第8話 遼子の嘆き

 松井に医療ミスを打ち明けられたのが木曜日だから、丁度五日後の火曜日のことである。午後五時過ぎに、前戸は遼子の勤務先に電話をかけた。携帯の電源が切られていて、昼休みに二度、授業が終わって三度かけたが同じ案内が返ってきて用をなさなかったのだ。

「熊谷遼子をお願いします」

 前戸の口調に事務員は家族とでも思ったのだろう、こちらの名前も聞かずに遼子の部屋へつないでくれた。

「はい、熊谷です」

 遼子の澄ました声を聞くと、前戸は可笑しくなる。

「俺だよ」

 声も笑っていた。

「―――あら! 達夫さん? どうしたの、一体」

 勤務先へ電話をかけたことなど滅多になかったので、少し訝(いぶか)っている。

「うん、携帯にかけたんだが、つながらなくて。―――悪かったかな」

「あっ、そうだ。電源を切ったままだったわ。―――いいわよ、丁度時間が空いたところだから。で、用件は?」

「うん。土曜日に会わなかったから、時間があれば食事でもどうかなと思って」

 ガーゼ失念ミスの件で遼子の助力を得たいのだが、まさか電話で話すわけには行かない。

「先日私が誘ったときは、刷り直す本の校正でしばらく忙しいって、私の誘いを断ったくせに」

 部屋に誰もいないのか、遼子は受話器の向こうでふくれてみせる。

「いや、それがね、先程丁度終わったところなんだ。それで」

「それじゃ、すごいスピードで仕上げてくれたのね」

 自分のために予定を早めたと誤解して、遼子は受話器の声が可笑しいほど弾んだ。

「ね、今どこ?」

「出版社を出たとこだよ。新大阪の近くだ」

「私は雑用があって、病院を出るのは、‥‥‥そうね、六時を少し回ると思うわ。どこで会いましょうか」

「Rホテルにするか」

 前戸は六甲のRホテルで、夜景を眺めながらゆっくりとディナーを味わいたかった。

「Rホテルにするんだったら泊まれるんでしょう? それだったら、宝塚のマンションにしない。調べものがあって、今夜、宝塚へ行く必要があるの。ね、お願い」

 明日病院へ持参する書類を宝塚に置き忘れたとのことで、遼子は書斎用に使っているマンションで会いたがる。

「うん‥‥‥」

 前戸は気乗り薄だった。独り身の女医がたまに使うマンション、そこへ通う中年男。住人には興味尽きない噂材料なのだ。

「私のことだったらいいわよ。言いたい人には言わせておけばいいんだから。―――ね、お願いだから、宝塚のマンションにして」

 最後に哀願口調で頼まれると、前戸も渋々ではあるが頷かざるを得なかった。

 遼子の到着時間を考え、前戸は途中、緑地公園のS台予備校に顔を出した。広報担当の下塚副本部長と会い、医学部進学に関する情報交換と、講座乗り入れを話し合う。さすが大手S台予備校で、医進クラスの充実度は目を見張るものがあり、YMCC予備校にとって参考に値する進学状況だった。

「今日は約束があるのでこれで、後日また」

 副本部長に別れを告げ、早々に用件を切り上げたつもりだったが、宝塚へ着いたときは七時をいくぶん回っていた。

 遼子の父はこのマンション完成前に購入予約を入れたが、結局、一度も敷居を跨ぐことなく他界してしまった。妻と老後を送る予定だった場所は、遺産分割の結果、娘の所有となり彼女の書斎代わりの役目を担っていた。

 ロビー奥のエレベーターを八階で降り、キィーホルダーから鍵を取り出し、前戸は八号室のドアを開けた。マンション全体に空調が効いているが、遼子の部屋は温度設定を低くしていて、二、三度涼しかった。

 前戸は広いリビングルームを抜けて、廊下の左奥にある書斎のドアを開けた。この部屋の窓からだと、丁度ガレージが見下ろせる。

 父愛用だった広い両袖デスクには医学書が平積みされていて、中央に原稿がペンを乗せて収まっていた。一カ月に一度、〈障害を持つ子の社会復帰〉というテーマで病院内で発表会があるので、そのための原稿であろう。窓辺に椅子を引き寄せレースのカーテンを開けると、西の空に夕陽が薄く消えかけていた。

 ―――どうしたものだろう。

 浪速帝大病院の医療ミスのことである。閉鎖性が高いだけに、ミスを明るみに出すのは相当な困難を伴う。事実を隠そうとする者と沈黙を守る者、それを明るみに出そうとする者の存在が考えられるが、現在のところミスを明るみに出そうとする者は病院内にいないわけだ。そこで、事実を知りながら沈黙を守っている者を、まず探す必要がある。それにはどうしても病院内に協力者が必要だ。

 ―――とりあえず、この線で行くしかないだろうな。

 ミスを明らかにするためのプロセスに思考を巡らせ、ぼんやりと窓下を眺めていると、遼子の車が帰ってきた。自分を見つめる前戸に気づき、彼女は大きく手を振ったが、その小さく見える姿が愛らしかった。

「どうしたの? 灯も点けないで」

 書斎のドアを開けて、遼子は怪訝顔を浮かべた。玄関へ入ってからヘアピンを外したのであろう、房々とした栗色の髪が肩の上で波打っていた。前戸が抱き寄せると、

「いや」

 遼子は小さく首を振ったが、すぐ力を抜いて体を預けてきた。

「あー」

 激しい口づけと抱擁を交わしてから、前戸は軽々と遼子を抱き上げ、書斎の向かいの寝室のドアを開けた。

「‥‥‥もう! 先にシャワーを浴びたかったのに」

 ベッドに横たわり、前戸の胸に横顔を乗せ、遼子がすねるようにつぶやく。答えずに、前戸が黙って彼女の髪を撫でると、

「ねぇ、もう少しこのままでいたいわ」

 遼子が顔を上げて、ベッドから出ようとする前戸にささやきかけた。

「この安らぎが永遠のものならいいのに‥‥‥。でも現実は厳しいわ。私の患者さんのチーちゃんたちは、何の罪もないのに苦しんでいるわ。―――時々、つらくて堪らなくなるときがあるの」

 遼子は前戸の胸に横顔を乗せたまましんみりとつぶやいていたが、暗がりの中で上体を起こすとタオルケットで体を包んだ。

「以前、操さんに言われたことがあるわ。『あなたは最愛の人とすぐ巡り会えたのに、私はボロボロになって死の淵を見るまで会えなかった。あなたと前戸さんのようだったらって考えると、つらくて堪らなくなるときがある』って‥‥‥。でも、私もつらいのよ」

 前戸の顔を覗き込んで、口を尖らせ左手で彼の胸をつついた。

「うん‥‥‥」

 遼子が「つらさ」を口にするとき、そこには異なる三つの要因がある―――のではないかと、前戸は考えている。まず第一のものは、父親に対する贖罪によるもの。前戸しか見えなかった予備校と学生時代、遼子は両親に激しく逆らい心の赴くままに生きた時期があった。その結果、父は深い心労に陥り、後年の大病の原因を作ってしまったのだ。

 第二のものは、患者である子供たちに対する後ろめたさからくるものではないか。何ゆえにかくも苦しまねばならぬ不条理、健常者として苛酷な現実に立ちすくんでしまうのだ。

 さて、第三のものは一番自信がないのであるが、一種のジレンマがもたらすものではないだろうか。前戸との二人だけの世界に、たとえ自己の分身さえ排除したいという女としてのエゴと、愛する者の子を持ちたいという母性欲求との葛藤が生み出すのではないか。そして今、前戸の胸をつつかせたのは第三のものであろう。

「食事に出る前に、少し聞いてもらいたいことがあるんだ」

 一緒にシャワーを浴び、リビングのテーブルに腰を下ろすと、前戸は医療ミスについてゆっくりと話し始めた。

「‥‥‥」

 話の途中から遼子は苦渋に満ちた表情を浮かべ、左手を額に当てて目を閉じてしまった。

「卑しさが出てしまうのね。そんな話を聞くと怒りを通り越して悲しくなるわ。あなたが英語の時間に教えてくれたように、アクシデント・ウィル・ハプン。事故は悲しいことだけど、起こるものなのよ。でも起こったら必ず責任をとるべきよ。それを遺族に話さずに放置するなんて、悲しすぎるわ。本当に情けない」

 大きく溜め息を吐くと、遼子は肩を落とし悄気(しょげ)返ってしまった。

「政治家のあるべき姿として、第一に立派な政策を持っていること。第二にそれを遂行する能力があること。第三に、失敗すれば潔く責任をとることだって、おっしゃってたでしょ。私はそれにならって、医師のあるべき姿をパタン化しているの。まずね、第一に高い理想を持っていること。大きくは人類の福祉だけど現実には患者さんの健康や社会復帰の手助けね。第二に、その理想のために最善を尽くし、日々の生活を厳しく律して行くこと。第三に、ミスを犯したら潔く責任をとること。そりゃあミスを認めて責任をとることは辛いでしょう。でも信頼して命を委ねている患者さんに対する義務よ。信頼にもとる行為をしちゃいけないわ。そのために高い給料と尊敬が与えられるんじゃないの。高い給料と尊敬を守るためにミスを隠すのはあべこべだわ」

 ここまで一気に喋ってから遼子は目の前のアイスティーのグラスを取り上げ口に含んだ。

「俺のほうも独自のルートで調べてみるから、君も調べてみてくれないか。スパイみたいな真似をさせて悪いんだが」

 前戸もグラスを持ち上げると、言いにくそうに本論に入った。

「いいわよ。そんなことなら、いくらでも協力するわ。―――でも、いつごろのことか分からないの?」

「松井の先輩は、数年前にミスに立ち会った人物に聞いたらしいから、そんなに遠い昔というわけではないだろう」

「ふうーん、ごく最近の出来事じゃなかったのね。年月が経てば経つほど証拠が散逸したりして難しくなっちゃうけど、でも今こうして私たちの前に現われたということは、見えざる手が作用しているのかも知れないわ。‥‥‥ひょっとしたら、達夫さんの妹さんが導いているのかも知れないわね」

 父愛用の万年筆でメモ帳に記入しながら、遼子はなぜか前戸の膝に抱かれた幼い妹の写真が脳裏に浮かぶのだった。


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