第10話 見忘れていたセクション
「先生。前戸先生」
十二時半過ぎに前戸がYMCC予備校へ着くと、一階ロビー奥の事務室から山路が呼び止めた。
「先生、電話がありましたよ」
近づいてメモ用紙を恭しく手渡す。どうやらからかいモードのつもりらしい。
「うん」
苦笑しながら受け取ったメモ用紙を開いてみると、ナースをしている初田の名前が書いてあった。携帯の電源を切っているので予備校へかけてきたのだろう。四階の自室へ入り、メモ用紙の番号へ電話をかけると、
「はーい。私です」
愛嬌のある朗らかな声が返ってくる。
「先生、医療ミスのことで少し分かったことがあるんです。今日は一日空いていますから、お会いできません?」
よほど重要な情報でも手に入れたのか、話したくてうずうずする仕草が受話器を通して伝わってくる。四時限目以降の予定はないと告げると、
「それじゃ、この前の喫茶店で四時半に待っていますから」
控え目な彼女には珍しく、自ら場所と時間を指定して電話を切った。三時限目の数Bと四時限目の英Rの授業を終え、定刻に喫茶店に着くと、初田はすでに来ていて店の奥でコーヒーを飲みながらファッション雑誌を読んでいた。買い物帰りなのか、左手の椅子には衣類店の大きな紙バッグが置かれてあった。
「やあ、わざわざありがとう」
向かいに腰を下ろし、出向いてくれた礼を言う。ウェートレスの注文伺いが済むと、
「先生。友人が、この前の話によく似た事件を聞いたことがあるって言ってました」
初田は待ち切れない様子でテーブルに身を乗り出してきた。
「いつ頃のことだろうか」
前戸もおしぼりを持つ手を止めて興味を示す。
「ほん、二、三年前のことだと言ってました」
「ほう!」
松井の聞いた話と、時期が符合するではないか。
「友人が聞いた相手というのはその頃内科のドクターと付き合っていたんです。でもミスは内科で行なわれたとは考えられないでしょう。あそこでは体を開いたりしませんから」
「うん」
前戸が頷くと、初田は得意満面笑顔で続けた。
「あのね、その内科のドクターは、その人以外に別の女性とも付き合っていたんです。そして、ちょっとややこしいんですが、その女性は一内(第一内科)のドクターと並行して一外のドクターとも付き合っていたんです」
混乱しないようにとの配慮であろう、初田は溜め息を吐いて一呼吸置いた。
「更に複雑なんですが、その一外のドクターというのは小児外科のナースとも付き合っていたんです」
前戸の頭の中では、一内→一外→小外(小児外科)という流れが出来上がっていて、彼女が思うほどの混乱はないのだが、小児外科という言葉に強いアクセントが置かれたので、これがキィーになるセクションであろうと咄嗟に判断してしまった。
「私たちの世界は両極端なんです。本当に真剣で真面目なドクターやナースがいるかと思えば、首を傾げたくなるような人たちもいるんです。でも大半は真面目なんですよ。ドクターもナースも仕事に追われ、遊ぶ時間は余りありませんから。大体、普通の労働者に較べると無茶苦茶な労働条件なんですから」
弁解の必要を感じたのか、初田は愛嬌顔を曇らせ本題から外れ、脇道へ入り出す。
「どこの世界にも色んな人種がいるから。でも小児外科というセクションがあったんだ」
「ええ。浪速帝大病院の小児外科は、一外から分かれたんですが、一外と一体みたいなとこがあるんです」
本題に引き戻され、初田は再び身を乗り出して小さな声で話し始めた。
「先日うかがった話は、ひょっとして小児外科で行なわれたミスじゃないかと思うんです。小児外科のナースが一外のドクターに話し、そして彼が自分の愛人に話す。その彼女も内科のドクターに話して、彼も付き合っていたナースに話したとは考えられません?」
すでに推理に対する裏づけを得ているのか、初田の顔や口調に自信が漂っていた。
「ずいぶん詳しいんだね」
話に出てきた四人の人物―――第一内科と一外のドクターに、彼ら二人をかけ持っていた女性と小外のナース―――の名前をメモ帳に書き込んで、前戸は初田に微笑みかけた。
「狭い世界だから、誰と誰が付き合っているかはすぐ分かるんです。御当人たちは分からないように付き合っているつもりなんでしょうけど、色んなところから情報が漏れてきますから。‥‥‥それに、噂話は結構ストレスを解消してくれるんですよ」
バツが悪いのか照れ笑いを浮かべ、初田はショートヘアの頭をかいた。
―――どうやら、ガーゼ失念ミスが行なわれたのは小児外科のようだな。
見忘れていたセクションが、前戸の頭の中で具体的な実像を形成し始めていた。小児外科に収束させれば、全ての情報の辻褄が合い、理に叶っているのだ。
「ドクターは手術ミスについて滅多に私たちには話しませんけど、寝物語りに話す人は結構いるみたいですよ」
顔を赤らめ初田が話す言葉も、前戸の確信を強めるものだった。
「彼らに会っても、手術が行なわれた年月日や遺族の名前は教えてくれないだろうね」
無駄を承知で敢えて聞いてみた。
「たぶん言わないでしょう。‥‥‥でもね、先生。ひょっとしたら、喋るかも知れない人を知ってますよ」
「誰だい」
自信有り気な初田の笑顔に引き込まれ、前戸は思わず身を乗り出してしまった。
「あのね、小児外科のドクターと付き合ってたナースを知ってるんです。彼女は彼と結婚を前提に四年近く付き合っていたんだけど、二年前に捨てられたんです。だからそのドクターのことは余り良く思ってないから、医療ミスを彼から聞いて知っているんだったら、きっと話してくれると思いますよ。だって彼とこんなこともあったって言ってるくらいだから―――」
話が横道にそれて、一向に知りたい名前が出てくる気配がなかった。
「うん。ところで、そのナースの名前はなんていうんだっけ」
仕方なく前戸は話の途中で腰を折って、苦笑しながらナースの名前を聞き出したのだった。いつもより一時間あまり遅れて帰宅すると、母の和子は近所に住む妹と買い物に出かけていて、父が一人で留守番をしていた。夕刊も読まずに二階へ上がり、ベッドに横たわって医療ミスに思いを巡らしていると、
「達夫。晩ご飯が出来たから」
母が階下から呼びかけた。
「うん」
動き易い麻の作務衣に着替え食堂のドアを開けると、すでに両親はテーブルに着いていて、ひっそりと何とも寂しい風情で息子を待っていた。
「先に食べていてくれればいいのに」
父の隣に腰を下ろし、妹が湯掻いた素麺を口に運ぶと、両親も箸に手を伸ばした。三人だけで食事をするようになったのは和江が結婚して以来だから、もう三年になる。
「ビールは?」
「いや、今日はいいよ。‥‥‥親父は?」
「いや。わしもいいよ」
母が先に息子に声をかけるのは亡くなった芙三子の医療ミスが関係しているのであろうか。前戸の積年の疑問で、もしそうであるなら、幼い妹を奪っただけでなく、医療ミスはこの夫婦まで不幸にしてしまったことになる。
―――知らないほうが幸せということはないのだろうか。
年老いてすっかり影の薄くなってしまった父の良一を見ていると、小児外科の医療ミスを明るみに出すことにかすかな疑問が沸き上がってくるのだった。
前戸が両親と三人で静かな食卓を囲んでいる頃、遼子は病院での勤務を終えて駐車場に向かっていた。そして彼女も、医療ミスは小児外科で行なわれたのではないかと思い始めていた。
―――被害者が子供、特に幼児だったら、話の辻褄が合うわ。合いすぎるのだ!
どうして、今まで気づかなかったのだろう。まさに灯台下暗しなのだ。
―――ひょっとして、ICUに入れられなかったんじゃないかしら。
病棟とオペ(術)場を往復した可能性があるのだ。
―――子供、特に幼児だったら、大人に較べガーゼを忘れられたらかなり応える。
それに、何度も体を開くのは医者にとって抵抗があるから、そのままにして経過を見ることも多くなってしまう。一外より小外のほうが、前戸から聞いた話に適合する可能性がはるかに高い。でも、もしそうだとしたら、ますます許せない。両親はミスを知らされていないので、十分な治療を受けたと思って諦めたのだろう。関係者一同、確実に訴えられると覚悟した程のミスだというのに。
―――きっとお母さんは何も知らないで、自分を責め続けているだろう。
母親の悲しみを思うと、遼子は堪らなくなる。
「お気の毒に‥‥‥」
大きな溜め息を吐くと、遼子はゆっくりと病院の駐車場を後にしたのだった。
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