第9話 暗礁
前戸に会った翌週の日曜日、遼子は芦屋高校の後輩と梅田で待ち合わせた。彼は浪速帝大病院第一外科勤務なので、事情を打ち明け協力願おうと思ったのだ。電話で済まそうかとも考えたが、やはり直接会って話すことにしたのは医者の習い性もあるが、後輩の正義感に対する一抹の不安が作用していたのも事実だった。
―――あの時の純真さが今も残っているなら協力してくれるはずだ。
高校時代、シュバイツァーへの憧れを熱っぽく語りながら、二歳上の上級生に震える手でラブレターを手渡した島上を思い浮かべた。
「やあ、熊谷さん。ご無沙汰しています」
行楽帰りの親子連れで賑わう、阪急梅田駅改札に現われた島上は、およそ医師とは思えぬラフで気取りのないスタイルだった。武者眉に垂れ目、色黒の童顔は高校時代そのままだったが、ボサボサ頭に着古したカーキ色のTシャツ、よれよれのジーンズに白のサンダル履きで、父が見れば「ルンペン・ドクター」と呼んだであろう。
「せっかくの日曜日なのに、呼び出したりして御免なさい」
口の悪かった父を思い出して、遼子が苦笑しながら謝意を述べる。
「いいえ。恋人もいないし、どうせ狭いマンションでごろごろしてるだけだから」
遼子の笑顔に釣られ、島上も苦笑いを浮かべ頭をかいたが、
「‥‥‥あのう、お願いというのは」
さっそく用件に取りかかろうとする。
「相変わらずせっかちね。ゆっくり座って聞いてもらうから。さあ、そちらへ」
くすっと笑って、遼子は駅ビル最上階にあるラウンジへ彼を誘う。エレベーターを十七階で降り、人目に付かない、入り口から死角の席に腰を下ろすと、医療ミスにつき出処を明かさず、前戸から聞いた通りの内容をゆっくりと後輩に伝えた。
「‥‥‥ふむ、そのミスは初耳だな」
遼子が話し終えると、島上は記憶をたどるように半眼の眉間にしわを寄せ首をひねった。
「もし一外だったら、一体どのチームのオペだろう? かなり厳重な箝口令がしかれたようだから‥‥‥」
しばらくの間、眉間にしわを寄せたまま、難しい顔で思い当たるチームとスタッフを検討していたが、
「とりあえず親しい友人たちに当たって調べてみますから。現状に不満を持っている者は結構いるから協力してくれるでしょう」
調査を約束してこの問題を切り上げると、島上は自分の興味ある脳死判定の運用状況や一外の教授選に、遼子を引き込もうとする。
「‥‥‥そうね。難しいわね」
遼子は体の良い言葉とポーズで逃げてしまった。脳死判定の運用上の問題点については言いたいことが山ほどあるが、島上と話すべき話題ではないと思うし、教授選にいたっては全くといってよいほど興味が湧かなかった。十一年前の教授選のとき、遼子が一番なってほしかったのは高野久光医師だった。人間的にも尊敬していたが、彼は人工心臓の権威で、移植医主導の一外からはお声さえかからなかったのだ。
「その問題は、またの機会にしましょう。勉強不足だから」
まだ言いたそうな島上をやんわりと制し、五時過ぎに、遼子は彼を残しラウンジを後にしたのだった。
時間が前後してしまったが、前戸は遼子に会った翌日、二外(第二外科)の看護師をしているかつての受講生初田玲子に電話をかけ、時間を作ってもらった。遼子が以前、
「残念なことだけど、ナースのほうが医師より正義感の強い人が多いし、彼女らの方がその正義感を表に出しやすい立場にあるわ。だってドクターは保身を考えると何も出来ないようなところがあるけど、ナースは思い切ったことが出来るもの」
と、言っていた言葉を思い出し、ナースの線からのアプローチを選択肢の一つに加えたからであった。YMCC予備校B1クラスの元受講生だった初田は、薬科大学が第一志望であったが、第二志望の看護学校へ入って看護師をしていた。予備校近くの喫茶店まで出向いてくれた彼女にガーゼ失念ミスを話すと、
「えー! 本当ですか?」
テーブルに身を乗り出し、くりくりとした大きめの瞳を見開き驚きを隠さなかった。一外にたくさんの友人たちがいるが、彼女らからも聞いたことがないと言うのだ。初田の友人たちは病棟勤務だが、もし病棟で起こったのなら噂に上るはずなのに、そんな噂も聞いたことがないらしい。
「ICU(集中治療室)で行なわれた可能性があるから、ICUに勤務している友人に聞いてみます」
興味津々顔で前戸に約束すると、初田は午後からの勤務に出かけて行った。
前戸に医療ミスを打ち明けられた日から二週間後の八月二十七日は、遼子の三十八回目の誕生日に当たることから、二人は二週間振りに宝塚のマンションを訪れた。
「キャンドルの数は十九本でいいんだね」
五十センチの特注ケーキにろうそくを並べながら、前戸が遼子に数を確認する。
「ええ、覚えていてくれてありがとう。‥‥‥でも、あれからもう十九年も経つのね」
キッチンから笑顔で答えたものの、辛かったときのことを思い出して、遼子はしんみりとなる。受験のプレッシャーも小さくはなかったが、前戸か父かの選択は十九歳の娘には耐え難い苦悩であったのだ。
「さぁさぁ、お嬢さん。二十歳になる前の目出度いバースデーなんだから。十九歳の誕生日を祝って、早く主役がキャンドルを消さないと」
前戸はリビングから軽口で呼びかけ、ウエットなムードを晴らしたのだった。
「それじゃ、乾杯」
赤ワインで乾杯して、遼子お気に入りのRホテル特製ケーキを口に運んでいたが、紅茶を入れたのを機に、
「昨日、一外の助手をしている後輩に会ったんだけど」
遼子は真剣な顔で話し始めた。
「昨日の彼の話だと、慎重に調べてくれたらしいんだけど、一外ではそんな話は聞かないと言うのよ。もちろん、松井君に話したという彼の先輩には接触させなかったわ。―――もしね、可能性があるとしたら杉近助教授ではないかと言うのよ。近江医大の教授選に落ちてから、少し無理をしすぎていたように思うからだって」
杉近一也は最近、講師から助教授になったばかりの、浪速帝大医学部生え抜きの心臓外科医である。
「俺が調べた限りでは、杉近氏ではないと思うよ。彼は高校の八年先輩でね、バレーボール部のキャプテンまでしていた人物で、いま問題になっている初歩的ミスはちょっと彼では考えられないね。おかしいと思った時点で、彼なら開胸をしていただろうし。それに近江医大の教授選に落ちたのは彼の能力で落ちたんじゃないよ。近江医大は京大派閥が強いから、京大系の人物がなっただけらしい」
この点は以前、前戸は知人の医師から聞かされてよく知っていた。学閥との関連で、杉近助教授が近江医大の教授選にもれた理由を詳しく説明してから、
「もし杉近氏がミスを犯したんだったら、さきごろ助教授になっていないよ。それに次期教授の最有力候補だぜ、考えられんよ」
問題にならんといわんばかりの顔で、前戸は打ち消してしまった。
「いたく杉近先生の肩を持つのね。高校の先輩だから?」
いつも冷静な前戸にしてはムキになるところが可笑しく、遼子はからかってみたくなり、上目遣いに顔を覗き込んだ。
「そうじゃなくて、客観的に無理だね、杉近さんの線は。確かに一外では彼に対する評価は二分されているが、有能であることは事実だよ。その話しはもう止そう」
前戸は苦笑いを浮かべ、遼子に釘を刺した。高校時代の先輩への思い入れが全くないといえば嘘になるが、自分の実力で落ちたのでないのに、いまだにそれをあげつらうのは聞いていてあまり気持ちの良いものではない。少なくとも遼子には、そんな連中の片棒を担いでもらいたくなかった。
「私の後輩が言うにはね、吹田心肺センターの部長をなさってた、山野久先生に聞いてみたらどうかなって。私の患者さんもよくお世話になることがあるの。心臓ポンプという地味な研究をずっと続けていらっしゃるし、何より山野先生は正義感の強い紳士よ」
遼子は前戸の意図通り杉近助教授の話題から離れたが、新たに名が上がった山野医師も前戸の高校の先輩で、杉近助教授の一年先輩だった。大阪住吉区にある前戸の母校はかつて浪速帝大へ大量の卒業生を送り込んでいた。ちなみに次期教授の最右翼と目されている、大和医大の北町教授も高校の同窓生だった。
「俺もそのことを考えて、山野さんと親しい剣道部OBに一度相談してみたんだが、彼に言われたよ。『山野は、医療ミスを君が調べていると知っても妨害はしないだろう、しかし協力はしないと思うよ。彼はいろんな意味で浪速帝大医学部を愛しているから。吹田心肺センターへ入ったのも、医学部教授前の腰掛けのつもりだったんだよ。ところがその後の事情変更で、心肺センター部長で定年を迎えてしまったんだが‥‥‥』って。―――ま、そんなわけで、山野さんの線は徒労に終わると思った方がよいだろう」
遼子に山野医師に関する情報を伝えると、前戸は足下の鞄からメモ帳を取り出しパラパラとページを繰っていたが、
「ミスを知っている人物に辿り着くのも、容易じゃないようだな。‥‥‥この医療ミスは簡単に明るみに出せると思っていたんだが、認識が甘かったようだな」
ため息まじりにつぶやくと、苦笑しながら顔を上げた。
「‥‥‥難しいわね」
滅多に弱音を吐かない遼子も、今度ばかりは認めざるを得なかった。
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