第17話 新世界の乱闘
受験生の学力向上要因如何、そしてそれらの価値序列はいかに。禅問答さながらの問いかけであるが、予備校講師にとっては避け難いテーマで、その解(答)は当然授業に具現され、担当講座の特徴を形作る。城野と前戸―――YMCC予備校で際立った個性の光る二人であるが、彼らの解(答)はニヤリーイコール(≒)といって良いほど酷似していた。方法論と努力、能力の三者が学力を規定する三大要因。二人に共通する認識で、この点で差異はなかった。問題の分析や解法パタンの確立という、方法論が最重要。この点の認識も共通していて二人に齟齬はなく、オリジナルなパタン化の追究は当然、この文脈に位置づけられるものだった。乖離があるとすれば城野は図形重視の、右脳活用といいうる問題分析と解法パタン。前戸のそれは論理と記憶を徹底する左脳型で、方法論の中身において二人は好対照だった。YMCC予備校の二枚看板、この名伯楽との出会いが松井に一大転機をもたらしてしまったのは事実で、彼は現役・一浪時には想像もできなかった飛躍を遂げていて、校内で独走態勢を固めつつあった。夏期講習以降、特に顕著で、英・数・物理は他を寄せつけない圧倒的優位を誇っていた。二浪生の発奮はクラスメートに好ましい波及効を及ぼし、A1クラスは記録ずくめの、十九年前の再来と呼ぶべき状況を呈し、模試の平均点も他クラスの追随を許さぬ群を抜く高さであった。十九年前は〈遼子効果〉と城野が命名したが、今年は〈松井効果〉の年で、連鎖的発展事態の出現―――YMCC予備校にとって願ってもない好機到来だった。十月初頭、効果の主の息抜きとねぎらいを兼ね、前戸と城野は新世界へ松井を誘った。水曜は操の来阪日だが、今週は特番(特別番組)のために彼女は来れず、会食日は急きょ、土曜から月初めの水曜日に変更されたのであった。約束の六時に前戸が天王寺公園東入り口に着くと、ブルゾン姿の松井が城野と並んで談笑していた。操の好意に甘え、アルバイトを辞めて、市立大学近くでアパート暮らしを八月から始めていた。
「前戸先生、おじゃまして済みません」
城野と違い少しけむたいのか、松井は可笑しいほど体を硬くしてぺコンと頭を下げた。
「じゃまじゃないよ。今日は君の慰労会のつもりだ。この調子で手抜きをせずに頑張るんだぞ」
言わずもがなのことを言ってしまい、前戸も苦笑いを浮かべ城野に視線を送った。
「それじゃ、行こうか」
城野に促され、夕暮れの公園を人込みに混じって三人並んで歩く。天王寺公園を抜け通天閣を間近に仰ぐと、界隈の様子がいつもと違う異様な雰囲気だった。今夕に限って、殺伐たる空気が漂っているのだ。普段、酔い客で賑わう通りに客はまばらで、代わりに殺気立った労務者風の男たちがたむろしていた。
「何かあったのかね」
前戸が立ち止まって、裸電球がまばゆい露店の老婆に声をかけると、
「ほんまに、もう! 商売あがったりや! ポリさん、しょうもないことするさかい」
白い麻布の上に陳列されたベルトやライターの奥で、老婆が顔をしかめて吐き捨てた。巡査長の収賄事件が事の発端であった。厳しい彼の取調べに日頃から恨みを募らせていたところ、不祥事が火に油を注いだのだ。不況であぶれた労務者には格好の不満のはけ口で、新世界一帯に不満分子が結集しつつあった。
「そういえば二、三日前の新聞に、暴力団員と巡査長の癒着が掲載されていたな。‥‥‥どうしたもんかな」
前戸は渋い顔を向けるが、
「いや、大事ないだろう。せっかくここまで来たんだから」
城野は意に介さず、通天閣へ向かって歩き出した。近道のため暗い路地裏へ入り、軒の張り出た細い交差路に差しかかる。ここも人通りが少ない。
「―――先生、あれを!」
松井が立ち止まって、右の路地奥を指さした。解体現場前の空き地で、ヤクザ風の男たちが痩せた小柄な老人に殴る蹴るの乱暴を加えていた。
「止めなさい! よってたかって、こんなお年寄りに」
松井が真っ先に駆けつけ、蹴り下ろそうとする足を持ち上げ、足の主の大柄な男を押し倒した。
「何や、このガキャ!」
倒された男は立ち上がるや否や、松井に殴りかかったが、
「タァー!」
見事な背負い投げで足元に転がされてしまった。
「おい、回れ、回れ! いっぺんに行くぞ、―――それっ! 皆でやってまえ!」
喧嘩慣れした男たちは、松井を取り囲み、各々が背後、前、左右の側面へと一斉に飛びかかった。四人に組みつかれては柔道の得意技も使えず、松井は振り離そうと必死にもがくが、体勢は悪くなるばかりで、残った一人が棒様の物で顔面を打ち据えようとしても為すすべがなかったが、
「トリャッ!」
駆けつけた城野が気合いもろとも瞬時に五人を倒してしまった。最初の男は後頭部への右回し蹴りだった。次は顔面への左裏拳。三番手は腹部への右足刀。最後の二人はヒジ撃ちと前蹴りで、その場へ崩れ落ちてしまった。
―――何てヤツだ‥‥‥。
同時に駆けつけた前戸は、あまりの鮮やかさに呆れてしまった。拳法・空手に飽き足らず、独自の技を考案し実践しているのは知っていたが、現実に見たことはなく、大学空手か拳法程度の認識だったが、実際は芸術的ともいえる技のキレ、スピードと破壊力であった。攻撃の破壊力は、攻撃体の質量(重さ)と速さの積で表示される。突き蹴りに体重を乗せれば乗せるほど、また、速さを増せば増すほど破壊力は大きくなる。が、この両者は矛盾をはらむものであった。体重を乗せようとすればするほど、突き蹴りの速さは低下する。逆もまた然りである。結局、攻撃の理想は質量と速さの積の最大値を保持しつつ、滑らかに次の動作(攻撃または防禦)へ移行しうる流れのあるもの、ということになる。前戸が見た限り、城野の動きは格闘の理想といわれる、剛・柔・流の調和的統合―――これに限りなく近いものであった。
「どうですか。‥‥‥ここ、痛いですか?」
松井に怪我はなかったが、老人は重傷だった。城野の問いかけに顔を歪め苦しそうにうめくだけで、言葉にならなかった。危険なことを止めるよう注意したのが男たちの癇に触ったらしく乱暴を受けたと、遠巻きの人垣から声が飛んできた。
「アバラが折れているし、内臓も破裂しているだろう。すぐ救急車を呼ばないと、―――携帯で呼んでくれないか」
ブレザーを枕がわりに老人を寝かせ、携帯を持たない城野が前戸に救急車の手配を促す。
「いや、俺も今日は携帯を持ってこなかったんだ。‥‥‥まずいな、公衆電話へ走るか」
間が悪いときがあるもので、二人とも携帯を持参していなかったのだ。
「僕が行ってきます」
二人の遣り取りを聞き松井が駆け出すと、前戸の体も反射的に動いた。ブレザーを脱ぎ捨て、右足で勢いよく地を蹴ると、あっという間に松井に追いつき、並走しながら正面を見据えた。凶器を携え、十人近い男たちがヤジ馬を押しのけ、こちらへ駆けて来るのだ。松井に投げられた男が仲間を呼んで来たらしく、ナイフを右手に先頭を切っていた。
「俺がやるから、君は左へ抜けて公衆電話へ向かえ」
走りながら前戸が松井に指示する。右手には折り畳み式の特殊警棒が握られていて、城野が倒した男の手から奪ったものである。
「大勢ですけど、大丈夫ですか」
松井が速度を下げても、前戸はそのままの速さで腰をかがめ男たちに向かって突き進んだ。細い路地上での決着が当方にとって一番有利で、取り囲まれると多勢に無勢とまでは行かないが、予期せぬ危難が降りかかってこないとも限らないのだ。
「ムン!」
低い含み気合いと同時に、怖じ気づいて立ち竦んだ先頭の男の右手を撃ち据え、彼の右へ抜けた。カラン、とナイフが落ちる音より先に、次の男は右上腕を撃たれ、激しい体当たりでバットを持ったまま後ろの男と重なるように吹っ飛んでしまった。
「うわぁ! 逃げろ!」
細身の、臆病顔の男がゴルフクラブを投げ出すと、前戸が威嚇する前に総崩れとなり、男たちは人垣をかき分け我先に逃げ去ってしまった。
「アホンダラー! 顔洗て出直して来いー! ボケー!」
五十人近い群集の間から割れるような拍手と、逃げ去る男たちの背中に怒声が飛び、老人の仲間からやんやの喝采が沸き起こった。
「先生、前戸先生。―――はぁ、はぁ。―――大丈夫だったんですね。―――はぁ、はぁ」
電話をかけ終えた松井が戻って来て、息を切らしながら前戸を見上げ安堵の溜め息を吐くと、
「うん、ご苦労さん。ご覧の通りで、二台目の救急車の手配に走ってもらわなくて済んだよ」
あたりを見回し、前戸が苦笑しながら軽口を叩いたのだった。このように乱闘の終焉は実力差から、あっけない幕切れだったが、これで無事終了ということはなく、面倒な後始末が残った。
「松井。こんなありさまだから、一00%牛脂のカツは次の機会にしよう。君は帰って、今日は勉強に励んでくれ」
派出所前で松井の肩をたたき、前戸は苦笑いを浮かべた。老人の付き添いは城野が買ってでたので、事情聴取は前戸が受けることになったのだ。パトカーが行き交い、赤色灯とサイレンがかまびすしい新世界の夜であった。
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