第15話 三叉路

「こんばんは」

 いつものように松井が運動パタンと物理の個人授業を受けにマンションを訪れると、城野は居間のテーブルで遅い朝刊を読んでいた。早朝から昨日の模試の採点に取りかかり、それが済むとセンター試験の予想問題作成。立て続けの作業で新聞を読む暇もなかったのだ。

「えっ! 夕刊じゃなくて、朝刊ですか」

 新聞をのぞき込んで松井は意外な顔をする。

「うん。これから、予備校の講師は多忙を極める時期になるんだ。―――ま、君らも同じだろうけどね」

「そうですね。ホップ・ステップ・ジャンプでいうと、最後のジャンプを始める時期だから。―――あれ、この記事。‥‥‥大関にもならずに、もう引退ですか。ちょっと、早すぎません?」

 城野に相槌を打っていたが、彼がページを捲ってスポーツ欄が目に入ると、松井は自分の好きな力士の引退記事をのぞき込んで驚いている。

「そうだな‥‥‥」

 期待していた力士だっただけに、城野も言葉少なに頷いた。

「横綱、少なくとも大関にはなってほしかったのに―――」

 大学相撲から鳴り物入りで角界に入り、横綱の期待がかかっていたが、結局大関にもなれずに終わってしまった。早すぎる引退にも当然、不満があるのだろう。怒ったように紙面に言葉を投げると、松井はトレーニングルームへ消えてしまった。

「‥‥‥横綱か」

 大学入試に対する大きなハードルとしてのセンター試験。そのセンター模試作成直後のこともあるのか、横綱の二文字が今日の城野には随分と重く感じられる。期待と重圧の中で、横綱の前段階である大関になれなかったことに本人も歯がゆい思いであったろう。素質に恵まれ、努力を絶やさないのに目標を達成できない。この不手際は、前戸の言を借りれば方法論の欠陥ということになる。

 ―――しかし視点を変えれば‥‥‥。

 城野には運が決定的に重要な要因であるように思えてならない。彼の生活体験に根差す分析であり、その意味では単純な運命論とは決定的に違っていた。確かに方法論は無視できない要因であることは認める。問題はその前にある〈何か〉に着目するか、それともそれを無視するかなのだ。城野は〈何か〉を認めるが、前戸はそれを捨象するか認めてもそれに重きを置かない立場だった。しかし前戸が決定的要因として重視する方法論とて、あるとき突然思い付いたり、偶然出会った人物に教えられたりすることが多く、この方法論の前にある何かに独立の要因性を認めるか否かで、城野と前戸の差が生まれるのだ。

 城野によれば、人が人生の三叉路でどちらの道を選択するかはあらかじめ決まっている―――これが両親を亡くして以降、城野の生活体験から得られた結論らしきもので、大学紛争による東大入試中止に際しても、石河のように受験校決定に迷うことはなかった。

 ―――成人して以降、俺の最大の三叉路は‥‥‥。

 昭和四十七年に操の自殺未遂をローカル紙で読んだときだった。もしあの記事を読まなかったら、おそらく大学に残り今ごろは少なくとも助教授にはなっていただろう。その自信もあった。しかし、あの記事を読んでしまった。新聞社で聞いた病院へ駆けつけ、粗末なベッドで昏睡状態の操を見たとき、自分はこの女性と運命の糸で結ばれているのではないかという気がした。大袈裟にいえば、操の生死は俺の手に委ねられているのではないかと実感してしまったのだ。

「人生に絶望して死の淵を彷徨っている女を、生の世界へ引き戻せるのはお前だけだ。死に瀕した哀れな女を見捨てるのか、それとも手を差し伸べるのか。さあ、どうする」

 と、運命が選択を迫っているように思えた。

 ―――そして、俺は決めたのだ。これからの人生は、この女性と共有しようと。

 あのまま俺が病院を立ち去っていたなら、確実に操は死んでいただろう。サジを投げた医師の態度や、不十分な設備を見ればすぐ分かった。操の転送については救急病院と少しもめたが、結局は金でカタがついた。一つのことを選択すると、その後の全てがまるでドラマの筋書きのように運ばれて行った。

 ―――俺や操が生まれるずっと以前から計画されていたかのように。

 もしあの時、操を選んでいなかったら、学者としてほどほどの研究成果は残せただろう。が、操との生活で得られた、ほろ苦い甘さや深い人生の味わいは多分、体験できなかっただろう。

 ―――これで良かったのだ。

 納得するように頷くと、城野は立ち上がって向かいの部屋のドアを開けたのだった。


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