第18話 暴かれた過去
新世界での乱闘からまだ一週間も経っていない六日の土曜日のことである。前戸は書斎兼作業場用に、大阪府高石市のJR富木駅近くに小さな家を借りているのだが、休講が入った今日は朝からそこに籠りきりだった。午前中は新たに投資する企業の業績や過去五年間の株の動向を調べて、合理的な売買パタンを考案した。午後は一転、本業に精力を注ぎ、もっぱら予備校関係の作業に没頭した。センター試験の予想問題作成に大半の時間を当てたのだった。
英語と数Aの問題を作り終え、作業場を出たのは七時三分。小さな駅から程遠くない住宅街は、すでにすっぽりと闇に包まれてしまい、ワイシャツにセーターの軽装では冷気がじかに肌にしみ込んで来て、新しい季節の予感が実感に変わる夕暮れ時だった。
―――哀愁の季節の到来だな。
澄んだ星空を見上げ、前戸は苦笑いを浮かべた。ここしばらくの妙に感傷的な気分を、秋のせいにしたくなったのだ。
兵糧袋と見紛う大きなショルダーを左肩に掛け、右手にノートパソコンを下げて作業場裏の駐車場に着くと、車内に置き忘れた携帯が鳴っていた。ドアを開けて携帯を取ると母からだった。
「どうしたの! 五時過ぎからずっと電話してたのに、一体どこにいたの?」
大事な用件なのか声に非難がこもっていた。
「富木の作業場だよ。そっちこそどうしたんだ、慌てふためいて」
作業場には電話を引いていないので、和子は連絡できないでイライラしていたのだった。
「城野さんが五時過ぎからずっとお待ちだよ。早く、すぐ帰って」
待たされている城野を気遣って、母は息子を急き立てた。
「これから帰るところだから、城野に三十分ほどで帰ると伝えてくれ」
「はい、分かったわ」
ようやく落ち着いたのか、和子はほっとした口調で受話器を置いたのだった。
―――一体、城野が何の用だろう。
ハンドルを握りながら、前戸は妙に気にかかってしまう。わざわざ自宅を訪れる理由が全くといってよいほど思い付かず、取り越し苦労が頭をもたげる。
―――まさか‥‥‥。
松井か操に事故でもあったのかと、一瞬、嫌な予感が脳裏を過るが、すぐに打ち消し、前戸はアクセルを踏む足に力を入れた。
「ただいま」
七時半過ぎに帰宅すると、母の出迎えもそこそこに、前戸は玄関右手の応接間のドアを開けた。
「おい! 一体どうしたんだ!」
部屋へ入るなり前戸は親友の顔を見て愕然としてしまった。深い眉間の皺、蒼白な顔面、肩を落としてソファーにうずくまる姿は、いつもの城野とはおよそかけ離れた存在だった。
「取り敢えず、二階へ上がろう」
両親から遠ざけるため、前戸は城野を自室へ上げた。
「ことの発端は、これなんだ」
部屋へ入ってソファーに腰を下ろすと、城野はブリーフケースから雑誌を取り出し、弱々しい声で前戸の前に差し出した。開けられたページの右欄には大きな三枚の写真が掲載されていて、著名ディレクターが操の部屋へ入る時と、出る時、それにホテルから二人が仲睦まじく出てくるところを捕えていた。
「何だ、これは!」
立ったまま、前戸が驚いて詳しく読もうとするが、城野が左手を乗せて遮った。
「いや、写真や左上段の記事はいいんだ。それはこの前、仕事のためにスタッフ一同とホテルに泊まり込んだ時のもので、内容もデタラメだ。俺が心配しているのはここなんだ」
苦渋に満ちた顔で左ページ下段を指さした。そこには今出川大学在学中の操の行状が事細かに記述されてあった。読むに耐えないのはバー勤めの時のもので、数人の男が匿名で、操との肉体関係を赤裸々に告白していた。この記事で無節操な女としての操を印象づけ、有名ディレクターとの不倫記述の支えにする意図がありありと分かった。
―――何て卑劣な!
雑誌を持つ前戸の手が、怒りで震えた。
「救いようのない奴らめ!」
最後まで読まず、前戸は足元に雑誌を投げ捨ててしまった。
「俺はあんなこと、何も気にしないが、操が一番気にしていることなんだ。あいつにとって、一番、触れられたくない過去なんだ」
青白い顔を近づけ、城野は震える声を絞り出した。少し名が売れると過去の関係者が雑誌やテレビに登場し、親密だった関係を得意気に語り衆目に曝す。本人たちは悦に入っているのか売名のためなのか知りたくもないが、常識を疑いたくなる言動は不快以外の何ものでもなかった。が、親友の身に降りかかると抑えようのない怒りが込み上げてきて、前戸は体が震える。
「‥‥‥操さんはどうしているんだ」
かける言葉が思いつかず、前戸は長い沈黙に耐えていたが、感情を抑えた低い声で操の安否を尋ねた。
「相当ショックを受けているようで、電話で話すと、俺に済まないと言って泣くんだよ」
肩を落として俯いたまま、城野は顔を上げなかった。墨田区立花のマンションへは帰らず、操は取材攻勢を逃れるため転々とホテルを移動しながら城野と連絡を取り合っていた。
「‥‥‥な、城野。今から遼子に東京へ行ってもらおう。お前が行って騒ぎが大きくなると、操さんは余計傷つく。お前が行くのは遼子の後でいい。な、そうしよう」
前戸は城野が自分のところへ来た理由がよく分かっている。一人で自宅にいると、東京へ駆けつけたい衝動に駆られ、抑え難いのだ。しかし上京は、前戸の指摘を待つまでもなくデメリットが大き過ぎるし、もちろん操にも固く釘を刺されたはずだ。彼女が一番忌み嫌っているのが、この低次元のゴシップに城野を巻き込むことなのだ。
―――時間による解決もいいが、今回は‥‥‥。
おそらく操は、この問題の解決というか消滅を、時間に委ねるつもりだろう。騒ぎが収まるまで、黙ってじっと耐えるつもりなのだ。それがマスコミ界に身を置く者が経験から得た最良の策といって良く、統計的にはベストの選択だった。が、果たして今回、操は耐えられるのだろうか。おそらく耐えられまい。二十数年前の、ベッドに横たわる操を思い浮かべた前戸の直感的判断だった。特に今度のことでは相当追い詰められているはずで、一刻も早い助けが必要だが、城野より明らかに遼子が適役なのだ。前戸はもう一度、慎重に結論を確認すると鞄から携帯を取り出し、勤務先の病院にいた遼子を呼び出した。
「ええ分かったわ。今からすぐ発つことにするから。‥‥‥達夫さんは城野先生のこと、お願いね」
事情説明を受けた遼子の行動は素早かった。後を同僚に託し、病院からタクシーで新神戸(駅)へ駆けつけ新幹線に飛び乗ると、午前零時前には新宿御苑近くのホテルLに着いてしまった。狭いロビーの左手は小さなレストランになっているが、この時間はすでに閉店札が下がっていた。ロビー奥の右手にフロントがあるが、遼子はフロントを通さずエレベーターで四階へ上がると、あらかじめ教えられていた四一三号室のドアを軽くノックし、
「‥‥‥操さん。―――私、遼子よ」
室内へ小さく呼びかけた。
「‥‥‥ええ。ちょっと待ってね」
サングラスをかけた操が、あたりを窺いながら遼子を内へ入れた。
「こんにちは。もう、こんばんは、よね」
視線を合わそうとしない操に、わざと明るく挨拶するが、操の返事はすげなかった。
「ええ。そうね」
遼子を無視したまま、ハンガーとスリッパの位置を無愛想に通告すると、操は背中を向けて奥の部屋へ隠れてしまった。いかにも迷惑といわんばかりの仕草に、気負い込んで来た遼子は冷水を浴びせられた気分で、気が滅入ってしまう。
六畳余りの部屋の窓はカーテンが引かれ、ただでさえ重苦しいのに、明るさを抑えた白熱灯の光が部屋のムードをますます暗くしていた。小さなテーブルをはさんで二人はソファーと椅子に腰を下ろすが、気まずい沈黙が長い間続く。遼子が話題の選択に迷っていると、操が視線を落としたまま先に口を開いた。
「‥‥‥まさか、あんなことまで書かれるとは思わなかったわ。ほとほと自分に愛想が尽きてしまった。本当に最低だわね。笑っちゃうでしょう」
口元に自嘲気味な笑みを浮かべ、ようやく顔を上げた。
「城野先生は気にしてらっしゃらないわ」
慰めるつもりで出した城野の名前だったが、逆に操を追い詰めてしまった。
「あんな記事が健さんの目に触れること自体、恥ずかしくて自分が口惜しいわ。健さんがあんなこと気にしないって分かっているから、余計つらいのよ。私なんか、健さんに愛される資格がないんだわ。あんな純真な人に、私なんかふさわしくないわ。愛されるべきでない者が愛されるのは、不条理よ!」
城野の名前を聞くと、操は急にイライラして自虐的言動を繰り返した。こぶしの手がせわしなく膝を打ち始めたが、体がブルブル震え出すと手も思い通りにならなくなり、膝から離そうとするが、体の震えにのまれてしまった。
「そんなに自分を悪く言うもんじゃないわ。‥‥‥ねぇ、落ち着いてよ。操さん、お願いだから」
感情の爆発を抑えられず、遼子は哀願口調だった。
「あんな恥ずかしいことまで健さんに分かってしまうんだったら、私はあのとき死んでいた方が良かったわ。今となっては神様を恨むわ!」
震える顔で、操は泣きながら天井を睨み付けた。
「‥‥‥二十年以上も前のことよ」
「二十年前だって、一年前だって、同じことよ! ―――もう黙っててよ!」
操は遼子に食ってかかった。
「‥‥‥」
「遼子さんに、私の気持ちなんか分からないわ。分かるはずがないわ。汚れを知らず、最愛の人と巡り会えたお嬢さんに、私の気持ちなんか、絶対!、分かるはずが無い!」
遼子を睨みながら、操は何度も何度も首を振った。部屋へ入った時からアルコール臭が鼻を衝いたが、やはり酒が入っている。
「冗談じゃないわ。私がどれほど辛い思いをしたか、知りもしないくせに。‥‥‥愛に迷ったことはないけど、払った代償は、決してあなたに負けないっ!」
遼子も操を睨み返した。今日はどんな我慢でもするつもりだった。何を言われても黙って聞いていよう、そう思って東京へやって来たが、遼子も自制が効かなくなってしまった。胸の奥に仕舞い込んでいた―――祈るような思いで鎮めてきた痛みを、操が無遠慮に解き放ったのだ。
「私にあなたの気持ちが分からないですって。―――ええ、分からないわ。城野先生があんなに心配なさっているのに、アルコールに溺れ、―――昔の亡霊に取り付かれて、泣き言を並べる人の気持ちなんか分かりたくもないわ! ―――それに、愛に汚れも綺麗もないわ、あるもんですか! 燃える想いに身を委ねるだけだわ。理屈なんて、ないのよ!」
体を震わせ、大きく息をつくと、遼子の目からどっと涙が溢れた。
「どうして、もっと素直になれないの。あなたの気持ちだけじゃない。―――何よ! あんな記事くらいで! 私はあなたたちの愛を理想にしてきたのに、あんな下品で取るに足りない記事くらいで、駄目になる愛だったの? ‥‥‥本当に、もうっ! 私の理想を壊したりして、一体、どうしてくれるのよ!」
使命を忘れ、激情に身を委ねて遼子が大声で泣きじゃくると、操も喉の奥から声にならない声を上げ、テーブルに泣き崩れてしまった。
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