま」
まだカップにミルクティーが残っていたが、早めに朝食を切り上げ、前戸は朝刊を持って二階の自室へ上がった。
ソファーに腰を下ろし、テーブルに朝刊を広げ直すと再び記事に目を落とした。
―――医療ミスか‥‥‥。
友人の弁護士内橋明によると、日本の医療訴訟の転換点が、昭和三十六年に最高裁(最高裁判所)で判決が出された、東大梅毒血輸血事件らしい。
これは東大病院の医師が梅毒血を採って患者に輸血したところ、患者が梅毒にかかり失明したという事件で、献血制度の確立を促した事件としても有名である。というのは、当時は職業的売血者が多く、輸血の大半が彼らの血液でまかなわれていた。
この事件でも、医師は血を売って生活していた売血者から血を採ったが、彼が持参した十数日前の血清反応証明書を信頼して採血したのだった。つまり実際は売春婦と交わり梅毒にかかっていたのに、かかっていないとの十数日前の証明書を持ってきた者の血を採ったのである。
この事件の争点は、提示された証明書の信頼度だった。裁判所はこの証明書を信頼しただけでは医師の注意義務が尽くされたとはいえず、潜伏期間中に作成されたか、それともその後の感染の疑いも持ってしかるべきだと判断したと考えられている。つまり、この証明書に医師の無過失を認めるほどの高度の信頼度を付与しなかったのだ。
結局、注意義務が尽くされたとして医師が過失を免れるためには、具体的には問診段階で、
「この検査前後に、(売春婦を)買いに行ったりしていないだろうね」
と、売血者に問い質す必要があったという判断であろう。このような質問をすれば、梅毒感染は確かに未然に防ぐことは可能であったのだ。
―――内橋によると、当時としては画期的判断だったらしい。
この判決を契機に医師の不法行為責任追及が、国内で燎原の火のごとく燃え上がったのだ。医師会が保険会社と保険契約を結ぶ機縁にもなったと、内橋が語っていた。
ところで、裁判所が注意義務をいくら厳しくしても、そもそも医療ミスの存在を知らなければ意味がないのだ。ここに医療訴訟の問題点があって、被害者や遺族にとっての大きな壁なのだ。
密室で行なわれ、しかもミスを隠そうとする体質が特に強いといってよいメンバーが相手なのだ。ミスの存在が明るみに出るのは、外部から余程明らかな場合に限られるのが通り相場であろう。
浪速帝大病院小児外科でのガーゼ失念ミスも、関係者には明らかに分かったことで、おまけに関係者一同、確実に訴えられることを覚悟したというのだから、ミスと患者の死亡との因果関係も彼らには明らかなのであろう。
しかし外部の者には明らかでないのだ。それゆえ、遺族も訴えることが出来ないのだ。
―――内橋の言う、あるべき医療には程遠いな。
ミスを隠す体質は、患者や遺族にとって悲劇であるだけでなく、医療関係者にとっても悲劇的な事態なのだ。
ミス隠蔽が恒常化すれば、チームワークを組む仲間への信頼など生まれるはずがないのだ。実際、前戸が接触した中にも、仲間への不信感を露にした人物が三人もいた。
もっとも彼女らもガーゼミスの存在を認めながら、詳しい内容を話すことは拒絶し続けている。
―――あと一押しなんだが‥‥‥。
仲間への裏切りと取られることへの躊躇い、被る職業的不利益、その他諸々のマイナス要因が口を開くことを躊躇わせているのだ。
「達夫。もう出かける時間じゃないの」
階下から母に促されるまで、前戸はテーブルに頬杖を突いたまま、ぼんやりと紙面に目を落としていたのだった。
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