第11話 勇み足
子供の頃というと既に一昔や二昔を超えてしまったが、あの頃、夏の月は六~八月の三カ月で、九月は半ばを過ぎると急に秋らしい気配が漂い、透き通る青空を高々と見上げたものだった。そう、赤トンボを追って。ところが昨今は気候も気紛れになってしまい、特に今年は九月に入っても一向に暑さの和らぐ気配がなく、七日の金曜日も日中の最高気温が大阪で三十二度という、呆れんばかりの高さだった。ただ湿度が下がっている分、八月に較べ過ごしやすいといえばいえなくもなかった。
「前戸先生。これはこれは、お早ようございます。これ、城野先生からの伝言です」
昨夜、六甲のRホテルで遼子と過ごした前戸が、一時前に予備校に着くと、山路がロビーから愛嬌たっぷりの笑顔で迎える。
「うん、こんにちは。ご苦労さん」
エレベーター前で、前戸は苦笑いを浮かべ、メモを受け取った。夕食の招待だった。
―――はて?
今日は金曜で、操は昨日帰って、大阪にはいないはずだが。
―――まさか城野が料理をするわけではあるまい。
自分で料理するくらいなら、おそらく外食に出るだろう。お招きにはもちろん与るつもりだが、親友の料理姿が思い浮かばず、前戸は首を傾げながら四階でエレベーターを降りたのだった。午後の二コマの授業をこなし、いつものように大阪市立大学学術情報総合センター近くに車を駐め、歩いて城野のマンションへ向かう。五O五号室のチャイムを鳴らすと、
「はーい」
操の声が室内で朗らかに弾んだ。訪問客に疑いを持っておらず、操はインターフォン越しに尋ねもせずドアを開けた。
「いらっしゃい。ご無沙汰しています」
微笑みながら前戸を迎え入れる。白い麻のブラウスと少し長めのグレーのスカートが上品で、よく似合っていた。いつ見ても魅力的だが、今日ははっと引き込まれるほど生き生きとして、肌の色つやも良く張りがあった。
「やあ、本当にご無沙汰」
前戸は操と視線を合わせ、苦笑いを浮かべてしまった。今朝別れた遼子と好対照で、どうしても較べてしまうのだ。豊かな肢体ときゃしゃでスリムな体。こう比較すると、
「それじゃ、私は知性も教養もない、単なるグラマーだけみたいになっちゃうでしょ!」
と、遼子が怒りそうだが、いずれにしても前戸が持つ操のイメージは、知性的な教養人としての、英国の職業婦人だった。
「操さん。あまりここに長くいると雑誌に嗅ぎつけられて、〈鈴木操の愛の巣〉なんて写真が載るかも知れないよ」
並んで廊下を歩きながら、テレビと違うしとやかな操を、前戸はからかってみたくなる。
「でも、ご近所の方たちは全然気づいてないみたいですわ。よく似た人がいるとでも思ってらっしゃるだけじゃないかしら。それに、出歩くときはいつも眼鏡をかけて、帽子を被りますもの」
操は笑顔で軽く受け流し、前戸の話題に乗ってこなかった。
「さあ、どうぞ」
居間へ入ると、奥のキッチンで城野が焼肉の準備をしていた。
「お言葉に甘え、御馳走になりに来たよ」
前戸が挨拶代りの礼を述べると、
「何の、大したことは出来ないよ。―――ところで、今日の朝刊を見たか?」
城野の笑顔はすぐ真剣な表情に変わってしまった。
「うん。今日、予備校で見たよ。一面トップだったな」
前戸も口をへの字に曲げ、険しい仕草を浮かべた。
話の腰を折って恐縮だが、ここで読者に了解願いたいのは、紙面の現在では既に臓器移植法の成立を見ているが、城野と前戸の会話は同法制定以前のもので、これから扱う阪大(大阪大学)病院に関する記事も臓器移植法が生まれる前のものであることである。臓器移植法の下では、脳死者からの臓器移植は一定の厳格な要件下で認められることになったが、ここにいう脳死は、これから扱う事件で阪大病院が行なった認定とは比較にならないほど厳格な手順を踏むことが義務付けられているのは注意を要する。
さて阪大病院に関するこの日の朝刊に戻ると、心停止はないが脳死と判定したドナー(臓器提供者)を、司法解剖前に右足を切断して、病院側が保存液を注入していたという内容のものだった。この行為に対して、医学部倫理委員の高名な学者が批判しているだけでなく、有名な刑法学者も傷害罪又は死体損壊罪の成立を示唆していた。また別面では、東大医学部の患者の権利検討委員会のメンバーで、遼子が高く評価する女性医師が阪大病院の行為を激しく非難していた。彼女が問題としているのは次の二点であった。まず第一は、脳死を死の判定基準とすることにつき、いまだ十分なコンセンサスがないのに、強引に死と判定し既成事実化しようとした阪大病院の横暴さである。そして第二のものは、医師の独断に対するチェック機能の欠如だった。前戸はいずれも傾聴に値する問題提起だと思ったが、特に関心を持ったのは第二の点だった。医療現場では医師に大きな権限が与えられているが、そのような権限に対する歯止めが必要なことは、過去の政治の歴史が教えている。
「人間っちゅうのは必ず間違いを犯すもんやねん。それが大きな力を持てば持つほど多なるんや。せやから、国家権力を立法、司法、行政の三権に分けて、それらの抑制と均衡で国民の人権を守ろうという政治システムが三権分立やねん。これは色んな分野にも応用できるんやで。君らも大きな力を持ったら注意して、謙虚になるんやで」
記事を読んだとき、前戸の頭に浮かんだのは中学時代の恩師で、剣道部顧問の顔だった。
「朝刊を読まずに出勤したので遼子節を聞けなかったが、恐らく今ごろ、病院ではミーティングが抗議集会に変わっているだろうな」
朝刊をテーブルに戻し、前戸は向かいに腰を下ろした城野と操に苦笑いを浮かべた。
「移植に積極的な医師はね、とかく移植を必要とする患者さんに目が行きがちで、摘出される患者さんは無視されがちなのよ。ここでは彼らは弱者で、人権も治療による社会復帰の可能性も奪われてしまっているのよ。私の患者さんのチーちゃんたちと一緒だわ。そりゃあ移植が必要なことは、私だって認めるわよ。でも今の勢いは、弱いものの権利や回復可能性を余りにも蚊帳の外へ置きすぎるようで、怖い気がするの」
移植を待つ患者や家族からは当然、異論が出ようが、遼子の主張も正論で、簡単に妥協点を見いだし難いところが移植医療の難しさを物語っているのだった。
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