第16話 台風十九号


 台風発生のメカニズムは実にシンプルで、力学法則にしたがった興味深いものであるが、もたらされる被害の大きさを考えるともちろん歓迎というわけには行かない。二十日の未明に紀伊半島に上陸した十九号などは、超大型であるだけに特に招かれざる「客」だった。YMCC予備校も生徒の安全を考え、十九日の授業は午前中の二時限だけで、午後は休講がベターとの結論に至った。ベストの評価が得られなかったのは、午後から出席するかも知れない受講生を考え、事務(方)は電話連絡に忙殺され、午前中の授業にまで一部、支障が生じてしまったからだった。十時前に休講との連絡が入ったのに、前戸が昼食の席で予備校へ行くと母に告げると、

「昼から休みだっていうのに、どうして出かけるの? ねぇ、危ないから出かけないほうがいいんじゃないの」

 和子は納得行かない様子で、何度も息子に翻意を迫ったのだった。

「どうしても城野に用事があるんだから、仕方ないじゃないか」

 親友をダシに、前戸は母の執拗な追及を断ってしまった。

「帰りは何時頃になるの?」

「城野と会ってから決めるよ。帰れるかどうかは」

 うんざりした口調で、前戸は帰宅するか否かを宙ぶらりんにして結論を先送りしてしまった。城野に用があるというのは嘘ではないが、それは明日でも十分間に合うもので、わざわざ出かける理由は、昼頃、近くに住む妹夫婦が避難のために訪れるからだった。会計士試験を受験している、妹の夫・坪田茂満とはできれば顔を合せたくないし、向こうもそうだろう。前戸の妹は三年前に結婚していたが、何分にも相手の生活が不安定なため、両親は長い間、結婚に反対だった。前戸も両親の意を汲んで妹を説得したこともあるし、坪田と話し合いもした。その席で、将来に対する見通しの甘い彼に、

「甘ったれちゃ、いかんぞ!」

 と、不快を隠さなかった。両親は結婚式にも出なかったが、前戸は彼らの反対を押して、遼子と二人で出席した。新郎側主導の式で、出席者は大半が坪田家の親族だった。打ち解けられない人々に囲まれて、和江はキョロキョロとあたりを見回していたが、前戸と遼子が式場のロビーに姿を現すと、

「お兄ちゃーん!」

 わっと泣き出して駆けてきた。

 ―――これほどつらい思いをしてまで。

 泣きじゃくる妹を抱きながら、前戸は天を仰いでしまった。

「さあ、花嫁さんを解放してあげないと。―――和江さんも泣いてないで、今日はおめでたい席なんだから」

 遼子が取り成してくれたおかげで、前戸は坪田家の親族と険悪なムードにならずに済んだのだった。ところで、あれほど結婚に反対していた両親だったが、子供ができると目の中に入れても痛くない可愛がりようで、孫の出現は良一と和子に決定的な影響を与えてしまった。生活の苦しい妹夫婦に、両親は月々の生活費の一部を援助していた。彼らから聞かなくとも、たまに家で顔を合わせる妹の態度で判断がつく。妹の負い目を感知できないほど、前戸は幼少時より彼女と疎遠でなかったのだ。今朝も朝食の時、母は持っていた箸をぎこちなく置いて、

「今度の台風は超大型らしいから、昼から和江たちを呼んでもいいかい?」

 まるで伺いを立てるように、怖々と息子の顔をのぞき込んだのだった。

 台風十九号は、昭和三十六年に高知県の室戸沖に上陸し全国に甚大な被害を与えた、第二室戸台風に匹敵する大型台風だった。この第二室戸台風で、前戸たちが当時住んでいた家屋は倒壊してしまった。彼が小学校六年の時だった。あの台風以来、母は強風と名の付くものを極度に恐れるようになってしまった。住む家がなくなり、しばらく借家暮らしをしていたが、泉北ニュータウンの分譲が始まるとともに購入の機会に恵まれ、この地に移り住んで既に三十年余りになっていた。転校がいやで、前戸はここから大阪市住吉区にある高校へ通ったのだった。母から同意を求められた前戸が、朝刊に目を落としたまま、

「これはあなたたちが土地を買って建てた家だから、なにも俺に遠慮することはないよ」

 顔も上げずに答えると、母は嫌みと取ったのか、気の毒なくらいしょげ返ってしまった。大型台風に備えて、といっても、窓にはすべて頑丈な雨戸が取り付けられてあるし、庭の植木もつい先頃枝葉を刈ったところなので、仕事というほどの大した仕事はなかった。玄関先のテラスを花壇の鉄製柵にロープで固定し、風で飛びそうなものをガレージに仕舞い込んで十二時過ぎに予備校へ着くと、授業の終わった城野と講師室前で出くわした。

「昼からは授業がないという連絡は、家へ届かなかったのか?」

 エレベーターから降りた前戸に、城野は怪訝な表情を浮かべた。

「いや、聞いて知っていたが、お前に会おうと思って出てきたんだ」

「そうか。ところで、風はだいぶ強くなっているんじゃないか。マンションへ移って初めての大型台風らしいから。遮蔽物がないので、マンション住民は戦々恐々だよ」

 城野は台風情報が気になるようで、外の様子を尋ねた。

「風はまだそれほど強くないよ」

「雨は?」

「まだ降ってないよ」

 講師室のドアを開けて、二人は奥のロビーの椅子に腰を下ろした。二十畳余りの室には非常勤講師用の机が二十脚、二脚ずつ向かい合わせに並んでいる。そして一番奥の壁に面して二脚、臨時アルバイト講師用の机が置いてあった。他に資料棚やコピー機それに計算機などが設置されているので広い感じはせず、余白があれば物が積み上げられて行く慣例なので雑然と落ち着かない雰囲気の室だった。

「あ、前戸先生。こんにちは」

 室にはまだ二、三人の講師が残っていて、帰り仕度を急いでいた。

「俺に何か用事でもあったのか」

 城野の問いに、前戸は鞄から答案用紙を出す手を止めた。

「いや、大した用じゃないが、少し頼みたいことがあるんだ。お前の自宅の電話にも録音装置は付いていたな」

「ああ、付いている。留守のとき、あいつから電話があるといけないので、取り付けてあるが、‥‥‥それが、何か?」

 城野は他の講師を気にして、操のことを「あいつ」と言った。

「うん、実は―――」

 最後の講師が室を出て行ったのを確認すると、前戸は城野への依頼の内容を話し始めた。前戸の調査では数人の者が小児外科で行なわれた医療ミスを知っており、その内の三名はかなり協力的なことは伝聞資料から判明していた。ただ直接会って話してみると、やはり自分の名前が出るのが怖いのだろう、医療ミスの核心に触れる部分についてはどうしても言葉を濁してしまう。

「そこでね。匿名でも誰かに代わってもらってもいいから、話す気になったら電話してほしいと彼らに伝えるつもりだが、俺じゃ話しにくいかも知れないんで、お前の電話番号へ連絡してくれって言ってもいいかな」

「うん、そんなことならお安い御用だ。もちろんいいとも」

「そうか、助かるよ。それからね、電話を録音してほしいのは、声の主を確認する意味もあるが、後日否定されないようにするためもあるんだ。実は先日、こんなことがあったんだ―――」

 医療ミスの存在を一度は認めながら後日否定した、例のナースの話を城野に打ち明けた。

「なるほどな‥‥‥。しかし結構いいところまで行ってんだ。さすが理詰めの前戸だな」

 二人はしばらく医療ミスの進展状況について話し合っていたが、

「ところで、今日はこれからどうするつもりだ。家へ帰るのか?」

 一段落ついたところで、城野が話の腰を折った。

「‥‥‥そうだな、家へ帰らずに遼子のマンションへ行くことにしたよ」

 苦笑いを浮かべ、前戸は母に伝えそこねた結論を述べたのだった。予備校を出るときには未だ気配すら感じられなかったのに、遼子の芦屋のマンションに着いたときは風も強くなり始めてフロントガラスに大粒の雨を叩き付けていた。傘は用をなさず、車から一目散にマンション玄関へ走り、三階の三O一号室へたどり着いてチャイムを押すが、遼子はまだ帰宅していなかった。宝塚のマンションに較べると猫の額、というと遼子が怒るが、狭いリビングで柔軟運動と小太刀の組み技をしていると、三時過ぎに遼子がドアを解錠した。

「ありがとう。きっと来てくれると思ってたわ」

 ショルダーバッグも置かずに駆け寄ると、彼女は勢いよく前戸に抱きついたのだった。


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