第14話 ナースの証言
遼子の父の車に感じた評価を、前戸は宝塚のマンションにも感じ始めていた。遼子の世間体を考え、当初は足が重く向きがたかったのに、たびたび通い出すと、やはり彼女の芦屋のマンションとは違うのだ。フロア面積が三倍という、単なる空間的広さだけの理由ではなかった。「快適」などの、単純な表現でカバーしきれるものでもなくて、遼子の父の車に対し、「やはり高いだけのことはあるな」と呟いたときの、あの感覚が正にそうだが、文字にする術を前戸は知らなかった。いずれにしても、遼子も前戸も九月以降、宝塚のマンションへは以前とは比較にならないほどの頻度で足繁く通うようになっていた。
十五日も夜遅く自宅を出て宝塚へ向かった前戸だったが、日付が変わる直前に、かろうじてマンションへ着くことが出来た。月末に行なわれる模試の問題を、自宅で作り終えたのが九時過ぎ。雑用を済ませ、母が作ってくれた遅い夕食を食べ終わると、すでに十一時を回っていた。高速をずいぶん飛ばしたつもりだったが、やはり一時間近くかかるのは距離からすれば致し方ないのであろう。
ホルダーに付けたキィーで前戸が木目調細工のチタンドアを開けると、遼子がリビングのテーブルで専門書に目を落としていた。菱形様に広がる六畳近いロビーの左手は遼子のいるリビングで、クリスタルドアが仕切りだった。
「‥‥‥ほう」
ガラス越しに遼子を眺め、前戸は小さな声を漏らした。湯上がりの彼女はタオルで髪を束ね、タオルケットに身を包んでいた。前戸に気づくようにとの配慮であろう、玄関向きで読書する容姿は豊満な神々しさを漂わせ、ゆったりとした襟からたおやかな膨らみがこぼれていた。ロビーにたたずんで、クリスタルガラス越しに絵になる構図を眺めていると、
「あっ! 達夫さん」
読書に熱中していたヴィーナスも、ようやく人の気配に気づいて顔を上げた。
「遅かったのね」
椅子の背もたれで体を伸ばしながら、至福の笑顔で前戸を迎える。ブラを着けていないので、豊かな胸の小さな膨らみがセクシーで、両の手で抱きしめたくなる。
「あーあ、肩が凝っちゃった」
遼子は頭を垂れて、右の項を左手でトントンとたたいた。彼女は最近、書斎を使わずにリビングで専門書を読むようになっていた。
「あそこで読んでると、お婆ちゃんになるような気がするの」
と、無邪気に笑っていたが、暗い内容の書物は、リビングで読むほうが気が滅入らないのだろう。
「浪速帝大病院の手術室における人員構成は、一体どの程度なんだろうか」
遼子の向かいに腰を下ろすと、前戸はいきなり深刻な話題を持ち出した。
「体を開いてガーゼを見つけたときの構成ね。‥‥‥よく分からないわ。セクションによって違うから。でも小外のオペ場だったら、だいたい五人くらいかしら。ドクター三人、看護師二人の。看護師というのは現状では女性が大半だから、ナースと思ってくれればいいわ。つまりね、ドクターは執刀医でしょ、それに第一助手と第二助手。ナースは直接介助と間接介助の二人。直接介助というのは、執刀医にメスを渡したり彼の汗を拭いたりするの。間接介助のナースはガーゼに含まれる血の量を計って、輸血量を計算したりする役目ね。大学病院だから、他に見学者が付くこともあるわ。一外のオペ場は五人より、もっと多いでしょうね」
読んでいた専門書と同じ暗い話題に、遼子は一瞬顔を曇らせたが、苦笑いを浮かべ溜め息を吐くと、ゆっくりと分かりやすく前戸の質問に答えた。
「実は少し前、あるナースに会ってきたんだ」
遼子の説明が終わると、前戸はおもむろに口を開いた。
「小児外科のナースなの?」
「いいや、一外だよ。しかし彼女は、今回の医療ミスを知っていたよ」
前戸は遼子の瞳を見つめて意味有り気に微笑んだ。
「そのナースは医療ミスの存在を認めたのね!」
遼子は思わずテーブルに身を乗り出した。
「そうだ。でも行なわれたセクションを聞くと、『考えさせてください』って言うんだよ。そこで、しばらくして彼女に電話すると、今度は、『そんなミスはなかった。私は言った覚えはない』と言い張るんだよ」
「怖くなったのね」
遼子は顔をしかめた。
「ところでね、彼女は長い間、小児外科の医者と交際していたんだ」
「ということは、ミスがあったのはやはり小児外科ということね」
ほぼ間違いなく遼子の推察通りだと、前戸も考えている。
「もし小児外科と仮定して、彼女の交際相手が第一助手か、それとも第二助手なら、彼がそこへ入ったとき以降のミスということになるね」
「いつ頃、小児外科に入っているの?」
「それがね、好都合なことに、今回のミスが行なわれたと思われる時期以前に入っているんだ。今度、正確な年度を履歴から調べておくよ」
「ええ、お願いするわ。‥‥‥でも、非常に展望が明るくなってきたわね。それで、その小児外科医は何という名前なの」
遼子に名前を伝え、前戸は二人が西区のマンションで半同棲生活を送っていたことを付け加えた。
「ふぅーん。結婚まで約束していて、そんなひどい捨てかたをしたの。ドクター失格ね。残念なことに、そういう幼児的な男性ドクターが結構いるから、困ってしまうのよね。父だったら、小学校か幼稚園へ行き直せ! って怒鳴りつけるんだろうけど、医師免許剥奪が最良の策ね。日本の医学界のためには。‥‥‥さあ、コーヒーでも飲みましょう」
不快なことを忘れるため、遼子はコーヒーを入れにキッチンへ立ち上がった。
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